好きな人の香り……心が落ち着くものなのね
うっすらと目を開ければ、知らない場所だった。
窓から差し込む光が、鳥たちのさえずりが朝を告げていた。
しかも休んでいた場所はふわふわしていて、とても暖かくて心地よい。身じろぎしてもう一度丸くなる。自分の毛の温かさもあるが、この布団がとても心地よい。もう一度寝てしまいたい誘惑に駆られながら、意識を目覚めさせる。
ようやくまともに頭が回り出したので、きょろきょろと辺りを見回した。ついでに耳も動かして、音を拾う。
ウサギの目線が向けられる範囲が狭いため、部屋の全体がよくわからない。ただここは誰かの寝室のようだ。わたしは籠に入った布団の中に寝かされていた。
飾り気の少ない簡素な部屋であったが、置かれている調度品はそれなりの品であることがわかる。恐らく王城からは外に出ていない。でもやはり知らない場所だった。
ここはどこだろう。
誰が連れてきたのだろう。
そんな疑問を抱えながら、最後の記憶をたどる。
確かファーガス様の後をつけて……。
ああ、そうだ。
愛人と逢引していた。その会話を盗み聞きしてたところで記憶がない。二人の会話を思い出し、意気消沈する。
わかっていたじゃない。
今更、傷つくことではない。
ウサギの垂れた長い耳を前足で引っ張って顔を隠す。この耳、もう少し聞こえにくくした方がいいかもしれない。
ぐすぐすとしながら、反省会に突入した。
そもそもファーガス様には嫌われている。好かれていないのだから、ボロクソに言われても仕方がない。そう考えれば、まだ配慮ある言葉だった。
そんな感じで自分を慰めてみるが、つんとした何かが込み上げてくる。
泣くな。
ここは自分の部屋じゃない。感情を露にしていい場所じゃない。
そう言い聞かせていると、かちゃりという扉の開く音がした。ウサギの耳がピクリと動く。
「あ、起きたんだ。一晩目が覚めなかったから心配した」
聞き覚えのある声がかけられて、驚いて飛び上がった。声を出さなかったのは偉いと褒めてほしい。恐る恐る声を掛けてきた人を見れば、わたしは硬直した。そこにいたのはセスだった。
な、な、な、なんで彼がここに?!
彼はこれから仕事に行くのか、皴一つない魔術師団の制服を身に纏っていた。魔術師団の制服は詰襟で上着の裾が膝裏まである長いものだ。動きにくいようで動きやすく作られていると聞いた覚えがある。
短めの黒髪はきちんと整えられており、緑の目も美しい。
美貌の点ではファーガス様にはかなわないが、セスも十分整った顔立ちをしていた。
本人は伯爵家の次男であるため、爵位を得ることはできないが魔術師団の中でも出世頭である。それゆえ、爵位に拘らない女性から人気があった。
ファーガス様と婚約する前は彼と仲がいいということで八つ当たり気味に嫉妬されていたが、ファーガス様と婚約してからは仲を取り持ってほしいとすり寄ってくる。
変わり身の早い女たちだ。彼女達もいい嫁ぎ先を見つけるのに必死なのかもしれない。
よく辺りを見渡せば、この寝室には入ったことはないが、彼のものだとわかる小物があちらこちらに置いてある。
どうやら一晩彼の部屋にお邪魔していたようだ。彼の言葉とわたしの覚えている状況を総合すれば、四阿から少し離れたところで寝てしまい、発見されてこの部屋に連れてこられた。
そして一晩爆睡。
恥ずかしい。
心が痛くて丸くなったところは良いが、そのまま寝て、さらにはセスに発見されて連れてこられても眠っているなんて。
自分の図太さが信じられない。
「病気ではないんだよな?」
彼は一人羞恥心に耐えているわたしの体をひっくり返して、お腹を優しく撫でた。お腹のぷにぷにしていてそれでいて毛の薄い場所に優しく指を這わせる。
その動きに完全に息が止まった。
恐る恐る見上げれば、セスが優しい表情でわたしのお腹を撫でている。時折お腹を押しているのは、痛むところがないか、確認しているからだろうか。
「怪我も痛むところもなさそうだ」
呟きながら、丁寧に体を探った。
わたしはウサギ。
そしてこれは診察! 診察だから!
