兄が一番の敵だ
夜会から屋敷にたどり着いて、ようやく肩から力を抜いた。
毎回毎回、本当に疲れる。何も思っていませんよ、結婚前だから微笑ましく思ってますよと言う雰囲気でい続けるのは、数時間とはいえ全身疲労をもたらす。
重い体を引きずるようにして二階にある自室を目指して階段を上がった。登り切った後、思わず足が止まる。目の前から一番会いたくない人がやってきた。彼の姿を見て思わず顔をしかめた。
「早かったな」
ラフな格好で近寄ってきたのは侯爵家の跡取りであるグリシャお兄さまだ。こんなにも疲れているのに、お兄さまと対峙なんて本当に運が悪い。
「ファーガス様が今夜のお相手と雲隠れしたので、帰ってきました」
「そう嫌ってやるな。結婚すれば落ち着く」
何が嫌かって、お兄さまはファーガス様の味方なのだ。
何故か?
お兄さまとファーガス様、同じ年で実は親友同士。
そのつながりとある事情によってファーガス様がわたしの婚約者に選ばれた。要するにこの兄は下半身の緩い親友に可愛い妹を売った当事者だった。わたしの一生を辛いものにしたのだ。許せるはずがない。
「そうだといいのですけど。今日のお相手は未婚の令嬢でしたので、そろそろ真面目に対策しないと結婚後も愛人だと言って乗り込んできそうですわ」
「未婚の令嬢?」
お兄さまは眉を寄せた。いつものように未亡人や令夫人と遊んでいると思っていたようだ。わたしは肩を竦めた。
「ええ。最近とても有名な男爵令嬢ですわ。名前は確か――」
「ミーア・ジャーメイン男爵令嬢」
お兄さまに先に言われて、頷いた。
「そう、その方です。とても可愛らしいお方でした」
「……そうか」
「今日も甘い雰囲気で見ているだけでもうっとりしてしまいそうでしたわ。とても気に入っていらっしゃるみたい。もしかしたらあのように庇護欲をそそる方と結婚したいのかもしれませんね」
嫌味をまぶしながら告げれば、お兄さまはため息をついた。
「申し訳ないとは思っているよ。まさか婚約後にもあれほど派手に遊ぶなんて思っていなかったんだ」
「心からそう思うのでしたら、是非婚約破棄に動いてもらいたいものですわ。あれではラヴィーン侯爵家の名を落とします」
ラヴィーン侯爵家の名前を出されてお兄さまは黙り込んだ。先ほどまでどこか咎めるような目を向けていたのに、その視線は床に落ちている。
何も言い返さなくなったお兄さまを置いて、わたしは自室へと向かった。
「おかえりなさいませ」
部屋に入れば侍女のエリーがすでに待機していた。ようやく自分だけの場所に戻ってこれてほっと息をつく。
「ただいま。ああ、疲れたわ」
そう言いながら、宝飾品を外していく。外した宝飾品はエリーが丁寧に受け取り、箱に片づけた。
「今夜の夜会はどうでした?」
「最悪よ。男爵令嬢に入れ込んでいるし、周囲からは嗤われるし」
溜まっていた鬱憤を言葉にしながら、エリーに手伝ってもらってドレスを脱ぎ捨てる。髪を下ろし、コルセットを外す。締め付けていたものがなくなっただけで、ほっとする。
「ファーガス殿下はきっと視力が悪いのです。お嬢さまほどお美しい方はいらっしゃらないのに。美しい銀髪に水色の瞳をしていて、月の精霊のようですわ」
「そう思っているのは貴女ぐらいよ。何だったかしら、一緒にいてつまらないから結婚しても抱ける気がしないとか言っていたわ」
部屋の温度が低くなる。よく見ればエリーが怒っている。その怒りに合わせて彼女の得意な氷魔法が暴走しているようだ。
「ちょっと! 暴走しているわよ。寒いわ」
「ああ! 申し訳ございません。怒りのあまりに我を忘れました」
「気持ちはわかるけど、今さらよ」
ファーガス殿下はわたしを社交界で笑い者にする。
先日の夜会ではたまたまファーガス殿下とその友人たちの会話が聞こえていた。
顔が綺麗なだけで、つまらない女なのだと。
初夜は顔が見えない暗闇ならなんとかなるだろうなんて、下品なことを言って笑っていた。
胸は人並み、腰もきゅッとしてお尻はそこそこあると思うけど、女は姿形だけでは駄目だってことなんだろう。
