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クロエを無事、家まで送り届けると、サミュエルは一人黙々と歩いた。
もう高校生だし自分は男だし、と思いながらも一人の夜道が少しも怖くないと言えば嘘になるかもしれない。
しかし、街の方に比べればここは住宅街で比較的安全だ。
綺麗に舗装された歩道に、均等に配置された外灯。
家々の窓からは明かりが差し、時折幸せそうな家族団欒の笑い声が漏れる。
正直、羨ましいと感じることもあるが、諦めにも似た『馴れ』が、既に自分の中に存在し染みついていた。
とはいえ、家族ならば自分にもいる。
肉親もおらず天涯孤独の身となった自分を養子として引き取ってくれた男だ。
名を、ライラス・リードという。
歳は三十七と聞いているが、実際はもっと、いや、かなり若く見える。
誰もが振り向くような端正な顔をしている。
ライラスとは、かれこれ十年も生活を共にしている。
住宅街の端にある平屋の家、そこがサミュエルと養父の暮らす家だ。
養父と言ってもサミュエルはライラスのことを父のように思ったことはない。
どちらかと言えば兄に近い感覚で、『師』でもある。
自宅までの距離があと数メートルというところで、サミュエルはふと家の前の排水溝に奇妙なものを見てしまった。
緑色のスライムのようなヘドロのような、よく分からない物体が蠢いている。
本能的に危険を感じたサミュエルは思わず足を止めて凝視した。
ヘドロの物体はサミュエルの視線に気付いた様子もなく、まるで軟体動物の様にズルズルと体を引き摺るように動かして、マンホールの蓋の小さな穴の中へと吸い込まれるようにして消えていった。
「なんだ今の……?」
サミュエルは駆けて行って間近で見ようとマンホールの前に立ち、覗き込んだ。
丸いマンホールの蓋の小さな穴。当然、先は真っ暗で何も見えない。
しんとして物音もしない。まるで何事もなかったかのように。
「気のせいだったのかな……」
やはり疲れているのか、幻覚でも見たのかも知れない。
そう思った矢先、突然、マンホールの穴から緑色に光るスライム状の細い物体が触手のように飛び出してきた。
それは頭上まで伸びて、そこから今度は手のひらのように広がって大きくなり、津波のようにサミュエルの体を押し倒すようにして覆いかぶさった。
ほんの一瞬のことでサミュエルは身動きも出来ず、そして悲鳴を上げる間も無く呑み込まれたのだ。
訳も分からないものに突然襲われて、呼吸も出来ずパニックでもがいている内にサミュエルはそのまま意識を失ってしまった。
次に目が覚めた時には、サミュエルは自宅のベッドの上だった。
「……気が付いた?」
穏やかな低音ボイスが聞こえサミュエルは半身を起こして部屋を見渡した。
この家はだだっ広い一部屋で、すべてのものが備わっている。
キングサイズのベッド一つと、壁に備わった大型テレビと本棚の他にダイニングキッチンとカウンターテーブル、あとはガラス張りのバスルームがあるくらいで、プライベートな空間など全くない分、何処に相手がいるのか一目で把握できる。
声の主・ライラスはこちらに背を向けてカウンターに置かれたエスプレッソマシンでコーヒーを注いでいるようだった。
「家の前で倒れていたんだよ」
そう言ってマグカップを片手にライラスはようやく振り返ってそう告げた。
横の髪だけ顎まで伸びた少し長めの黒い髪と綺麗なエメラルドグリーンの穏やかな目をした端正な顔の男だ。
ライラスの言葉にサミュエルは意識を失う前に見た先程の化け物のことを思い出し慌ててベッドから飛び起きた。
「そうだ! ライラス! 見たことも無い化け物が家の前にいたんだよ! それがいきなり襲ってきて……っ!」
興奮して声を荒げるサミュエルを余所に、ライラスは瞳を閉じてクスリと笑うと手にしたマグカップを持ち上げて淹れたてのコーヒーを口に含んだ。
「疲れて幻覚でも見たんじゃない?」
軽く聞き流しているような態度のライラスにサミュエルは不満を零した。
「……信じないの?」
「本当に襲われたのなら、無事じゃ済まないはずだろ? 僕が外へ出た時、化け物なんて何処にもいなかったし、君はただ歩道で眠っていただけだったよ」
ライラスにそう言われ、確かに自分の体を見下ろして何の異変も痛みもなく、無傷で済んでるのを確認するとサミュエルは先程のことが果たして〝現実〟だったのかどうか自信がなくなってきた。
黙り込んだサミュエルにライラスは言い聞かせるように声を掛けた。
「たまには休息も必要だよ。今日は『お休み』にするかい?」
ライラスの言葉の意味を察してサミュエルは短く首を振った。
「いや、『やる』よ。付き合って」
そう言うと、サミュエルは着ている制服に手を掛け、赤いネクタイを外し、ブレザーを脱ぎ始めた。
