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 慌ただしい一日をなんとかやり過ごし、エリーの言っていたとおり二日後の朝には王都に旅立つための準備はしっかりと終わっていた。


「それじゃあ行こうか」

「うん」


 家の施錠を済ませたエリーがにこりと笑ったのを合図に、わたしは地面に置いていた小ぶりの旅行鞄を持ち上げてしっかりと頷いた。


 未だ春のささやきが聞こえるだけの朝はまだひんやりと肌寒かったけど、旅立ちの朝としては上々の天気だろう。空を見上げれば雲一つない、といえば言い過ぎだけどすっきりとした青空が広がっていて、姿は見えないが平和な小鳥の鳴き声が響き渡っていた。


「乗合馬車の発車時間までまだあるから、ゆっくり行こう」


 ぼけっと空を見上げていた私の横で、しっかりと懐中時計を確認していたらしいエリーは外套の内ポケットにそれをしまい込んでゆっくりと歩き始める。彼とは随分と足の長さに差がある私なので、そう言ってもらえるのはとても嬉しい。


 それに私はこの町から出たことなど片手で数えるほどしかなく、馬車に乗るのもそれこそ数年単位で久々だ。正直に言えば少し緊張していた。王都などの都会では最近馬を使わないで動く魔道具の車が走っているらしいのに、大昔からあるような馬車ごときに緊張するなんて情けない。

 つくづく自分の世間知らずにため息が漏れるようだった。


「それ、持とうか?」

「大丈夫。ありがとう」


 そんなことを考えていたせいか、ヨタヨタしていたのかもしれない。心配そうに声をかけてくれたエリーの提案を、私はすぐさま首を振って断る。すでに鞄に詰め込む段階で荷物の大半を奪われた後なのだ。おかげでずいぶんと小さな鞄を持つことになっていた。


「ふっ」


 これ以上負担を増やすことはできない。ことさら平気だと主張するように背筋をピンと張って見せれば、エリーが黒い髪と肩を揺らしながら小さく笑っていた。その反応がどうにも慣れなくて、私は憮然とした顔を浮かべてだまり込むしかなかった。


 こんなとき、エリオスだったらこんな風に笑っただろうか。

 浮かんだ疑問を打ち消すように首を振って歩くことに集中する。答えなんかでるはずがないのだ。だってクレアを差し置いてまでエリオスの側に近寄れるほど度胸のなかった私は、考えれば考えるほど最近の彼のことをなに一つ知らない。


「ごめんね、ニナ。本当は立派な貸馬車でも借りられたらよかったんだけど」


 つい悪い癖であまり愉快ではない思考の海へと沈もうとした私を見てなにを思ったのか、エリオスがそんなことを言い出した。びっくりして横を歩く彼の顔を見上げれば、その顔にはうっすらと自嘲めいた苦笑いが浮かんでいる。


「そんなの気にしない」

「乗合馬車はあんまり乗り心地よくないよ。乗り継がなきゃいけないし」


 そうは言うが、王都まで貸馬車を借りるとなれば一体いくらかかるというのか。エリーが馬車を繰れるのかどうかは知らないが、御者ごとともなれば庶民の私にはいくらになるのか想像もつかないし、ただでさえ金銭面で甘えきりの現状でそんな贅沢ありえないだろう。


「ほら、ニナ前ちゃんと見ないと転ぶよ」


 なおもぽかんと間抜けな顔でエリーを見上げていると、彼はその笑みを幾分和らげてそっと促すように私の背を押して視線を前へと誘導してくれた。


「……あいつ、ニナの世界だとなにしてるの」

「あいつ……エリオス?」

「ああ」


 すぐに離れていった手のひらを名残惜しく思う自分に気がつかない振りをしながら、エリーの質問にしっかりと答えるべく思案を巡らせる。たぶん聞かれているのはエリオスの仕事のことだろう。


「えっと、私もきちんと理解できてるわけじゃない、けど。新しい魔道具の研究と、開発とか。たぶん国から依頼受けてる? 貴族とか、役人とかエリオスの家に出入りしてるの、見たことがあるし」


 彼の仕事を半ば支えていたクレアだったらもっとしっかり答えられたのだろうが、必死で頭を働かせたところでいかんせんふわっとしか理解していない私にはそれ以上のことを答えられる余地はなかった。つい不安になってまたエリーを見上げてみれば、彼はにっこり笑ってその視線を受け止めて、しっかりと頷いてくれる。


「なるほど」


 満足してもらえるような回答ができたようだ。

 ほっとしてまた前を向けば、いつのまにか乗合馬車の停留所のすぐ側までついていたらしい。視線の先に目印兼休憩所代わりにもなっている小さな小屋と野ざらしになっている木製のベンチを見つける。町の外れに位置するそこには、朝も早いせいか――もしかしたら小屋の中に人がいるのかもしれないが――待っている人はいないように見えた。


