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15

 仕立屋や宝飾店などが建ち並ぶこの通りはけしてひしめき合っているという程ではなくとも、人通りは多い。なのにその姿がまるで浮き上がっているみたいに鮮烈に映ったのは、この八年間で培われた悲しい習性ゆえだろうか。


 こちらにまるで気づく様子もなくゆっくりと離れてゆく後ろ姿。時折隣の少女を愛おしげに見つめる横顔は、確かにエリオスだ。

 それに隣に寄り添う波打つ栗色には見覚えがあった。


 ――ああ、本当にこの世界では彼女が生きているのだ。


 なによりも先に喜びに似た感情が胸の中をぶわりと広がって、つんと鼻をこみ上げる感触に自分が今にも泣きそうなことに気がつく。記憶よりも短く肩口で切りそろえたふわふわの髪を揺らした彼女は、記憶にあるような生き生きとした表情をエリオスに向けながら楽しそうに笑っていた。

 彼女が私と一緒に時を過ごしたクレアじゃないことなんてわかっていたはずなのに、元気な姿を見るだけでこんなにも嬉しくなるなんて私はなにもわかっていなかったのだ。


 衝動に任せて駆け寄ろうと一歩踏み出そうとしたところで、くん、と後ろ手が引かれる。


「っ!」


 頭から冷水をかけられたみたいに一瞬で我に返って、知らず騒ぎ出していた鼓動を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐く。横にクレアがいるのにエリオスに声をかけるなんてことをしたら面倒なことになるのはちょっと考えれば分かることだろう。冷静にならなくてはいけない。


 止めてくれたことにお礼を言おうと振り返って、ぎくりと体を強ばらせる。そこにいたのは顔からすっかりいつもの穏やかさを消してしまったエリーだった。


「エリー……?」


 私が考えなしに突撃なんてしようとしたものだから怒ったのだろうか。

 だけどそんなことで彼が――呆れるのならともかく――怒るだなんて信じられなくて、ただおろおろと掴まれたままの腕と彼の顔とを交互に見やる。


 エリーはそんな私を無表情のまましばらく眺めたあと、私の腕を引いてエリオスたちが向かっていったのとは逆の方向に歩き始めた。当然なんの心構えもできていなかった私は、転びそうになるのをなんとか耐えるのでいっぱいいっぱいで、ただなすがままに彼について行くしかない。


 大通りを外れて、人通りの少ない路地へ入って。


「エリー」


 少し緩んだ歩調に生まれた余裕で呼びかけてみても、彼は応えてくれる気は無いようだった。


「エリー、痛い」


 それならばと少々打算的な気持ちで痛みを訴えてみる。

 それが功を奏したのかどうか、彼は私の腕を掴んだままの手を緩めてやがてゆっくりと立ち止まった。解放された手を引き抜いてほっとする。掴まれた腕は口にしたほど痛みがあるわけではなかったが、無言で引っ張られるのはやはり心臓に悪い。


 周りを見渡せばそこは先ほどまでの活気が嘘みたいに静まり返った場所だった。立ち並ぶ建物は王都に住む人たちの家々だろうか。いつのまにか日没が近づく太陽が落とす茜色も相まって、華やかな都にあるまじき郷愁を漂わせている。


 当然、なにか用事があってここに連れてきたというわけではないのだろう。

 黙ったままのエリーに理由を聞こうと彼を探して、思ったよりも近くにあった黒い瞳にどきりとする。落ちた陰にどうして気がつかなかったのだろう。

 抱きしめられそうなくらい距離を詰めるエリーに思わず二歩、三歩後ずさって、私は気がつけば壁際に追い詰められていた。


 近い。


 相変わらず何度詰められても慣れない距離感にどきどきと心臓がざわめき始める。

 瞳を暗く翳らせるのは不安、だろうか。

 色のなかったエリーの瞳に熱が灯るのがわかって、これからなんの話をされるのか察した私は、エリオスを見つけるまで自分を支配していた感情を思い出してぐっと息を呑んだ。


「ねえ、やっぱり……俺じゃだめなの?」


 絞り出すような声はまるで私に縋るようで、聞いたことのなくらいに弱々しかった。


「あいつじゃないとだめ? 確かに俺はあいつみたいに優秀じゃないけど、髪も瞳も顔も、声も体も一緒だし、性格だって結局のところほとんど似たようなものだろう? 違うところがあれば直すし、それにニナが望むならもう一度研究者を目指したっていい」


 必死でエリーが言い募るそれは、まるで私のためにエリオスになるとでも言っているように聞こえて、そんなことを許すものかとばかりに強く首を振る。その拒絶をどう受け取ったのかエリーは苦しげに眼を閉じると、いっそう私を壁際に閉じ込めるみたいに壁に左手をついた。


「ニナ」


 エリーの長い綺麗な指先がそっと私の左頬を滑って、そのままそっと腫れ物を触るみたいに優しく手が触れる。やっぱり彼と触れあう場所は驚くほど熱くて、まるでそこだけに神経が通っているみたいにどうしようもないくらい私の気を引く。