心の中で呪文を唱え、予想外の接触にドキドキした。無意識に息を止めていたので苦しくなり、大きく呼吸する。息を吸い込んだ時に爽やかな香りが鼻腔を擽った。
セスらしい香りに、先ほどとは違う恥ずかしさがこみあげてきた。こんな風にセスの香りを感じたことは今まで一度もない。一緒にいることが多かったが、やはり節度ある距離感で、頬が触れてしまうほど近づいたことはなかった。逆に言えば、これほど近寄らないと彼の爽やかな匂いはわからないわけで。
ちょっとだけ、いいよね。
不自然にならないように気を付けながら、鼻をひくつかせた。
うーん、爽やか。
とても落ち着く香りだ。
恋とか愛とかではないけれど、セスのことは好ましく思っているからこれほどいい香りに思えるのだろうか。やはり政略結婚だとしても、信頼出来て、好きでいられる相手との方が幸せだ。
セスはまだ婚約者もいないし、彼の魔力量からすればわたしの結婚相手としても問題ないはず。
分かり切ったことを聞かされたぐらいで心を折っている場合じゃない。やはり頑張ってファーガス様の弱みを握り、婚約破棄にもっていくべきだ。
「寒そうに四阿の近くで寝ていたから連れてきたんだ。あー、お前、ウサギだもんな。俺の言っていること、分からないか」
一通り確認が終わった後、体を元の伏せ状態に戻された。男らしい少し節くれだった長い指で顎の下を擽られる。それがまた気持ちよくて自然と目が細くなる。
「それにしても綺麗な目の色だ。ウサギの目も水色というのがあるのか。あいつと同じ色だ」
先ほどよりもはるかに近い位置からのぞき込まれて、思わずのけぞった。
顔、近い、近い!
しかもあいつというのは、わたしのことよね?!
意識した瞬間、自分自身でもはっきりとわかるぐらいに体中の血が沸騰した。ばくばくと心臓がうるさく鼓動する。
幸いなことに今はウサギだ。体全身を覆う毛が真っ赤になった体を隠してくれる。
セスはわたしの様子に気が付かず、ゆっくりと耳や顎下をくすぐる。
心地よさと恥ずかしさにあうあうと内心悶えながら、ウサギぽくその場にじっとしていた。
「このリボン、綺麗だな。もしかしたらリアーナの色に合わせているのか?」
いいところに目を付けた!
しばらく考え込んでいたが、彼はひょいっとわたしを抱き込んだ。
「リアーナに聞いて、違っていたら一緒に仕事に行こう。知り合いに探してもらおう」
知り合い?
彼の職場で知り合いとなれば、わたしの知り合いでもあって。
探索魔術を使われると少しばかりまずい気がした。
これからどうするべきか考える暇もなく、彼は部屋を出るとわたしの部屋へと向かう。いい案が出てこないままあっという間にわたしの部屋の前に来てしまった。エリーにいてほしいと祈った。
「はい」
「セスだけど、リアーナいる?」
セスが名乗れば、大きく扉が開かれた。中からはやや顔色の悪いエリーが出てきた。
「セス様。お嬢さまは……」
エリーがそこでわたしに気がついた。彼女は明らかにほっとした表情になる。エリーの表情の変化に気がついたセスが抱えていたウサギをエリーの方へと差し出した。
「やっぱりこのウサギはリアーナのものか?」
「はい、そうです。見つからずに、お嬢さまは今探しに行ってしまっていて……」
流石エリー!
とても自然な言い訳をしながら、わたしを受け取ってくれる。
「今度はリボンに名前を書いておくといい。それじゃあ、リアーナによろしく」
「ありがとうございました」
無事に部屋に戻れてわたしも脱力した。エリーも何か聞きたそうだが、特に言葉にはせずすぐにわたしを部屋の中へと連れて行ってくれる。鏡の前で下ろされた。
「ぽん」
ウサギからようやく人に戻る。
「お嬢さま、本当に心配しました。もうそろそろ厨房へ行こうかと思ったぐらいです」
「わたしはおかずにはならないわよ」
「お疲れになったでしょう。少しお休みください」
「エリーもね。ちゃんと休んでね。わたしも休んだ後、ファーガス様の偵察に行ってくるから」
再び心配そうな表情になったが、エリーは頭を下げただけだた。言いたいことはわかるが、これはわたしの将来がかかっているのだ。止めるわけにはいかない。
気持ちを落ち着かせたら、ウサギになってもう一度、偵察に行くとしよう。