悔しいことにクズに太刀打ちできない
ファーガス様はにこりと人当たりの良い笑顔を見せた。音もなく立ち上がると、わたしに手を差し出す。
わたしはその手を取るわけでもなく黙って見つめた。大きくて形の良い手だ。それでも女のわたしとは違って少し節くれてごつごつしている。
こうしてまじまじと見たのは初めてかもしれない。いつもは夜会にエスコートする時に差し出されるので、薄暗い場所であること、すぐに自分の手を預けてしまうからだ。
「この手は何でしょうか?」
「エスコートだよ」
当たり前のように言われた。思わずムカついて眉が寄った。前までは心の中が嵐になろうと、淑女らしくにこやかな笑みを張り付けていた。だけど、婚約破棄が決まっている今は取り繕う必要はない。
「不要です。わたしは帰りますから」
「へえ、彼と二人で? 婚約者がいるのにそれは少し軽率ではないかな」
どこか咎めるような声にますます眉間にしわが寄る。わたしが誰と帰っても誰も咎めることはできないはずだ。いつも夜会の度にどこかの女性と姿を消す彼が当然のように注意してくるのが気に入らない。
「帰るのはわたしだけです。彼はこちらに招待したので、ここで鑑賞してもらいます」
「一人で帰る?」
「ええ。何故かこの部屋に入ったら、とてつもなく具合が悪くなってきたので」
暗にお前がいるから気分が悪いと伝えれば、彼は何故か笑みを深めた。美形がそのような顔をすると、恐ろしく感じる。
だが今までのように笑顔を浮かべて我慢するつもりはなかった。既に婚約破棄は国王陛下に奏上されている。そのことはファーガス様もすでに耳に入れているだろう。それなりにごたごたしているようだが、婚約破棄がされることを信じている。
「今日はここで私と一緒にいた方がいい」
「……はい?」
聞いていたのか、わたしの話を。
イライラが限界に近づいていた。気持ちは目の前にいる美貌の王子にだけ向けられていた。ファーガス様はいつもと違って、どこか面白そうだ。
もしかしたら感情をあらわにしたのがまずかったのかもしれない。
ふとそんな不安がよぎったが、今さら感情を殺して淑女の笑みを浮かべるのは難しかった。婚約破棄に向けての動きがわたしを素直にしてしまう。
「リアーナ、紹介してもらってもいいだろうか」
「……セス」
はっとして彼を見れば、少し困ったような表情だ。セスはファーガス様を知っているだろうが、正式に紹介されてはいない。わたしが紹介する必要があった。
大きく息を吸って、乱れた気持ちを落ち着かせた。
「ファーガス様。こちらはわたしの幼馴染のセス・カティックです。今、魔術師団に所属していますわ」
「初めまして。セス・カティックです」
セスは城にいる時のように丁寧に挨拶をする。ファーガス様は王族らしい態度で軽く頷いた。
「魔術師団長から君が優秀であることは聞いているよ。これからもこの国のために活躍してほしい」
セスはファーガス様の言葉に少し嬉しそうに微笑んだ。
わたしも少し驚いた。まさかファーガス様がセスを知っていたとは思っても見なかった。
セスは確かに最年少で魔術師団に所属したが、中に入ればもっと上位の人間は沢山いる。これから経験を積むことで実力は伸びるだろうとは言われているが、今はまだ目を見張るような存在ではない。
ああ、でも。
ふと仕事中の彼の横顔を思い出す。
仕事はできるのだ、この男は。
女にだらしないところだけが瑕なだけだ。わたしにとって一番の欠点だけどね。
「そう言っていただけると励みになります」
「さて、知り合ったばかりの君にこのようなことをお願いするのは心苦しいが、今日は遠慮してもらえないだろうか」
思いっきり顔が引きつった。二人きりになれなくとも、婚約前の時のように二人で色々と話したかったのに。これではセスは部屋から出て行かなくてはならない。
にこやかに追い出しにかかるファーガス様を睨みつけた。ファーガス様はセスを見たまま、わたしを宥めるように腕をぽんぽんと優しく叩く。
セスもその気安い態度を見て、目を細めた。