サミュエルには帰宅後、毎日行う日課があった。
それは体を鍛える為のトレーニング。
養子として引き取られた五歳の時からずっと、サミュエルはライラスにあらゆる武術をその身に叩き込まれていた。
武術だけじゃなく生きる為に必要なあらゆる知識や技術もすべて仕込まれた。
常に最悪に備えるべきだというライラスの教えにサミュエルも賛同していた。
何かが起こった時、何かを守る時、何かと戦う時、立ち上がらなければならない時、その必要な時に力や能力が無ければ何も成すことはできない。
そしてそれらの力は一朝一夕で身に付くものではないのだ。
日々の努力なくして己を高めることは出来ない。
その点においてサミュエルはライラスに感謝していた。
クリスマスの夜、家族が強盗に殺された時、サミュエルは五歳で無力だった。
もう二度とあの時のような思いをしないで済むよう強くあろうと心に誓った。
動きやすいトレーニングウェアに着替えたサミュエルは、ライラスと共に地下の階段を降りトレーニングルームへと移動した。
この家は一見だだっ広いワンルームだが地下にトレーニング室が備わっていた。
トレーニングマシーンをはじめ、マットや体操などで使うような高い鉄棒なども揃っているが、それらを使う時は一人で自主的にやる時だけで基本的には何もない空間でライラスに直に武術の稽古を付けてもらうのがいつもの習慣だった。
サミュエルは壁に立て掛けてあった背丈ほどの棒を手に取ると、頭上で一度クルクルと回す仕草をしてからスッと前方のライラスへと構えて向き合った。
「今日こそ勝ってやる」
意気込むサミュエルを見てライラスは瞳を閉じてクスリと笑った。
その柔らかく落ち着いた表情は絶対的な自信の表れでもある。
その余裕の笑みをいつか必ず崩してやるとサミュエルは常々思っている。
いつか、という言葉で察する通り、まだ一度もライラスに勝ったことがない。
「サミュエル、僕はいつでもそれを望んでいるよ。君がもっと強くなって僕を超えてくれるのをね……」
慈愛に満ちた穏やかな瞳でそう告げるとライラスは静かに、壁に立て掛けていた細い棒を手に取った。
カンカンと激しく打ち合う音が響き渡っている。
サミュエルが間合いに踏み込んでから棒を振り回し、一方的に攻撃を仕掛けているものの、ライラスは穏やかな表情を崩すことも無く、流れるような動作と最小限の動きだけでそのすべての攻撃を交わしていく。
それでも逃すまいと振り翳したサミュエルの棒もライラスの棒で静かに受け止められ、最後は力で弾かれた。
手の届かないところまで飛ばされた棒が床へ落ち、カランと虚しく音を立てる。
そして無防備になったサミュエルの肩に上から容赦なく棒が叩きつけられた。
小さく呻いて膝が頽れたところで、ライラスは四つん這いで項垂れるサミュエルの首筋の横に棒を突き立てた。
――――勝負あり、である。
「まだまだ甘いね、サミュエル」
崩すことのない微笑を携えたまま、ライラスは未だ床に手を突いたまま肩で息をしているサミュエルを見下ろして言った。
すると悔しさを滲ませた不満げな表情でサミュエルは顔を上げて言った。
「……僕はもう十分強くなった。ライラス以外には負けないよ」
小柄で細身の身体からは想像付かない程のずば抜けた身体能力を、サミュエルは既に持っている。
特に棒術を得意とし、身の軽さを生かした跳躍や俊敏さにも優れていた。
それを見い出し、そう育てたのはライラスだ。
暴漢を同時に複数人相手にしても負けない自信がある。
「でも、『化け物』を前に身動き一つできなかったんだろう?」
ライラスはクスリと意地の悪い笑みを零して言った。
「あ、あれは夢だって、ライラスが言ったじゃないか……‼」
都合の悪い指摘をされサミュエルは顔を真っ赤にして反論した。
「でも、たとえ夢でも、『油断』したことに変わりはない。油断こそが命取りだよ、サミュエル。どんなに鍛錬を積んでも、一瞬の油断で全てが終わる」
ライラスは話し終えると床に突き立てていた棒をスッと己の傍らに引っ込めようと手を緩めたが、その一瞬の隙をサミュエルは見逃さなかった。
目にも止まらぬ速さで四つん這いだった姿勢から片腕だけで体重を支えて、体を滑り込ませるように捻って足払いをするようにライラスの棒を蹴り飛ばした。
カランカランと音を立てて棒が遠くへと転がる。
「……こういうこと?」
低い体勢のままサミュエルは悪童のような笑みを浮かべてライラスを見上げた。
武器を失ってもなお動じることなく、寧ろその挑戦的な目を向けるサミュエルにライラスは満足したように笑みを浮かべた。
サミュエルは元々負けず嫌いで、まだ勝負を諦めてはいないようだ。
ライラスもサミュエルのそういうところが鍛え甲斐もあり気に入っている。
それならばもう少し稽古に付き合おうかとライラスは思った。