「ニナ、好きだよ。ずっと側にいて欲しい。君が欲しくて仕方ないんだ」


 エリーの声が鼓膜を震わせるたびに悦びが全身を貫いて身体がぞくぞくと疼いた。ぶわりと空気が肌を撫でるように全身を走る鳥肌がけして不快感からくるものではないのは明白だろう。

 私を見つめる黒い瞳はひどく熱っぽくて、不安ゆえか僅かに震える睫毛が言いしれぬ色香を漂わせている。こんなの抵抗できるはずがなかった。


「エリー……」


 だけどこうやってそれに耐え続けるのも、もう終わりにしなければならない。きっと今この瞬間がはっきりさせるタイミングなのだ。

 静かに息を吸って、ほんの少しの勇気を胸に掲げる。


「……私、クレアがうらやましくてしかたなかった。私だってずっとエリオスのことを見ていて、ずっと近くにいて。なんで私じゃないんだろうって、なんでクレアなんだろうって、何度も思った」


 今となってはもう確かめようのないことだけど、たぶんエリオスのことを好きになったのはクレアよりも私の方が先だ。

 町の子ども達の人気者だったクレアは私やエリオスとは違って引く手数多で、常に一緒にいたわけではなかった。まだエリオスがただの変わった子どもだった頃、クレアがあの空間へ執着を見せたことなかったし、実際さしたる執着はなかっただろう。彼女にとってはやらなければならない家の手伝いを友人と一緒にこなせる場でしかなかったはずだ。


 だけどエリオスが選んだのはクレアで、私は選ばれなかった。


 私の方が先に好きだったのに、なんて証拠もないくせに生まれた恥ずかしくなるほど幼稚な嫉妬心。私がそんな馬鹿みたいなことを考えてしまったのはけして一回ではない。三人の関係を変えるのが怖くてなにもしなかったのは他でもない私なのに。


「エリオスに会いにきたのは、全部終わらせるため」


 いつかエリオスが私を見てくれるかもしれないなんて勝手に期待して、八年間もただ待ち続けただけの愚かな恋。ようやく終わるはずだった、それ。


「それなのにエリオスと同じ色の瞳でエリーが私を見てくれるたびに、エリオスと同じ声で好きだって言ってくれるたびに、どうしようもないくらいに嬉しくてしかたなかった。

 ……あなたを好きになんて、ならないわけがない」


 それが本当にエリーに向けたものなのかわからないからと、けして口に出してはいけないと思っていた言葉は――エリオスにはただの一度も言えなかったくせに――あっさりと零れだして、まるで際限がないかのように後から後からあふれ出した。


「エリーが、好き。……好き」


 口に出すたびに愛おしさがつのるのに、一緒に膨れあがるのは不安だ。


「……でも、考えれば考えるほど、この気持ちが本当にエリーに向けたものなのかわからなくなる。

 ねえ、私はエリーをエリオスの身代わりにしていない? 私のつまらない欲求を満たすだけの道具にしていない? ……あなたは私をニナの身代わりにしていない?

 私もあなたも、叶わなかった恋を互いの向こう側に見てるだけ、なんじゃ、ないかって……そう、思ったら、怖くてたまらなくなる」


 もし私がエリオスと違うエリーを見つけて、傷つけてしまったら。

 もしエリーが彼のニナと違う私を見つけて、幻滅してしまったら。

 互いの瞳に自分ではない自分を見つけてしまったら。


 想像だに怖ろしいそれに、きっと私は耐えられないだろう。


「だから私はエリーの気持ちには――」

 応えられないと、そう言うつもりだった。


 だけどそれを口に出すよりも前に頬に触れていたエリーの指先に無理矢理上を向かされる。私を閉じ込めていたはずの腕に強く腰を引かれて、なす術もなく近づいた黒玉のような美しい瞳が銀色に閃いたのに気を取られたのは、ほんの一瞬のことだった。


 唇を掠めた柔らかな感触。

 すぐにそれがエリーの唇だと気がつけば、わかりやすいくらいに全身が熱を帯びた。

 優しく唇が触れあって、感触を楽しむみたいに下唇を食まれて。徐々に深くなる甘い口づけにぐらりと視界が揺れて溺れてしまいそうだ。


「……は……っ!」


 つい呼吸をするのを忘れて息苦しさに喘ぐと、ゆっくりと唇が離れていく。エリーの視線が私の唇を名残惜しむかのようにそっと舐めて、それから強い光を湛えて私の瞳を捕らえた。


「……俺が君を初めて見たときに、あの子を重ねたのは間違いない。あいつに交渉を持ちかけたのもニナがあの子に似ていたからだ。

 でもそもそもあの子に抱いていた感情が恋だったかなんて今だってわからないんだ。こんなにも愛おしい気持ちにさせたのは間違いなく君だし、俺は自信を持って言える」


 小さな呼吸音が耳朶を揺らす。


「俺は、君を愛してる」


 瞬きすらせずに、真っ直ぐに私だけを見て。ほんの少し前に見せていた縋るような様子はもう欠片も感じさせないようなはっきりとした声だった。


「ねえ、ニナ。好きな人と似た人を好きになることのなにが悪いの?

