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源氏秘恋  作者: 世宇
9/22

九 明石

 雷雨は幾日も続いた。二条院からの文によれば都も長雨であるらしい。侍従たちは残してきた家族や恋人を恋しがり涙に暮れている。少しでも落ち着かせるため、私は五色の御幣を用意し自ら神に祈りを捧げることとした。惟光を始めとする侍従たちも揃って真摯に拝んだが、風が強まり雨は勢いを増し、ついには(いかづち)が怒号のような轟音とともに私のすぐ近くを貫いた。天からの矢は地上に落ちて炎となり、渡殿を焼き尽くした。

 さしあたりの居所として煮炊所(にたきどころ)に移ったが、泣き叫ぶ従者たちは雷鳴にさえ劣らぬほどの慟哭を響かせる。空は墨を流したような闇に染まり、この世の終わりを思わせた。


 夜になってようやく風が止み、雨も弱まった。母屋(もや)にも戻れず粗末な御座所でまどろむ夜に、朱雀帝の夢を見た。

 横たわったその胸に一本の矢が深々と突き刺さり、黄櫨染御袍を紅く紅く染めていく。

「主上っ」

 叫び駆け寄りたいのに足が動かない。せめてもと手を伸ばす。けれど、届かない。天位にある者だけが許される衣が血に穢れていく。帝は憂いのかけらもない安らぎに満ちた表情でまぶたを閉じている。

「主上っ、主上っ」

 何度呼んでも、その目は開かない。

 嫌だ嫌だ嫌だ、貴方を失って生きてなどいけない。貴方は私が求め望むただ一人。どうか、目を、どうかもう一度、微笑みを。

「主上っ」

 自らの叫びで目覚めた。全身が汗に濡れ、頬には涙が伝っている。夢の知らせか、帝の身に何かあったのかもしれないと思えば震えるほどに恐ろしい。しかし、罪人の身では内裏へ使いさえ送れない。惟光を乱暴に揺り起こし二条院へ火急の使者を走らせる。まだ夜明け前、昼過ぎには須磨へ戻るだろう。

 今上帝の身に何かあれば、二条院だけでなく東宮の母である藤壺の女院からも知らせがあるはず。尚侍として帝に仕える朧月夜の君や宰相の中将からも文が届くに違いない。右大臣と弘徽殿の大后に守られ政敵もない今、帝に仇なす者がいるとも思えない。考えを巡らせても、不安が拭えない。

「帝は無事か」

 手のひらに龍珠を置き、幾度も問いかけたが、答えはなかった。


 眠れぬままに暁を迎え、ようやく雨も止んだ。闇が薄れ、徐々に空が明るくなっていく。

 帝の無事を祈りながら使者の戻りを待っていると、明石の入道が舟に乗り、私を訊ねてきたと知らされた。明石にいた頃に面識があった良清を出向かせ、入道の言葉を聞く。

「先の播磨守が申し上げるには、夢に龍神が現れ、源氏の君さまを須磨から明石へお迎えするよう神託を受けたと。雷雨ではありましたが龍神の命のままに舟を用意すれば雷も雨も止み、追い風のままこちらに辿りついたと申しております」

「良清はどう思う」

「僧形のせいか人品骨柄(じんぴんこつがら)卑しからずと見えました。神託につきましては狂言のようには思えません」

 私は良清を下がらせ、もう一度、龍珠を手に取った。

「主上は無事なのか」

 手のひらのそれに訊ねれば、「無事だ、明石へ行け」とどこからか声がした。

 龍神の意のままにはなりたくないが、明石は須磨より拓けており、都との行き来も盛んだ。内裏について知るのにも都合がいいだろう。

 私は入道の申し出を受け入れると決め、屋敷の外へ出た。まだ薄暗い中を浜へ進むと、豪奢ではないが趣味のいい舟の傍らに痩せた僧が立っていた。明石の入道は名乗り、私に深く頭を下げた。

「恐れながら、わたくしめは桐壺の更衣さまと所縁もございます。どうか、わたくしめとともに明石においでくださいませ」

 私は惟光、良清の他に数人の供を連れ、入道の舟に乗った。帝からの衣を丁重に包み、文と紅葉は狩衣の懐中に、龍珠は袖に収めた。


 須磨へ下った一年前の春と同じように追い風ばかりが吹いて、舟は空を渡る鳥のように海を進み、わずかな間に明石についた。

 舟を降り、用意された牛車へ移る頃、昇りゆく朝日を背にした私に明石の入道は「貴やかにお美しく、人とは思えぬほどに眩いお姿をなさっておいででございます」と涙を零した。

 私は入道が数多く持つ邸のうち、海辺のそれに落ち着いた。寝殿には趣味のよい調度が揃い、庭には海からの水が引かれ小川となって流れている。贅を惜しまずに整えられた邸は都の公卿のものにも劣らない。

