02
「ニナ、あなた今日もエリオスのところに行くの?」
「うん」
もの言いたげな母親の視線をあえて見なかった振りをしながら、用意した籠――中には朝早く起きて用意した軽食がぎっしり詰められている――を抱えて扉に手をかける。
母は私がこうしてエリオスの家へと通うことをあまりよくは思っていないらしい。未婚の娘がけして報われるとは思えない男の元へ毎日通っているのだから、母親としては当然の反応だろう。
だけど、それを理解しながらもなおも刺さる視線を無視し続けて、いったいどれくらいになるだろうか。開け放った扉の先では、まだ肌寒い朝の空気がひんやりと私を出迎える。
あの日、クレアの父親に連れられて対面した彼女の亡骸は、まるでただ眠っているかのように綺麗だった。
エリオスの家に向かう前に家の手伝いで使いに出ていた彼女は、通い慣れていたはずの道で足を滑らせて階段から落ちたらしい。顔に傷一つつけずただ後ろへと倒れ、石造りの階段に頭を打ち付けたクレアは気を失って、近くの診療所に運び込まれて、それからもう二度と目覚めることはなかった。
彼女を使いに出した母親は何度呼びかけても目を開けない娘に耐えきれず失神して、まだ幼い二人の弟たちは冷たくなった姉を前にただただ泣き叫んだ。
そしてたった一人一家の長として多少の冷静さを持ち合わせてた父親は、離れた町へと嫁いだ長女の他にもう一人このことを伝えなければならない人物を思い出した。私たちがクレアに会えたのはなにもかもが終わってしまった後のことだ。
ふざけた話だと思う。
こんなにも家族に、エリオスに愛されていたクレアは本当にあっけなくこの世を去ってしまったのだ。もし本当に神様がいるのだとしたら、私はこんなにも早くクレアを連れ去ってしまったその存在を恨まずにはいられないだろう。
だって、私だってクレアのことを愛していたのだ。
人見知りであまり人としゃべるのが得意ではなかった私は、小さな頃から何度もクレアの存在に助けられてきた。秀でたものもなく、つまらない私の話をいつだって笑顔で聞いてくれる女の子はクレアだけだったし、少なくとも私はクレアのことを一番の親友だと思っていた。
少なからず抱えていた羨望と嫉妬、だけどそれ以上に私は彼女のことが大好きだったのだ。
呼びかけても応えず、血の通わない白い肌をしたクレアをまざまざと見せつけられて、私はただ泣き崩れることしかできなかった。
そして、エリオスは。
子どもの頃からずっと一緒に育ってきた少女の死にしばらく動転していた私は、私よりもよっぽど心を抉られたはずの彼の様子をさほど詳細に記憶しているわけではない。
だけど最愛の少女を失ったはずの彼は、クレアが土の下で眠ったあとも涙を一度も見せることなく――ただ昏い瞳と血を失ったような顔色でどこかあらぬ場所を凝視していた。
まるで、彼も死の世界へと旅立ってしまったみたいに。
*
「……おじゃま、します」
戸を叩いたところでひっそりと静まり返った家から返事がないのはいつものことだ。
だけどいつまで経っても慣れぬ罪悪感に苛まれて、こわごわと声をかける。当然、反応はない。
クレアを失ったあの日から、エリオスの生活は変貌を遂げた。
研究を生業にしていた彼はもともと家の外へ頻繁に繰り出すような質ではなかったけど、最近に至っては出歩くことすらなくなってしまった。私が最後にエリオスと会ったのは、クレアが亡くなってからそう経っていない頃のことだったはずだ。
町中から愛されていた少女の葬儀を終えてしばらく、ようやく私の気持ちも落ち着きはじめた頃、エリオスのことが心配になって彼の家を訪ねたのだ。
エリオスには母親がいない。体があまり丈夫ではなかったために、エリオスを出産してまもなく亡くなったのだと聞いている。
まだエリオスが小さな頃は彼の祖母が亡き母と留守がちな父親の代わりに彼の面倒を見ていたが、その祖母も彼が王都の学校へと入る前に亡くなってしまっていた。行商人である父親はクレアの訃報を聞いて一度家に戻ってきていたが、またすぐに町を発ってしまったようだ。
