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ヤバイシティの街中に聳え立つ高層ビルのような病院『ヤバイクリニック』。
名だたる大学病院やメディカルセンターに引けを取らない医療技術を誇る大病院だが、そこに同じように隣接する白い建物のビルがある。
その日、ブラッド・ロスは伯父が経営する『ロス製薬研究所』を訪れていた。
保護者のサインが必要な学校の書類を提出する為だ。
ブラッドには伯父以外の身内がいない。
父親が誰なのかは不明だが、母は自分を産んだ直後に亡くなったのだと、物心付いた頃に伯父から聞かされていた。
まるで腹を突き破ったエイリアンのようだと幼心に思ったものだ。
そのせいか、ブラッドは何処か冷めたような捻くれた性格に育った。
それは親の命を代償にして生きていることへの罪悪感や虚しさなのかと言えば、全く違う。
唯一の身内であり親代わりとなった伯父はよく言っていた。
お前の母はろくでもない女だった――と。
素行が悪く、不良仲間とばかり遊んでいたという。
父親は恐らくその中の一人なのだろう。
お腹に子を身籠っていながら、ふしだらな生活を改めようとはしなかった。
夜遊び中に容体が悪くなり救急車で病院に運ばれたが出産直後に亡くなった。
ゴミ屑のような、無意味な人生だった、と。
実の妹とは思えない言い草だが、全くもってその通りだとブラッドは思った。
そして伯父はこう言った。
『そんな愚かな妹の人生にも唯一、〝価値ある意味〟があったとしたら……
それはブラッド、お前を産んだ事だ。お前にはまだまだ未来がある。希望がある。
私の元にいれば、きっと母親とは違うまともな人生を歩むことが出来る』
全くもってその通りだとブラッドは思った。
薄情かもしれないが、これが現実であり、伯父の言ってることは正しい。
もし母親と暮らしていたら今頃どうなっていたかなど想像に容易い。
今は伯父の元で金銭的にも何不自由ない快適な暮らしをしている。
伯父は研究所に入り浸りでほとんど家に戻らないが、それもブラッドにとっては快適だった。
ブラッドはいつも冷めたような目をしていて、物怖じもせず淡々としている。
物心ついた時から子供らしからぬ落ち着きがあり、何処か影のある少年だった。
それ故に、一匹狼の不良少年のようだと周囲から誤解を受けやすいが、特別素行が悪いという訳ではない。
頭も非常に良く、成績はサミュエルとクロエに次いでトップクラスである。
ただ、そのような誤解を受けたのも、一度だけ、ある『事件』を起こしたことに由来する。
先程も先述した通り、ブラッドは誰に対しても物怖じしない淡々とした性格だ。
時にはそれが気に食わない輩もいる。
今日のように、研究所を訪ねた帰りのことだった。
夜の街中を歩いていた時、路地裏で屯していた数人のギャングに出くわした。
ヤバイシティーは夜になると一変して治安の悪い街になる。
地元の人間はそれが分かっているし、馴れているせいか、自然と危機回避能力が身についている。
故に大抵の人間はそこで身の危険を感じ取り、引き返して全力で逃げるところだが、ブラッドは気にも留めずそのまま素通りしようとした。
当然、目を付けられ絡まれた。
男達は数人でブラッドを取り囲んで金を要求してきた。
その時のブラッドは足止めされたことをただ不快に思った。
怯えた様子も見せず黙ったままのブラッドに焦れて、背後にいた一人がナイフをチラつかせた。
――――それが、引き金となった。
気付けば、男達は全員のされてブラッドの足元に転がっていた。
その時、何が起きたのか……?
目撃者がいた訳でもなく、詳細を知る者はいない。
それでも、たった一人で一つのギャングを潰したという話は瞬く間に噂となって広まった。
お陰で誰も近寄らなくなったが、元よりブラッド自身が他人と距離を置いていたこともあり、本人にとっては却って過ごしやすくなったといえる。
ブラッドにとってこのことは決して武勇伝でも何でもなく、寧ろ、一匹狼に徹する最大の原因に直結するのだが、それはさておくとして――。
ブラッドは研究所の中へと入ると、常駐警備員のいるエントランスをいつものように顔パスで通過し、先の関係者以外立ち入り禁止となっている区域へと進む。
前面ガラス張りの扉の前にはカードキーと指紋認証必須のセキュリティゲートが設置されている。
ブラッドは慣れた動作で立ち止まることも無く通過した。
いい加減、顔認証でも導入してくれればもっと手間が省けるのに、とも思うが色々と事情があるのだろう、とブラッドは不満を飲み込んだ。
夜の時間帯はほとんど人がいないのか、いつもガランとして静寂だ。
建物内は緑色のピクトグラムの非常口誘導灯を除く天井の照明が全て落とされ、両壁に設置された足下灯だけでカバーされているものの、視界ともに移動には全く問題ない十分な明るさであった。
一般的な研究所のことは良く知らないが、ここの研究所に限っては研究員と言えど常時入り浸っている訳でもない様で、夜の時間帯は歩き回っても通路で人に出くわすことはほとんどなかった。
