09
気がつけば私は数日間過ごしてすっかりと慣れ親しんだ家の居間に座り込み、目の前で薫りをゆったりとくゆらせる紅茶と、テーブルの上に投げ出されるように置かれた自分の手をただぼうっと眺めていた。
あの場からどうやって戻ってきたかの記憶さえないのに、頭の中では最後に鼓膜を震わせた言葉が何度も繰り返されている。だけど脳はその意味をちっとも理解しようとしなかった。
「大丈夫?」
ただ意味を成さない言葉を反芻することしかできない私の耳にどこかそらぞらしい声が聞こえて、ようやく私は目の前に座るエリオスの存在に気がついた。堂々巡りの思考に彼の視線が刺さり、おぼろげながらも状況を理解し始める。
なにか用事があって外出しているはずだったが彼が私をここまで連れ戻したのだろう。しかし告げられた予定よりも随分早い帰宅がどうして可能だったのか考える余裕は私にはない。
「……ごめん、どうせいつまでも騙せるとは思っていなかったから、いっそ全部バレてもいいかって」
だからあえて私を一人にしたのだとでも言うのだろうか。
向かいの席に座って紅茶を傾けるエリオスをぼうっと見やる。どこか投げやりに笑う彼の姿が、なぜだかひどく遠くに見えるようだった。
「あの子は……ニナは天然入ってたからなにも気がつかないまま、丸く収まることもあるかなって期待もあったけどね。まあ、だからといって君まで騙せるなんて都合がよすぎたかな」
その言葉に、私を表すはずの名が持つ響きに、違和感を覚えたのはたぶん気のせいじゃない。
「それは、どう、いう」
ようやく空気を震わせることに成功した口の中はまるで何日も水を飲んでいないみたいにカラカラだったし、未だ混乱の渦に溺れる頭はちっとも今の状況を理解してくれようとはしない。なのにその先を聞くことに恐ろしさすら感じる忌避感に迫られて、私はなにもわからないまま逃げ出してしまいたくて仕方なかった。
それでも、その意味を知らないままでいるのはきっともっと恐ろしい。
縋るようにエリオスを見つめると、彼の黒玉のような瞳がまるで遙か遠くを見るように優しく細められた。
「……ニナが死んでからもう四年も経つ。馬車の事故でね……運が、悪かったんだ。普段彼女が使わない道での事故だった」
意識が薄れる前に聞いた言葉をもう一度はっきりと告げられて、頭をただ巡るだけだった無意味な残骸がゆっくりと形を成してゆく。本当は母と同じ顔をしたあの人が、いや、間違いなく私を産んだ母が、娘を失ったとそう告げたその時からその意味を理解していたのだと思う。
「ここは君が十六年間生きてきた世界じゃない。ニナ・アトリーが十二歳で死んだ世界なんだよ」
自分が死んだと教えられてそれを受け止めることができる人間が、いったいどれほどいるというのか。それに言葉の意味が理解ができたところで、未だ消化できずにいるそれに現実味は伴わなかった。
とんでもない、どこか現実ではない夢の世界での話を聞いているような私の視線の先で、エリオスがここにはいない誰かを愛おしむように笑って、それから長い睫を伏せて瞳を翳らせる。
「通い慣れていた道を使っていたら、ニナは事故に遭わなかったかもしれない。ほんの少し早く歩いていれば、直撃は避けられたかもしれない。御者が猫に気を取られなければ、晴れて視界が良ければ……俺が、あの日ニナと約束していなければ。
……ねえ、知ってた? 世界は有り得た可能性と同じ分だけ、幾重にも重なって存在しているんだって」
私に問いかけるみたいな声は、だけどきっと答えなんて求めてはいない。
証明するようにエリオスの瞳は遙か遠くへと投げられたまま帰ってきてはいなかった。
「……あいつはけして交わることのないはずの世界と世界を隔てる壁を越える方法を見つけたんだ」
「世界と世界を……越える」
エリオスの声を拾って、ただ繰り返す。
口に出して音となったそれは、空気を伝ってまた私自身の耳へと届いてゆっくりとその意味を知らせた。
エリオスの話は荒唐無稽だ。
本当にそんな世界が存在するとしたら、どうして今まで誰も私にその存在を教えてくれなかったんだろう。それはきっと誰もそんなこと知らないからだ。
世界には私が考え及びつかないようなことを思いつく頭のいい人がたくさんいて、仕組みもわからないような技術が今もたくさん生み出されている。そんな人たちが誰も知らないことが、本当にあるだなんて私には到底信じられなかった。
