10
「世界を交換すればいいと思ったんだ」
私からすればとんでもないことを言っているように思えるのに、それはさっきまでの彼とはまるで別人のような熱の籠らない声であっさりと告げられた。
「交換、って」
「それが俺とあいつとの取引の理由だよ。俺はニナとニナの世界に。あいつはクラリッサとこの世界に。完全に利害が一致している」
まるで道理を説くように確信めいた声で語られたそれをどう受け止めればいいのかわからなくて、つかの間手の先に感じていた熱を忘れる。だけどそっと手の甲を撫でる感覚に一瞬で感覚が鮮明になって、私は顔にさっと熱が走るのがわかった。
「……本当は君のエリオスの振りをしたまま、準備が出来たらなに食わぬ顔で一緒について行こうと思ってた。でもさすがに状況に無理がありすぎたし、君思ったより早く元気になっちゃうし。ニナ、俺のこと疑ってたでしょう?」
「家から出ちゃいけない理由も嘘?」
ためらいがちにこくりと頷いたあとに、ついでとばかりに気になっていたことを聞いてみる。彼はうっすらと笑うと私と同じようにこくりと頷いた。
「対策もなしに多量の純魔素に当たると体調が悪くなるのは本当。周りに悪影響があるかもっていうのは嘘。毎日やってた処置もハッタリ。最近王都で流行ってるただの魔素使った療養法だよ。純魔素なんて個人差はあるけどしばらくすれば自然に抜ける」
予想はしていたことなのに改めて騙されていたことに少なからずショックを受けて、つい俯くと視界の端で表情が曇るのが見える。
「ごめん。君には最初からきちんと説明すべきだったって、今は反省してる」
そもそも――彼の言うことを信じるのならば、だけど――エリオスがこの世界にやって来さえしなければ、こうして嘘を吐かれることも、それどころか会うことすら叶わなかったのだ。ましてや、自身の命を守るための取引だったと思えば、許しを請われたところで仕方のないことだったと言うしかない。
「でも……ニナと一緒にいられるんだと思ったら、どうしても止められなかった」
私は彼の憂鬱を取り払おうと首を振ろうと慌てて顔を上げて、それから自分のうかつな行動を後悔する羽目になった。
「会って数日足らずの俺にこんなこと言われて戸惑ってると思う。だけど本気なんだ」
好きだよ。
一瞬で視線が絡め取られて、甘やかなささやきが空気に溶け込んで耳朶をくすぐる。
確かにはっきりと告げられた奔流のようになだれ込む熱に溺れすべてを投げ出してしまいそうだ。かっと頬が熱くなって、静まりかけていた心臓がうるさいくらいに暴れ始める。きゅうきゅうと締め付けるような感覚はひどく苦しいのに、どこか甘美にすら感じた。
「ニナ」
「……っ」
手のひらに触れていた長い指先がするりと私の指に絡む。そろそろとなぞるように動く熱にぞくりと身を震わせそうになって、私は必死に首を振った。
確かに私にエリオスを止めることができないのだから、彼と一緒に同じ世界へ戻るのはもう確定事項のようなものだ。だけど、彼の言うことを全面的に受け入れるかどうかはまた別の問題になる。
ちらりと目の前の彼に視線を向けると、そこには見慣れた彼と違わぬ姿が私をじっと見つめ続けていた。さらりと揺れる黒髪も、銀を秘めた黒い瞳も、いつだって眺めては瞳に熱を灯らせていたのは私ばかりだった。
たった数日、だけど過ごした数日は、違いはあっても彼も確かに私の心をざわつかせる存在なのだと知らしめるのには十分だったし、そんな彼に好きだと求められて嬉しくないはずない。ともすれば流されそうになる気持ちを抑えつけるのに私はただただ必死で、今もひどく苦労を強いられていた。
でも私だって、気がついている。
彼が見ているのは私ではなく、彼が好きだったこの世界のニナだ。
結局私は彼にとって死んでしまったニナの身代わりに過ぎないのだ。
そしてたぶんそれはお互い様のことで、きっと私も彼に私の世界のエリオスの姿を重ねている。
考えれば考えるほどそれはすごく歪な関係である気がして、私は彼の想いを喜んで手放しで受け入れる気には到底なれそうにもなかった。それなのに、はっきりと拒絶することができない私はなんて浅ましいんだろう。
エリオスは、どうなんだろうか。自己嫌悪に押しつぶされそうになって、それから逃れるように今ここにはいない幼なじみへと思いを馳せる。
数多に重なり合う世界の構造を読み解いて、よく似た違う世界を、クレアが生きているこの世界を探し当てたのは他でもないエリオス自身だ。エリオスこそ、私たちのクレアとこの世界のクラリッサが別人であると誰よりも理解してるはずなのに、どうして元の世界を捨て去る決意をしたのだろうか。
「答えは今すぐじゃなくていいんだ。だけど考えて欲しい」
どうしようもなく私の心を揺さぶる言葉は、だけど頷いてしまったらきっと後悔するだろう。物わかりのいい振りをして、すべて飲み込んで元の世界へと帰ってしまうには、あまりにも納得できていないことが多すぎる。
「……私、エリオスに会いたい」
色々な感情でぐちゃぐちゃになった頭の中からはじき出されたみたいに、ふとこぼれた落ちた言葉はびっくりするほど素直で幼稚な欲望だった。
「説得は無理だよ」
「わかってる」
暗に無意味だと教える彼を拒否してなおも言いつのる。
「私がなにを話してもエリオスは考えを変えないと思う。エリオスはあの日からきっとずっとずっと悩んでいて、そうやって出した答えを私なんかが変えられるわけがない。だから、あなたと一緒に戻ることには納得してる。
