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最も危険な都市とされる『ヤバイシティ』。
どう危険なのかは後々説明するとして、物語の舞台はその街の中心部にある高校『ヤバイ・ハイ』の中に存在する科学部専用の研究室へと移る。
科学部・通称『ケミラボ』は校内でも浮いた存在の科学オタクの集まりである。
この日、『ケミラボ』に所属するサミュエル・タイラーは、いつものようにタイムマシンの製作に没頭していた。
彼は本気で『タイムトラベラー』になることを夢見ており、まだ入学して間もない十五歳だが、卒業までに完成させることを目指し、一体どうやって仕入れ、どう搬入したのか分からない黒い中古のポンコツ車をベースに、あれこれ解体したり組み立てたりして遊んで……じゃない、改造していた。
そんな彼の元に、同い年の所属部員、クロエ・ミラーがやって来た。
「マズいことになったわ、サミュエル!」
ストレートの長い黒髪の美少女・クロエは間違いなく部員一の科学オタクで、当初不人気で存在すらしなかった科学部を「無いなら作ればいいじゃない」の精神で見事『ケミラボ』を創設したのである。
よって、この部にはまだ歴史も実績も何もない。
そして、それが今回、災いしたらしい。
「……どうしたの、クロエ」
スパナを手にしたままサミュエルはやや面倒くさそうに応対した。
「これを見て頂戴」
クロエは人指し指と中指の間に挟んだ一枚の紙を、サミュエルの目の前にスッと差し出した。
受け取った紙はB6サイズの用紙に、見たこともないような極小フォントが、改行もスペースもコンマも無い長文で、隅から隅までぎっしりと埋め尽くされていた。
「小さすぎて読めなああああああああああああい!」
サミュエルは大声を張り上げ、怒り任せに紙を後ろに放り投げた。
「クロエルーペを差し上げますわん」
クロエはすかさず自身が開発した眼鏡をサミュエルに差し出した。
「わー、字が大きく見える!」
『クロエルーペ』を掛けたサミュエルは、細かいものがハッキリと見えるようになった視界とその精度に驚嘆しつつ、感動もそこそこに再度その紙に目を通した。
嫌がらせのようにミクロの文字の長文で回りくどく、わざと小難しい単語を並べて書き綴られていたが、要するに部の予算が尽きたこと、追加どころかもう二度と金を出さないこと、そしてとっとと廃部しろという通告だった。
「な……何故、急にこんなことに……」
まだ創設して間もないというのに、このような仕打ちを受けるとは……。
「そもそも予算が尽きたってどういうこと?」
サミュエルは答えを求めるようにクロエを見た。
ケミラボは、ほとんどサミュエルとクロエの二人くらいしかまともに活動していないような部だ。
つまり、どちらがより多く使い込んだのか、という醜い責任のなすりつけ合いが勃発しようとしているのだ。
「アナタのその中古車じゃなくって?」
クロエはサミュエルのタイムマシンとやらになる予定のブツを指し示した。
「これは中古でたった五百ドルで手に入れたオンボロのポンコツ車だぞ! しかも僕は部の予算なんか使ってないし、ポケットマネーで買ったんだ! 君こそ、その『クロエルーペ』とやらの開発費に、一体どれだけ使い込んだんだ⁉」
「企業秘密ですわ」
「ほら、やっぱり君じゃないか!」
サミュエルに言い当てられたクロエは、しかし反省することなく、まるで観衆の前でプレゼンするかのように、はたまたお花畑で自分に酔いしれてワルツを踊っているちょっぴり痛い少女のように、瞳を閉じて優雅に両手を広げて言った。
「いちいちお金のことを気にしていたら、何も研究が出来ないじゃない! 科学の進歩はそこで停滞してしまうのよ! ああ……どうしてそれが分からないのっ!」
嘆かわしいとまで言い放つ有様である。
「とにかく、ここで僕らが言い合ってても仕方がない。ケミラボの存続をかけて、部員一同で今すぐ先生に直談判しよう!」
サミュエルはそう言って、ふと部員って誰がいるっけ? と疑問に思った。
「ケミラボって他に誰が在籍してる?」
今更だが入部してからこれまで自分とクロエ以外の人間がケミラボに出入りしているのを見たことが無かった。
「アナタと私の他に一人、在籍しているわ」
部の創設者であるクロエはサラッと答えた。
「そうか、もう一人いたのか。何でもっと早く紹介してくれないの」
一度も顔を出さないなんて、まるで幽霊部員だな、とサミュエルは思った。
「彼の名前はブラッド・ロス。私たちと同じ学年よ」
「えっ? ブラッドっ⁉」
クロエの口から予想外の人物の名が飛び出してきてサミュエルは驚いた。
言葉こそ交わしたことは無かったが、クールな一匹狼のような、ちょっと不良のような雰囲気を持った黒髪のイケメンで、強く印象に残っていた。