いや、もしかしたらなにかの理由で私たちにはその存在が隠されているだけなのかもしれない。
だけどそんな世界が本当にあったとして――この世界が本当に私が生きていた世界の違う可能性の姿だとして――いったい誰がその壁を壊せるというのか。
もし、いるとするならばそれはきっと、誰もが求めるような人知を越えた才能を持った天才で。
そして、私の知っている天才は。
視界の端で、あの薄暗い静かな家で見た青白い光がちらついたような気がした。
「あいつ、って」
「エリオス・クレイン」
静かな声が響く。
私があの日、開け放ってしまった彼の研究室の扉の先で、青い光に照らされていたエリオス。私は彼の姿をはっきりと見たわけではなかった。だけど何故だか浮かぶその鬼気迫る姿は到底、今私の目の前で私をしっかりと見つめるエリオスの姿とは重ならない。
「君の世界で、君と十六年間一緒に過ごしてきた俺だよ。あいつが世界の壁を越えて、君をここへ連れてきたんだ。もっとも、君が巻き込まれたのは事故だったみたいだけど」
息が詰まって、頭がくらくらとした。
そんな馬鹿なと笑い飛ばしたいのに、ここ数日この目の前のエリオスに対して抱いていた違和感と、先ほど会ったばかりの母の態度をそれならば納得できると頷く自分もいる。なによりあのエリオスならばそれくらいのことやってのけてしまうのではないかという――皮肉にも――私の彼への絶対的な信頼感が、目の前のエリオスの言葉を後押ししていた。
それに私はエリオスが、私たちが生きていた世界を捨ててしまいたいと考えてしまうような理由を知っているじゃないか。
「……エリオスが世界を越えたのは、クレアのため? この世界だと、クレアは」
生きているの?
音に出来なかった私の声は、驚くほどあっさりと落ち着いた瞳に肯定される。
じゃあ本当にこの青年は私が知っているエリオスではなくて、そして私が知っているエリオスは十六年間過ごしてきた世界を本当に捨ててしまおうとしているのだ。
呆然と反芻された彼の言い分は、だけど不思議と私の胸の奥へ奇妙な納得感と共にすとんと落ちていった。
クレアを失ったエリオスはまるで人であることを放棄してしまったかのようにがらんどうで、危うさすら感じるような有様で。きっと彼はクレアの死と共に自身の持つ才能の箍と彼女のいない世界への未練を捨て去ってしまったのだ。
エリオスではない彼の様子を見て、少しでも立ち直ったのだと脳天気に喜んでいた自分が恥ずかしくて仕方がない。それほどまでにエリオスにとってクレアは、私という存在が介在する余地もないほどに大切な存在だったのだ。
ああ、そんなこと最初から知っていたじゃないか。
この後に及んで胸を締め上げる感情に唇を強く噛む。
「……あいつね、俺を殺しに来たんだ」
だけど歯が唇を傷つける寸前、あっけらかんと言い放たれたとんでもない言葉に私はひゅっと喉から変な音を鳴らして呆然と口を開けた。
「クラリッサが生きてるこの世界で、俺と成り代わるつもりだったらしいよ。同じ世界に同じ人間が存在するといろいろ厄介だし、俺が要求を呑むとも限らない。だから、手っ取り早く」
「じゃあ、なぜ? エリオスは今どこに」
「王都だよ。あそこにはクラリッサもいるしね。彼女、今この町にいないんだ。確か二年くらい前だったかな、王都で最先端の服飾を勉強したいって出て行った。両親には家業のための勉強だとか言っていたって聞いたけど、どうかな。ここに戻る気は無さそうに見えた」
確かに元々行動派というべき少女ではあったけれど、エリオスと一緒に王都へ行くのではなくこの町で過ごすことを選んだ、私の知るクレアのことを思い出してなんだか不思議な気持ちになる。やはり世界が違えば性格も変わるものなのだろうか。
ふとエリオスと同じ声で呼ばれるクラリッサという名前になんの色もないことに気がついて、私はなぜかぎくりと体を強ばらせた。脳裏にすぐ浮かぶのはいつだって愛おしげにクレアを呼んでいたエリオスの声だ。
「……あなたは、クレアの、こと」
「ああ、うん。俺は別にクラリッサとなにもないよ」
微かに笑う彼の表情に嘘は感じられない。ただ単純に恋人同士ではない、ということではなく本当にそこに特別な感情はなにもないようだった。
「あいつも驚いていたみたいだけど、むしろ目的がクラリッサだってことにこっちが驚いたくらいだよ。……俺と、クラリッサね」
一瞬浮かんだのは自嘲、だろうか。