研究所には研究室や実験室、PCサーバー室、薬品庫に標本室、事務室に倉庫に書庫など、様々な部屋があり、休憩室やシャワー室まで完備されている。
これまでの経験上、最初から伯父のいる場所に見当を付けているブラッドは迷うことなく最上階の所長室を目指した。
乗り込んだエレベーターの扉が再度開くと薄暗い通路の先に所長室の扉がある。
扉は僅かに開いており、そこから仄かな光が漏れていた。
エレベーターから出て数歩踏み出した時、所長室の扉の向こうで声がした。
誰かと話をしているようだ。
仕事中だろうか、ブラッドは思わず足を止めた。
「――――もう少し待って頂けないだろうか?」
伯父の切羽詰まったような懇願の声が聞こえる。
「いつまで待たせる気だ?」
今度は怒気を含んだ濁った太い声。
まるで取り立て屋のようだが、経営状態でも悪いのだろうかと不穏に感じた。
「半年……いや、三か月後には……」
すると、もう一人、今度は随分と若い男の声がした。
「駄目だ駄目だ、そんなに待てない。僕は気が短いんだ」
最初の男より軽い口調だが、他者を見下すような高慢さが声から滲み出ている。
「――――だ、そうだ」
まるでその若い男のお伺いを立てていたかのように、最初の太い声の男が再び、威圧感のある声でそう言った。
会話から察するに、取り立ての連中は声のイメージとは裏腹に、上下関係は若い声の男の方が、太い声の男より格上であるような印象を受けた。
一体、何の話をしているのか。
聞き耳を立てるべく、ブラッドは暫くそこで立ち止まることにした。
「し、しかし、先日もサンプルを渡したばかりだろう……」
「あ~ぁ……あんなつまらないもの、捨てちゃったよ」
「なっ……‼ 外に放ったのか⁉」
若い男の言葉に驚愕した様子の伯父の声。
「オイ、口の利き方には気を付けろ‼」
太い声の男が一喝するも動揺を隠せずにいる伯父の様子が会話から感じ取れる。
「まずいぞ……もし被害が出て、世間にバレたら……っ」
「あんなスライムなんかより、もっと面白いものを作ってくれなくちゃ」
若い男の言葉にブラッドは眉を顰めた。
(スライム……?)
一体、伯父は何を作らされたというのだろうか。
「〝材料〟なら隣から幾らでも調達できるだろ?」
「馬鹿な……っ」
事情を知らないブラッドにとって、伯父と若い男の会話は益々難解になった。
ただ、世間には公表できないような危険な物を作らされていることは分かった。
もう少し情報が欲しいと思った矢先だった。
「――――それより、誰か待ってるみたいだけど?」
若い男のわざとらしい声でブラッドはハッとした。
気配を消していたつもりだったが、バレていたようだ。
かといって、此方から動く訳にもいかずブラッドは先客が退出するのを待った。
話は済んだようで男達が扉を大きく開けて出てきた。
現れたのはデコボコしたゴツイ顔に傷のある、まるでフランケンシュタインのような人相の大柄の男。
恐らく威嚇していた太い声の男だろう。
その人間離れした容姿にブラッドは思わず釘付けなった。
その後ろを、今度は黒い髪を逆立てた、痩せて細長い小柄な男が歩いている。
全身黒のフォーマルに黒くて鋭い爪を持っている。
肌は異常なほど白く、吊り上がった眉に眼の瞳孔が小さい、まるで悪霊のような顔をしており、一目で異様さが窺える。
若い男の声はコイツだろうとブラッドは思った。
歳は自分とそう変わらないように見える。
薄気味悪いその男は、細い首に金色の生きた蛇をぶら下げていた。
すれ違いざまに、男は横目で無遠慮にブラッドを見やると、大袈裟に眉を下げてフンと見下すように嘲笑した。
感じの悪い男だとは思ったがブラッドは無視して所長室へと向かった。
扉を開けて中へ入ると、デスクの上で疲れたようにぐったりと項垂れている伯父の姿があった。
「――アイツら何?」
入るなりブラッドは素っ気なく聞いた。
「……ただの取引相手だ」
「フーン」
会話はそれで終わり。
ブラッドは伯父に、特に仕事のことに関してほとんど干渉しなかった。
代わりに自分のこともあまり干渉されない。
それがブラッドにとってベストな形だからお互い暗黙の了解と言える。
用事を済ませてとっとと帰ろうと鞄の中からプリントを取り出し伯父に手渡す。
「これ、学校に提出するやつ」
「あぁ……」
ざっと目を通してサインを書くと伯父はブラッドに手渡しついでに一言告げた。
「今夜も帰れそうにない」
「分かった」
用件を済ますと、多少気掛かりな伯父を残して、所長室を後にした。
エントランスから外へと出ると、ブラッドはふいと立ち止まり、研究所の建物を見上げるように振り返った。
満月を背景に聳え立つ無数のビル群。
外から見るロス製薬研究所は、その中の一つに過ぎないが、内部はとても閉鎖的でまるで白い檻の様だ。
伯父は明らかに何かを隠しているようだが、この町の住人は何も知らない。
ブラッドは、自身の存在もまた、その中の一つなのだと思っていた――――。