だからまるで死人みたいな顔色をしていたエリオスの姿を思い出して、妙な胸騒ぎを覚えた私は不安に襲われながら私の家からほど近いその家の扉を叩いた。久しぶりに見たエリオスの姿はまるでなにも食べていないかのようにひどく痩せていて、不安が的中したことに動揺したのを覚えている。
ただ死んでいないだけで生きる気力をすべて失ってしまったようなエリオスが心配で、彼の家に食料を持って通うようになったのはその頃からだ。
私が通い始めてから数日間はただぼんやりと過ごしていたエリオスは、いつからか研究用の仕事部屋に籠るようになってしまった。そうして、彼が人前に姿を現さなくなってから月が巡ること三度。そうなってしまったきっかけがなんだったのか、通う私が煩わしくなったのだとは思いたくないけれど。
朝とは思えない程に暗い屋内にひっそりとため息をついて、エリオスがいるであろう研究部屋へと視線を投げる。防音処理がされているらしいその部屋からはなんの音も聞こえず、その中にいるはずの人間の気配すら感じ取ることはできなかった。
ただ前日に置いていった食料が減っていることにほっと息をついて、持ってきた籠の中身と入れ替える。だけど彼の無事を確認出来てなお付きまとう不安に、またため息が漏れた。
そんなに心配なら、今すぐにでもあの扉を開けて中にいる彼の姿を確かめればいいのに。
情けない、だなんて自嘲気味に呟いて、だけど実行に移す勇気は欠片もない。
私はあの部屋の扉に鍵がないことを知っている。だけどエリオスに声をかけることに、昏い場所へ独り沈む彼を引き上げようとすることに、どこか私は罪悪感を覚えていた。
本当にバカみたいだと思う。
今はそっとしていてあげたいだとか、傷心の彼につけ込むみたいで嫌だとか、そんな風に言い訳をしたところで自分の心は私自身が一番わかっている。
結局私は怖いんだ。
エリオスにはっきりと拒否されることが怖くて、ただ誰かが――いや、彼自身が動き出して私に助けを求めてくれることを望んでいる。もし私とクレアの立場が逆だったら、きっと彼女はもっと早く彼を外へと連れ出しているだろう。
もしかしたらもう既に彼の前みたいな笑顔を――。
突如響いたバチン、と空気を切り裂くような破裂音にはっと思考の海に沈んでいた意識が浮上した。
「……っ!」
近くで鳴り響いた大きな音にびくりと肩を震わせて、思わず持っていた籠を床に取り落とす。未だなおバチバチと鳴り響く音に暴れる心臓を押さえて部屋を見回しても薄暗い部屋はまるで変わらない様子を私の視界へと返した。
だけど外からでは、ない。
音が聞こえるのは家の中からだ。せわしなく視線を動かしながら音の発生源を探して、ふと私は動きを止めた。
扉の向こうだ。
エリオスが籠っているはずの研究部屋の向こうからその音は聞こえている。
施されているはずの防音効果を突き抜けるほどの音なのか、まるで耳の近くで鳴り響いているかのようなその音はどう考えてもただごとではない。大きな音とエリオスになにかが起きたのではないかという不安に暴れる心臓に刺すような痛みが加わった。
ああ、でも怖いだとかそんなことを言っている場合じゃない。
不安に怯える思考を振り払うように扉に飛びつく。
予想通り鍵のかかっていなかったその扉は、三月の間もためらっていたのが嘘みたいにあっさりと私をその中へと招き入れた。
刹那、青白い光が瞳を刺す。
広い研究部屋の床にまるで火のようにバチバチと爆ぜながら走る青い光は、いつだったかエリオスに見せてもらった魔道具に刻まれた回路みたいだ。
だけど私はその事実に気がつくよりも先に、部屋の中央に立つエリオスの姿に目を奪われる。
青い光に照らされた彼の顔。
その表情を、その姿をはっきりと認識するより前に世界は白に塗りつぶされ――そして私は意識を手放した。