ほんの少しだけ皮肉げに歪められた唇はすぐに真面目に引き結ばれて、真剣な眼差しが私へと向けられた。
「だから取引をしたんだ」
「取引?」
さっきまでどこか遠くを見ていたはずの瞳が今ははっきりと私を映している。思わず緊張に息を呑むと、彼はどこか哀しさを漂わせた笑みを浮かべながら膝の上で組んでいた手を広げて、ひとつ、指を折った。
「さすがのあいつも不幸な事故で巻き込んでしまった君をどうこうする気にはなれなかった。当然、元の世界へと帰すのが一番だろう。
だけど世界を越えるには転移者自身が転移装置を起動する必要があって、あいつは君が自分一人で帰ることに協力的になってくれるとは思えなかった。そもそも素人にいじらせるのも心配だしね。
材料が希少なせいで資金的にも入手機会的にもあれをすぐ作るにはせいぜいあと一回が限度で、次はいつ作れることになるかわからない。君を一度元の世界へ送り届けてからもう一度ここへ、というのも難しかった」
ひとつひとつ指を折りながら語られる言葉を、ひとつひとつ飲み込んでゆく。
「誰かが君を元の世界に連れて行かないといけない。それを俺が引き受けた」
「そん、な……」
もし私があの青白い光にのまれたあと目が覚めてすぐ、この話をエリオス本人から聞いていたら。いったいなにを思っただろうか。確かに彼が予想したとおり素直に帰る気にはなれなかったのかもしれない。きっと一度ならずともエリオスを説得しようとしたはずだ。
だけど少し考えればあのエリオスが私なんかの説得に折れるとは思えなかったし、私がこの世界に残ることを選択できるわけもない。結局は選択肢など最初から与えられていないことに気がついた私が折れて一人で帰ることになる、というのは想像に難くなかった。そんなことはエリオスだって簡単に予想することができたはずなのに。
ああ、エリオスは私のことが煩わしかったのか。
深く考える間もなくすぐに腑に落ちる回答を見つけてしまった私は、ひどく打ちのめされた気分になって緩んでいた唇をきゅっと引いた。
ぴり、と走る痛みがこぼれ落ちそうになるなにかを抑え込んでくれるような気がして、そのままぐっと噛みしめる。
すぐにでもクレアに会いに行きたかっただろうエリオスは、お節介にも勝手に世話を焼いて、よりにもよって一番大事なときに部屋へと入ってきた私を見てなにを思ったのか。
今この目の前にいる彼はきっと自身の命を盾にとられ厄介者を押しつけられたのだろう。
「……ニナ」
考えれば考えるほどに落ち込む私を、そっと染みこんでゆくような優しい声が呼んだ。顔を上げて意味もなく謝罪の言葉をこぼすよりも前に、私を見つめる視線に絡め取られて息を呑む。
「君が目の前に現れたとき、奇跡が起きたんだと思った」
なにかに耐えるようにぎゅっと指を組んだ彼の声は、まるで大切な宝物の在処を教えてくれるみたいに密やかで、様々な色に彩られた幾重もの感情に包まれているように聞こえた。
「四年前、ニナが……あの子が死んだときすごく後悔したんだ。あの子はいつだって俺の側に居てくれたのに、俺はそれが当然のものだと思い込んで、あの子から一方的に優しさをもらうばかりだった」
ほんの一瞬だけ睫毛が揺れて、ふっと瞼に瞳が隠される。
再び現れた瞳は窓から差し込む陽に透けて冴え冴えと銀色に輝いて、確かに宿る熱と共に私を映し込んでいた。いつか見たその色は、そんなはずがあるわけがないと見なかったことにしたそれと同じ色だ。
「ニナを見たとき、ようやくあの子からもらった想いを……渡せる機会を得たんだと思ったらもう止められなかった。どうしたって君に惹かれて、君を知る度にどんどん想いが大きくなっていく」
テーブルの向こう側から伸ばされたエリオスの手が、私の投げ出された手にそっと触れて包み込む。まるで繊細な硝子細工を扱うみたいに優しく触れられた手は彼のものなのか私のものなのか、それともただの幻に過ぎないのか、驚くほどに熱く感じた。
「ニナ」
こんな風に私を見るエリオスを、私は知らない。
こんな風に私に触れるエリオスを、私は知らない。
こんな風に私を呼ぶエリオスを、私は知らない。
当然だ。
だって、この人は私の知っているエリオスではないのだ。
「君が好きなんだ」
だけど彼と同じ瞳で、同じ手で、同じ声で囁かれた言葉に私の胸はどうしたって甘く疼いて悲鳴を上げる。
「お願いだ。俺を、君の……ニナの世界に連れて行ってくれないか」