 ニナは俺をあいつの身代わりにしているかもしれないのが怖いって言うけど、ニナは今俺のことを俺だってきちんと認識してくれてるじゃないか。それ以上なにか必要?」


 そのままそっと抱き寄せられて、私は背の高いエリーにすっぽりと包み込まれてしまう。触れあう身体から伝わる足早な心音は私と彼、一体どちらのものだろうか。


「……こうして今、君が胸を高鳴らせてくれているのは俺でしょう」


 熱も鼓動も溶け合ってその境界なんてないような気がしたけれど、確かにそれはどちらのものでもあるということなのかもしれない。


「もし互いを傷つけるようなことがあればそれは単純に君と俺との問題で、身代わりにしていたかどうかなんてなんの関係もない。俺はあの子の全てを知っている訳じゃないし、君だってあいつの全てを知っているわけじゃない。思っていたのと違うだなんてこと百年連れ添ったって有り得ることだ。

 ……それでももしニナが不安に思うなら、俺と君だけの思い出をこれからたくさん作ろう。あいつより俺との思い出が多くなる頃には、きっと全部どうでもよくなってるよ」


 背中に回る大きな手のひらに込められた力が強くなっていく。


「俺にあの子と違うニナを見せて。ニナも、あいつと違う俺を見つけて。俺を、選んで」


 頭に落とされた声が吐息と共にはっきりと鼓膜を掠めたとき、まるで箍が切れたかのように押し寄せてきた感情の波に僅かにあった抵抗力も奪われて――私はもう流されてもいいと思ってしまった。

 エリーから伝わる熱が愛おしくて、きゅうきゅうと甘く締め付けるような感覚に喜びがあふれ出す。

 未来の自分がなにを考えているかなんてわからないけど、たぶん私は一生エリーとエリオスを切り離して考えることはできないだろう。不安だってすぐなくなるとはとても思えない。


 だけどそれ以上にエリーが言うように、私は私の知らない彼が見たくなってしまったのだ。


「……っ」


 身動きすらとれないような強い抱擁に、それでも私の中にあふれる愛おしさに呑まれて声なんか出せずに必死で頭を縦に振る。腕の中で暴れる私に気がついたエリーが腕を緩めようとしてくれたのに、触れる熱が冷めるのが嫌で私は自分から彼にしがみついた。


「……ニナ、嬉しい。好きだよ」


 子どもみたいな行動に呆れられてもおかしくはなかった。だけど彼の声は喜色に塗れて優しくて、それがますます私の欲求を煽って結局しばらくバカみたいにぎゅうぎゅうとくっつき合ってしまった。




 いつの間にかすっかりと陽が落ちて暗くなった道を二人で並んで歩きながらそっと彼の横顔を見上げてみる。月と外灯に照らされるその顔はどことなくいつもより機嫌がよさそうに見えた。


「エリー」

「なに?」


 私はいつも誰かがこうして与えてくれるのを待つばかりだ。そんな私を好きだと言ってくれた彼に、臆病にも逃げだそうとした私を捕まえてくれた彼に、なにが返せるだろうか。


「その……ありがとう」


 辛抱強く私に付き合ってくれているエリーへの感謝はこんなのでは到底足りないが、なんて言っていいのかわからずに月並みな感謝の言葉だけを告げる。


 エリーは私のその気持ちを察してくれたのか、ただ穏やかに笑っただけだった。ここまで想ってくれるのだから、できる限り不安なんか捨てて少しずつでも想いを返さなければ。

 そう決心して、想いを返す方法として先ほどの口づけをつい思い出して勝手に一人で赤くなる。


 さっきまで拒絶することしか考えていなかったくせに、どうしようもなく浮かれているらしい自分を情けなく思いながら、私は頭を振って気分を切り替えて隅に追いやっていた懸案事項を引っ張り出した。


「……私、やっぱりちゃんとエリオスには会いたいと思う」


 途端、ぴたりと立ち止まって機嫌が良さそうだったエリーの表情もさっと冷えてゆく。

 エリーはやっぱり私をエリオスに会わせたくないのだろう。私がエリーごとエリオスを終わらせようとしていたことに気がついていたのかもしれない。でも今はもう違う。


「終わらせなきゃ。その、……エリーと」

 始めるためにも。


 恥ずかしすぎて後半部分はほとんど空気みたいな音量になってしまったけれど、エリーの耳はそれを正しく受け取ってくれたようだった。少しだけ瞳を伏せて、薄く笑う。


「……わかった。本当はあいつがどこにいるかほぼ確信があるんだよね」


 しっかりと私の目を見て頷いて、それから妙に艶めいた表情で笑って囁いた。


「だけど今晩は、もうだめ」

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