「……殿下は他の女性に夢中で、リアーナを蔑ろにしていると聞いています。リアーナとは兄妹のように育ちましたので、そのように扱われていると心配になります」
「噂ね。確かに女性関係は隠していないから色々と聞くだろうな。ただどの女性も私の隣に立つ人間ではないことは確かだね」
本気で言っているのか、このクズ男は。
遊びではなく一人でも心を寄せた相手はいないのだろうか。
セスも流石に表情が険しくなった。
「リアーナは隣に立つ人間だけど、大切にする必要はないと?」
「そうは言っていない」
セスが少しだけ怒りを滲ませた。余裕な表情でセスに対峙するファーガス様を見て、わたしはため息をついた。
「セス。価値観が違い過ぎる人を相手にしても時間の無駄よ。心配しなくても、婚約破棄の方向に動いているから」
「リアーナ」
納得できないのかセスはその場から立ち去ろうとはしなかった。ファーガス様がこれでも王族なので、怒らせたら面倒になる。そう思うのに心配して言葉を発してくれる彼に嬉しくなる。
やっぱり結婚するならセスのような男性が幸せになれそう。
胸の奥がきゅんとした。一人の人に大切にされるのはどんな気持ちだろう。きっとふわふわして、毎日がきらきらしているに違いない。
「大丈夫」
にこりとほほ笑んで、大丈夫だともう一度繰り返す。セスは息を吐いた。
「リアーナがそう言うなら。後日、話したい事があるから連絡する」
納得していないような顔をしたまま、退出の挨拶をして出て行った。
二人になったボックス席にわたしは腰を下ろした。
「帰るのではなかったのか?」
「そろそろ劇が始まります。静かにしてもらえませんか」
つっけんどんに言い返して視線を前に向けた。ファーガス様は当たり前のようにわたしの隣に座る。
「君がそんなにも感情を露にするとは思わなかった」
「そうですか?」
返事をするつもりはなかったが、取り繕うのを止めたせいなのか言葉が勝手に出てきてしまう。これはいけないと思うのだが、一度外れてしまった仮面は取り戻せそうにない。
「婚約破棄、考え直してもらえないか」
「嫌です。どうしてわたしが我慢をしなくてはいけないのですか」
「この国のためだと言っても?」
「婚約した時に結ばれた契約の中に破棄する条件がはっきり明記してあります。国のために破棄したくないのであれば、そのように行動すればよかったのです」
きっぱりと言い切れば、上演の合図が響いた。ファーガス様はそれ以上のことを言わずにそのまま黙った。
劇は素晴らしかった。
そう思うのに隣にファーガス様がいたことで、ゆっくり浸ることができなかった。これほど素晴らしい劇を見たというのに余韻も感じられないなんて初めてだ。
婚約してから3年、夜会以外で一緒に出掛けたことなどないのだから、自分の思っている以上にファーガス様を意識したのかもしれない。
婚約破棄が決まった後にもう一度見に来ようと心に決めた。
「それでは、わたしはこれで失礼します」
「待ってくれ」
そう言われて腕を掴まれた。逃げるのが遅かったと舌打ちしたくなる。
「まだ何かありますか?」
「先日、私の部屋のバルコニーにウサギがいてね」
「……」
心臓が跳ねた。
嫌な汗が背中を伝う。必死に感情を押し殺し、淑女の仮面を被る。
「とても可愛らしいウサギで、首には水色のリボンをしていたよ。そう、ちょうど君と同じ目の色の水色だ」
そう言いながら目を覗き込まれた。目に感情が出ないように意識した。ゆっくりと彼の顔が近づいてきた。あまりの距離の近さに目を見開いた。
「何を……」
「私は君と婚約破棄したくない。これからはきちんと君と向き合おう。他の女性が気に入らないのならすべて手を切る」
「今さらです」
扉の開く音がした。劇が終わったので支配人でも入ってきたのだろう。でもわたしはそれどころではなかった。
扉の外から聞こえるはずの喧騒も。
声を掛けてきた愛想のよい支配人の声も。
エリーの驚いたような短い悲鳴も。
全く聞こえなかった。
わかっていたことは、体を強く抱き込まれて唇が暖かなものに触れたことだけだった。