だけど、わからない。結局クレアはクレアじゃないはずなのに、エリオスはそんなのわかってるはずなのに。
それでいいの、とか、クレアじゃないクレアが好きになってくれるかもわからないのに、怖くないのか……とか、エリオスが知ってるクレアと違ったら、エリオスは……どうするの? どうして……」
ただどろどろとした心の内を吐き出すみたいに、衝動のまま動かした口から飛び出したのは案の定支離滅裂な内容だった。それでも泥を少しずつ吐き出していけば、残るのは混じりけのない水みたいに、至極単純な望みだ。
「私が、知りたい」
私になにも話してくれずに遠くへ、本当に遠くへ行ってしまったエリオス。
いつだって知的好奇心の赴くままに瞳を輝かせていた彼の隣に、クレアみたいに並び立つことは到底できなかったけれど、出来ることならばずっと見上げていたかった。
だけどそれさえ叶わぬことならば、せめて。
「知れば、納得する。だって、エリオスが……エリオスと、あなたが決めたことだから」
懇願するように彼を見上げれば、彼はほんの少し見開いていた眦をふっと緩めて笑った。
「ああ、ニナ。君は……」
最後まで言い切らずに虚空に消えていった声に気を取られているうちに、すっと指先から熱が離れてゆく。一瞬それを惜しんでしまったことをごまかすように努めて真剣な表情で見つめ直せば、やがて彼の瞳が諦めたように伏せられた。
「……わかった。俺と一緒に王都へ行こう」
「っありがとう! エリ……オ……」
欲しかった言葉に思わず沸き立って呼ぼうとした名前が、すぐに彼だけを示すものではないことに気がついて口を噤む。間違ってはいないがこのままエリオスと呼び続けるのもややこしいし、なにより複雑な気分だ。
「ひどい。もう俺の名前は呼んでくれないの?」
私の内心を知ってか知らずか――たぶんだいたいわかっているんだと思う――ほんの少し意地悪そうな笑みを浮かべながらのぞきこんでくる彼を恨めしく思いながら軽く睨みつけてみれば、彼はますます楽しそうに笑みを深くした。
「エリオスだと、どっちのエリオスかわからない」
「あだ名でもつけてみる?」
本人は冗談のつもりだったんだと思う。私はエリオスのことをあだ名で呼んだことは一度もなかったし、呼ぶつもりもなかった。この世界のニナがどうだったかは知らないけれど、彼の言動でそう変わらない性格だったであろうことはなんとなく理解していた。
つまりひどい人見知りで、いくらエリオス相手といえども異性を慣れ慣れしくあだ名で呼べるような性格はしていない。
「……エリー」
証拠にそうやって小さな声で呼ぶと、ほんの少し目を見開いて驚いた様子だった。
「ええ、女の子みたいだなぁ。でもニナがそう呼びたいならそれでいいよ」
だけどすぐに破顔してあっさりと受け入れた彼――エリーの反応は、やっぱりエリオスとは少し違うような気がする。エリオスだったらきっと苦笑いを浮かべていただろう。結局は、同じように受け入れてくれただろうけど。
「じゃあ、さっそく王都にいく計画を練ろうか。明日一日かけて準備をすれば明後日には発てると思うよ」
「あの、そういえば、私お金」
「そんなの気にしない。巻き込まれた迷惑料だと思って俺に全部支払わせておけばいいの」
「……ありがとう、エリー」
数日間さんざんお世話になっておいて今更気にしたところで遅いのだが、本来予定になかったはずの王都への旅費をすべてエリーに負担してもらうというのはさすがに罪悪感があった。どちらにせよ元の世界に戻れない限り私に自由にできる金銭など一切ないのだから、エリオスに会いたいなど言い出した時点で図々しいのは本当に今更だ。
まるで気にしていないように笑うエリーに感謝をしながらも、元の世界に戻ったあかつきにはなんらかの形で返そうと少ない貯蓄に思いを馳せる。
気がつけば彼との今後をなんの抵抗もなく考えている自分に気がついて、私はその浅はかさにぞっとした。
彼が私に本当に望んだのは単純に同じ世界へと向かうということ自体ではなく、あの熱を受け入れることなのだというのは私にだって簡単にわかった。だけどエリーは私がうやむやにしてしまった彼への返答を、すぐじゃなくていいという言葉の通り催促する気はないようだ。
ふと向けられた熱を思い出して、騒ぎ出す胸のざわめきを必死で抑えつける。
私がエリーと過ごしたのはほんの数日間だ。私はエリーの生きてきた十九年間をなに一つ知らないし、彼が彼のニナと過ごした思い出をなに一つ持ってはいない。
私が好きなのはエリオスで、けしてエリーではないのだから彼を受け入れることはできない。だけどそうしてエリーを拒否してしまえば、私に彼の側にいる資格はなくなる。
それなのに同じ顔で、同じ声で向けられた想いに沸き立つ喜びにどうしたら罪悪感を抱かずにいられるというのだろう。あなたはエリオスではないのだから想いに応えることはできないと、すぐに言えない自分の浅ましさに、どうしたら嫌悪感を抱かずにいられるというのだろう。
この隙あらば心を支配しようとする醜い感情の正体は、きっとエリオスへの未練だ。エリオスを説得できないと悟ってしまった時点で、永遠に報われる機会を失った私の想いの残滓。
こんな想いは一刻もはやく断ち切ってしまわなければいけない。
王都への旅路は、きっと私の八年間の片思いに終止符を打つ旅になるのだろう。




