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 翌朝、私はクレアが住む家の近くのベンチでぼうっと座り込んでいた。


 エリオスに会うためだ。


 エリーが確信していると言っていたエリオスの滞在先は、なんのことはない、クレアの家のことだった。それを教えてもらったときクレアの住所も一緒にもらっていたから、こちらから訪ねることもできた。だけどなんとなくここで待っていれば会えるような予感がして、こうして私は待っている。


 それに、エリオスはきっと私とクレアが直接顔を合せることをよしとはしないだろう。

 最後まで一緒についていくと主張していたエリーにも宿で待機してもらっている。心配されているのは正直嬉しかったが、私だけならともかく万が一エリーがクレアに見られてしまえば面倒どころで済まないのは明白だ。


「……やっぱり。昨日君とあいつを見かけたような気がしたんだ」


 ただ穏やかな街並みを眺め続けてしばらく、朝の気配が薄れはじめてきた頃。横から投げかけられた静かな声に私はついとそちらに視線を向けた。

 久々にきちんと目の当たりにしたエリオスは、私が知っているエリオスの姿と何も変わらないままそこに立っていた。


 艶めいた黒髪も、穏やかな瞳も、風に揺れる髪の毛からのぞく翠色の飾り紐も、まるでクレアが生きていた頃と一緒だ。大好きだった笑顔は欠片もその顔に浮かんではいなかったけれど、もう暗闇で見かけたときのように暗い瞳はしていない。


「私も会えると思ってた」


 その姿に安心感と、何故か寂寥感を覚えながら笑う。


「ここにいるってことは全部教えてもらったんだね」


 止めにきたのかと囁くように投げかけられたエリオスの問いに小さく首を振って答えると、彼はそれをどう受け止めたのかしばらく黙り込んで、それからいささかも表情を変えずにもう一度口を開いた。


「……俺のしたことを許せないって思う?」

「わからない」


 当然その問いに対する答えなんか持っていなかった私は素直にそれを口にする。

 善悪の観点からしたってエリオスが成し遂げてしまったのはそもそも誰もそんなことが出来るとすら考えていなかったことだ。誰かが不幸になるというのならば悪いことだと言えるのかもしれないが、その答えはきっとまだ出ていないしきっと一生出ない。


 例えばもしあの日私が巻き込まれなかったとしても、きっと二人はお互いのどちらかを殺すのではなく世界を交換することを選んだだろう。そのとき、私は入れ替わったエリーをエリオスと違う誰かとして認識できただろうか。知らずに終わった恋心を嘆いただろうか。


 そんなたらればの話だってもう誰にもわからないのだ。


「でも……エリオスらしいって思った」


 言葉の選択はこれであっているだろうか。


「エリオスはいつも自分のやりたいことに全力で、周りの目なんかなにも気にしなかったし、誰も信じていなかったようなことだって本当にやり遂げる。そういうの、すごい、って思ってた」


 悩みながら口に出した言葉がエリオスに正しく伝わっているか不安に思いながらも、結局ここに来る直前になってもエリオスになにを言うべきか決められなかった私の心は今、思った以上に凪いでいた。


「それに、クレアのこと……本当に大切してたから」


 こんなに穏やかな気持ちになれるのは、きっとエリーのおかげだろう。少しだけ現金な自分に呆れながらも、憧れの対象でもあった二人のことをこんな風に思い出せるのは純粋に嬉しい。

 互いを互いに尊敬しあっていた二人はお互いがもっと先へ進むのに欠かせない存在で、二人の間には恋人以上の絆があるように見えた。だからこそクレアを失ったエリオスはあの日から抜け殻のようになってしまったのだ。


 そうだ、だからこそ聞きたかった。


「一つだけ、教えて」


 エリオスの瞳を真っ直ぐに見上げる。


「この世界のクレアはどうしたって私たちと一緒に過ごしたクレアとは違うのに、どうして世界を渡ってまで会いに行こうと思ったの?」


 私が知ってしまえばエリーをエリーとしてしか認識できなかったように、この世界のクレアが私たちの世界のクレアとは違う、同じ思い出を一つも持たない別人であるのはエリオスなら最初からわかっていただろう。

 エリーはその点において私とは違って淡泊に割り切っていたように見えたし、そうであればエリオスだって似たような考えであるのは間違いない。


 エリオスは私の真剣な表情を無言で受け止めると、それから再会してからぴくりとも動かなかった表情を揺らめかせて、笑った。


「……クレアはニナが言うようにすぐ視野が狭くなる俺をいつも引っ張ってくれて、導いてくれたんだ。正直俺がここまで結果を残せたのは全部クレアのおかげだったと思う。

 尊敬もしていたし、愛していた。あの子こそが俺の人生で……幸せそのものだったんだ」


 こちらを向いているのに、私をすり抜けてどこか遠くを見るエリオスの瞳には確かに私たちのクレアの姿が映っていた。


 ふわふわと風に揺られて柔らかくなびく栗色の髪の毛に、新芽のような大きくてきらめく生命力に満ちあふれた瞳。すらりと伸びた手足は華奢で可憐だったのに、クレアは誰よりも強くて生き生きとしていた。

 クレアは気弱でどこに行ってもすぐに馴染むことのできない私にも辛抱強く付き合って、いろんな場所に連れて行ってくれたっけ。最近はエリオスとの間に割り込むのが申し訳なくて一緒に過ごすことは少なかったけど、こんなことになるくらいだったら――さっさとエリオスのことなんて諦めて――もっと色んなところへ一緒に行くべきだったんだ。


 私の大好きな幼なじみ。


 もう、二度と会えない大切な幼なじみ。


「あの子を失ったとき、もう二度と誰も愛せないと思った」


 落とされた囁きに陰が落ちたのはほんの一瞬。


「……だけど、俺はもう一度誰かを愛したかったんだ」


 切なげに笑うエリオスの瞳が柔らかな陽光を受けて銀色にきらめいた。そこに憂いはあったけれど陰なんて一つもないように見えた。

 きっとエリオスをそんな風に思わせたのはクレアだ。彼女はきっと自分を失ったエリオスをあんなに暗いところに閉じ込め続けることを、けして許しはしなかっただろうから。


 ――本当に、クレアはすごい。


 こみ上げてくる全てを押さえ込んで、立ち上がる。正面からエリオスを見上げれば自然と浮かぶのは心からの笑顔だった。


「話、聞けてよかった」


 エリオスは笑み崩れた私の様子にほんの少しだけ驚いたみたいだけれど、私が大好きだった穏やかな顔で笑う。


「さよなら、エリオス。……ずっと元気で、幸せになって」

「ありがとう……ニナも、元気で」


 風が吹いていた。

 春の気配を感じさせるその温かな風は新緑の葉を揺らして、可憐に笑うみたいにさざめいていた。

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