 エリーによれば王都まで馬車を乗り継いで二日半ほどで着くようだ。途中二つの町に立ち寄って泊まることになるが、初めての長距離移動となる身としてはほどほどのちょうど良い旅程だろう。

 逸る気持ちに自然と足早になって、すぐに隣を歩いていたエリーを置き去りにしてしまったことに気がつく。振り向くと彼はほぼ歩みを止めてうつむき気味に、なにかを考え込んでいるようだった。


「エリー……?」

「ああ、なんでもないよ。たぶん、もう少し待つね」


 だけど声をかければパッと顔を上げて、笑顔を浮かべて私の横に並び立つ。


「はい」


 そのまま流れるような動作でハンカチを敷いたベンチに誘導されると、気がつけばエリーと肩を並べて座ることになっていた。


「ありがとう」


 なんだか自分が上等な淑女にでもなったような気分にさせられて、面はゆい。体温が伝わってきそうな程近くにエリーが座っていたのも落ち着かない気分に拍車をかけていた。なんとなくそのまま黙っているのが居心地が悪くて私は必死で話題を探す。


「そういえば、エリーは違うの?」

「え?」

「仕事」


 さんざん悩んで、ようやく出てきたのは直前まで話していたことの延長だ。

 鈍い私でもなんとなく気がついていたが、どうやらエリーはエリオスとは結構違う生活を送っているようだった。だからこそ私にあんなことを聞いたのだと思うけど、実際にどんなことをしているのかはわからない。


「あー……」


 興味本位丸出しだったのがよくなかったのかもしれない。どうやら話題選びに失敗したらしい私に、エリーはほんの一瞬だけ気まずそうな表情を見せると――私が慌て出す暇もなく――すぐに小さく笑った。


「……俺は基本、町の魔道具の修理を引き受けてる。制作もたまに」


 それを聞いた瞬間、エリーが浮かべた表情の意味を考えるのも忘れて、脳裏にここに来てから何度も見学させてもらっていた作業の光景が鮮やかに蘇った。そうだ、聞かなくたって私は知っていたじゃないか。


「ランプもあんなに綺麗に直してた」


 つい興奮気味に顔を勢いよく上げてから、少し面食らったようなエリーと目が合って恥ずかしさのあまり俯く。


「えっと、エリオスも昔は町のみんなに頼られてたけど……最近は、キリがないって止めてたみたい」


 特殊な教育を受けないとなれない魔技師の数はけして多くない。特に才能のある人間は王都で花開くことを夢見て田舎で商売をするような人間は稀だと聞いたことがある。


 当然ここみたいな小さな町には常駐しているような魔技師はエリオスをのぞいて存在していおらず、そのエリオスも基本研究に没頭していたから、町のみんなは魔道具が壊れたら王都や近くの大きな街の技師と仲介してくれる商人に預けて修理をお願いしていた。表だって言う人はあまりいなかったけど、正直割高で直るまでに時間もかかったからエリオスに頼めたらと思っていた人は多いだろう。


「でもここではエリーがやってくれてるなら、みんなきっとすごく助かってる」


 そうか、エリーはそっちの道を選んだのか。

 昨日一緒に買い物をしていたときにやたらとエリーに声をかける人間が多かったのはそういうことだったのだ。外に出歩くくらいなら研究ばかりのエリオスだった私の世界ではあり得なかった光景だ。同じエリオス・クレインとして生まれた二人なのにこうして歩む人生にも違いが出るのだと思うと、なんだか不思議な気分になる。まあ、私やクレアに至っては生死すら分かれているのだからそんなの些細な違いとも言える。


 前の世界ではやっかみもあるのか、修理の仕事を引き受けないエリオスのことをお高くとまっているなんて時折悪く言う町の人もいたから、慕われているエリーになんだか自分のことでもないのに誇らしい気持ちになった。


「すごい」


 そうやっぱり彼は、彼らはすごいのだ。

 ああ、でもそんな風にみんなから頼られているエリーを連れ去ってしまって本当に良いのだろうか。すでに止めることは諦めているのに、どうしても浮かぶ罪の意識に似たなにかに頭を悩ませていると、突然横でエリーが勢いよく頭を抱える気配に私はびくりと跳び上がった。


「……はー……」


 ため息というよりもなにかこみ上げてきたものを吐き出すような声だ。怒っているわけではなさそうだけど、彼が何故突然そんな行動に出たのかさっぱりわからなかった私はただおろおろとする他ない。


「エ、エリー?」

「いや、ごめん。本当に、本当に君って……あー……」


 頭を抱えたままのエリーにおそるおそる声をかけてみても、彼はゆるゆると頭を振るだけでけしてこちらを見てくれようとはしなかった。それきり口をつぐんで理由を話してくれる様子もない。


 それからしばらくどうしたものかと焦る私の耳に、遠くから馬車が近づく音が届いた。


「ほら、ニナ馬車が来たよ」


 それを知らせるべくエリーに声をかけようとすれば、彼はいつの間にかすっかりいつもの様子で立ち上がっていた。


 なんだろう、釈然としない。

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