気の利いた会話なんてできないし、今の流行なんて興味ないし。
ああ、確かに魅力はこれっぽっちもないわ。
今理解した。
……。
悲しみに押しつぶされてしまいそう。
「お嬢さま? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だと思いたいけど、そうじゃないかもしれない」
「ゆっくりとお風呂に入って嫌なことを忘れてしまいましょう。今日はお嬢さまのお好きなお花の香油を使っておりますから」
エリーに慰められてとりあえずお風呂に向かう。
「ああ、せめてセスの半分でも好意が持てたらよかったのに」
ぽつりと呟けば、エリーが目を見開いた。
「それです! それがいいです」
「何が?」
突然、生き生きとし始めた侍女を見て首を傾げた。喜ぶようなことは何も言っていないような気がする。
「婚約破棄をして、セス様に婚約者になってもらえばいいのです!」
どーんと効果音がなってしまいそうなほど、得意気に胸を張る。エリーの言っていることがよく理解できなくて目を瞬いた。
「そうできれば一番だけど。そもそも婚約破棄が難しいじゃない」
「そうでしょうか?」
「この婚約は陛下の親心で結ばれたものだから。しかも女遊びが激しいことを受け入れての婚約だもの」
ホーソン侯爵家当主であるお父さまが婚約破棄に積極的に動いてくれるのならもしかしたら可能かもしれないが、今のところその可能性は低い。王家に多大なる恩を売ることになるから、どちらかというとクズであればクズであるほど喜んでいるかもしれない。
お父さま自身、3人も外に愛人を抱えているからわたしの気持ちなんてどうでもいいのだろう。
「はあ」
考えれば考えるほど落ち込んでくる。
「お嬢さま」
「とりあえずお風呂に入ってくるわね」
「はい。就寝のご用意をしておきます」
少しでも気持ちを変えようとお風呂に入った。
贅沢なほどたっぷりとしたお湯に浸かりながら、ぼんやりと天井を見る。
「セスとも会えていないなぁ」
セスはカティック伯爵家の次男で、今は宮廷魔術師として働いている。幼馴染でもあり、長年のライバルでもある。
子供の頃はまだよかった。侯爵家の血筋ゆえに魔力が多く、暴走しがちだった。そのため魔術師団へ通っていた。その時に出逢ったのがセスだ。
セスも同じく魔力が暴走しがちで、通っていた。彼は一見穏やかそうだが、ひどく負けず嫌いで常にわたしよりも前に進んでいた。それがわたしも気に入らなくて、頑張ってこなしていけばさらに彼も頑張っていく。
あの頃は年上の男の子が二人一緒に面倒を見てくれたのだ。その男の子が大人顔負けなほど魔術ができる人で、二人が競い合うように魔術にはまっていったのは間違いなく彼のせいだと思う。
教えてくれる彼がいなくなった後も、馬鹿みたいな対抗心で婚約者ができるまで二人で楽しく毎日を過ごしていた。
ファーガス様がわたしのことをつまらない女というのも理解できないわけじゃない。わたしはどちらかというと魔術馬鹿で、研究ばかりしていたのだ。世の中の流行とか、女性の好きな話題とか全く興味がない。
まだまだ先輩たちには追い付かないけど、宮廷魔術師にはなれるほどの実力はある。
なれなかったのは母方のラヴィーン侯爵家の跡取りが出奔してしまい、誰も継げる資格を持つ人がいなくなってしまったからだ。
ラヴィーン侯爵家は魔術師の家系で、ある一定の実力がないと当主にはなれない。ところが次期当主であった従兄が出奔してしまった。なんでも新しい魔術の可能性を探す旅に出るのだとか。
たった一言、当主の座は辞退するとメモに残してあった。
そしてわたしにお鉢が回ってきて、ファーガス様の後ろ盾には丁度いいと婚約者になった。お膳立てしたのは兄だ。
兄の貴公子然とした整った顔立ちを思い出し、イラっとする。
「禿げもげろ、の呪文で魔法陣でも作ろうかしら。お兄さまで実験したい」
ぶつぶつと呟きながら、お風呂で溜まっていた気持ちを吐きだした。