「意外だな……ケミラボなんて。クラブなんかに入るイメージすら無いのに……」
サミュエルが思いがけず感心していると、次の瞬間クロエから信じられない言葉が返ってきた。
「そりゃそうでしょうよ。本人すら在籍してるの知らないもの」
「はっ⁉」
思わず変な声が出た。
「ちょっと待って。どういうこと?」
サミュエルは眉を顰め、疑うような目でクロエを見ながら訊いた。
クロエはふぅっと溜息を溢した。
「話せば長くなるのよ……」
そう言って胸の前で両指を組むポーズをすると、まるで遠い過去の映像を見ているかのように何もない宙に視線を向けて語りだした。
「私、どうしても自分の欲求を満たす為の場所……ケミラボを作りたかったの。でも部の創設には最低三人は必要だと校長に言われたわ。そこでたまたま暇そうに廊下を歩いていた彼の名前をそっと借りることにしたのよ……」
「早い話、ただの無断使用かよ!」
速攻で突っ込みながら、サミュエルはさすがにヤバいだろうと思った。
本人にバレたら殺されるんじゃなかろうかとさえ思える。
これは卒業まで隠し通す必要があるかも知れない。
「いいじゃない……荒んだゴミクズのような人生を歩んでる彼にも、こうして誰かの役に立っているのだから、彼もきっと本望のハズよ……」
「いやいやいや、何でお前の中で勝手にブラッドが『ゴミクズのような人生』を歩んでることになってるの」
「あら、不良ってみんなそうじゃないの?」
「お前、マジでファックされるぞ」
「下劣な言葉はやめて頂戴。今はそんなことよりケミラボの存続を考えるのよ!」
ブラッドの件は『そんなこと』で纏められてしまった。
「私にいい考えがあるの。サミュエル、貴方、ルーナ・エンジェルをご存知?」
「ルーナ?」
クロエの口から出た女性の名前をサミュエルは知っていた。
ブラッド同様、言葉を交わしたことはないものの、モデル体型の細いスラっとした長い脚と、ピンクの綺麗な長い髪をした美少女で、強く印象に残っていた。
「彼女がどうかしたの?」
そう尋ねるが、クロエはすぐには答えず、正面からサミュエルの肩を掴むと、反転させるようにその体をクルッと背後に向けさせた。
振り向かされた先には、ちょうど大きな姿見が目の前にあった。
鏡に映っているのは、黒いブレザーに赤いネクタイの『ヤバイ・ハイ』の制服に身を包み、寝ぐせのように波打った少し癖のある黒髪に、大きな丸い青の瞳が印象的な美少年、サミュエルの姿。
そして、彼の両肩に手を置いたままのクロエが、背後から耳元でそっと囁いた。
「……彼女、アナタのことが好きみたい」
「えっ!? それ本当っ?」
サミュエルは聞くや否や瞬時に鏡から背を向け、クロエの方へと振り返った。
心なしか、物凄く嬉しそうな顔をしている。当然だ。
何故ならルーナはサミュエルのタイプ・ドストライクでもあったからだ。
「本当よ。直接、彼女の口から聞いたこともあるし、私の人脈と情報網を甘く見てもらっちゃ困るわ」
クロエは得意げに言った。
お前に人脈なんかあったのかよ、とサミュエルは思った。
「でも何で僕のことを……? 話したことも無いのに?」
「もう一度、鏡を見てみなさい、サミュエル。貴方はただの冴えないオタクってだけじゃないのよ。よく見るとキュートな顔立ちをしているの。自信をもって!」
よく見ると……は余計だが、何故かクロエに励まされてしまった。
「でもルーナのことがケミラボとどう関係あるんだよ」
サミュエルの問いにクロエはフゥ…と呆れたように溜息を吐いてから言った。
「馬鹿ねぇ……知らないの? エンジェル家って言ったら大富豪よ! 貴族よ! 超セレブなのよ! この学校もエンジェル家から莫大な寄付を貰ってるはずだわ! つまり、誰もエンジェル家には逆らえない。そのエンジェル家の令嬢であるルーナを味方に引き込めばケミラボの存続など容易いということよ!」
ドカーンと頭に雷が落ちてきたかのような衝撃を受けるサミュエル。
「そ、そんなに凄い大富豪がこの町にいたのか……‼」
力説するクロエに圧倒されながらもサミュエルは何故こんな町を好き好んでわざわざ大富豪が住み着いてるのかという素朴な疑問も感じてしまった。
何ともご都合主義な展開である。
「いい? サミュエル。今から貴方はルーナの家に行って、彼女とお友達になるのよ。この際、色仕掛けでも何でもいいわ。彼女のご機嫌を取って頂戴。そして、さりげなーく、ケミラボの事情を話して協力を仰ぐのよ」
「ええっ!?」
クロエの無茶苦茶な指示にサミュエルは流石に無理があると感じた。
それにこれではルーナを騙すようで忍びないという気持ちもある。
しかしクロエは問答無用と言わんばかりに全く引かなかった。
「大丈夫よ、ルーナは貴方にぞっこんなんだから、絶対上手く行くわ! それに、ケミラボを存続させるには、それしかもう手はないのよ」
クロエに促され、サミュエルは渋々その策に従うことにした。