 使者は昼過ぎに戻ってきた。こちらと同じように京もひどい雷雨ではあったが帝にも内裏にも異変はないと知り、私は安堵した。


 明石への移転も落ち着き、静かな日々が過ぎていく。風雅を解し学問にも通じる入道は控えめに私に仕え、不足を感じさせない。唯一のわずらわしさは十八歳の娘を私に差し出したいとのほのめかしぐらいだった。

 入道の娘は波の音を恐れ、母とともに山近い邸に暮らし、琴や琵琶を巧みに弾きこなすと聞いている。容色も趣味も都の姫宮にも劣らぬとの評判だが会うつもりはない。良清が以前から気にかけていた相手を自らのものとするのも心ない振る舞いに思われるし、何より誰と結ばれてもこの想いは断ち切れない。空蝉、夕顔、葵、六条の御息所、朧月夜の君、多くの人を私の想いに巻き込んでは苦しませてきた。これ以上、罪過を重ねたくはない。

 興味を示さずにいると入道も次第に娘については口にしなくなった。


 卯月(四月)の衣替えを迎えると二条邸から夏用の品々が届けられた。紫の上と張り合うつもりはないのだろうが、入道も嬉々として装束や几帳の垂れ絹などを差し入れてきた。

 邸に呼んだ入道と御簾越しに対面し、礼とともに都の様子を訊ねる。三位の中将まで務めた入道は、明石にいながら内裏の内情にも通じている。

「帝が御眼をお病みになられたそうでございます」

 夢で見た、血に濡れた姿がよみがえる。

「帝が目を、それでお加減は」

 天下の第一である玉体の病苦に入道も憂い顔でまぶたを伏せる。

「お命に別状はないとのことでございますが、日ごとに悪くおなりのご様子。三月の雷雨の夜、夢枕にお立ち遊ばした桐壺院さまから厳しい眼差しをお受けになられ、それ以来のことでいらっしゃるそうで、加持祈祷も(あら)たかならず薬司の方々がご用意のありとあらゆる和漢薬も効き目が見えずと伺っております」

 痛ましい、痛ましくてならない。長い睫に彩られた黒目がちの夢見るような瞳が光を失うとは。きっと今にも消え入りそうな頼りなげな表情をしているのだろう。叶うなら手ずから介抱したい。名高い僧を国中から集め、海の向こうからあらゆる薬を求め、どんな手段を使っても、もう一度光を与えたい。

 どれほど想っても、明石にいる無位無官の私には祈る以外に何もできない。神も仏も信じられぬ身でありながら、その日から私は祈りを捧げ続けた。


 半月もしないうちに、私の祈りを嘲笑うように太政大臣となっていた右大臣逝去の知らせが届いた。年の頃からすれば早すぎるとも言えず妥当ではあったが、続いて弘徽殿の大后までも病に倒れた。帝は私を京へ呼び戻そうとしたが、病床にあってなお大后はそれを許さず、病はますます重くなっているらしい。

 入道から知らされる内裏の様子に心を痛めながらも、祈るより他に何もできないままに再びの秋が巡ってきた。

 空には十三夜の月が輝き、邸では明石の入道の筝の琴の音が響く。これまでの労へのねぎらいも兼ね、今夜は御簾なしで向かいあっている。入道は延喜帝(えんぎてい)の琴の奏法を伝承している。都の名手にも劣らぬ腕前を認めると「ありがたき仰せにございます」と相好を崩した。

「親の欲目だとお笑いでしょうが、娘の筝はわたくしめ以上でございます。誠に勝手ながら、いつの日にか、お耳汚しをお許しいただける日が来たならばと長く願い続けております次第にて」

 入道が娘について口にするのはは久方ぶりだった。大願をかけた娘を私に捧げることをまだ諦めていないのか。だが、無位無官の身ではあるとは言え明石の娘とはあまりにも位地がかけ離れている。二条院に残した女房の誰よりも身分の低い娘は私とは無縁の世界に生きる者だ。

 返事の代わりに手許の琴の琴を爪弾けば、入道は私を見つめ、ふいに涙を零した。理由を問えば目許を拭い平服する。

「お見苦しいところをお見せいたしまして誠に申し訳ございません。遠い昔、桐壺の更衣さまに一度だけお目にかかりましたことを思い出しまして」

 亡き母から明石の入道について聞いたことはなかったが、祖父を同じとする従兄妹であれば対面の機会もあったのだろう。先を続けるよう促せば目を潤ませ口を開く。

「その頃のわたくしめはもう若くもない年ながら一人として子を授からず、ひどく残念に思っておりました。更衣さまはまだ幼くおいででございましたが、励まそうとお思いになってくださったのでしょう、大人になり入内したなら必ず帝の皇子を産む、わたくしめに娘が産まれたら、その娘を妃の一人に迎えようと約束してくださったのです。その日から、わたくしめの大願は始まったのでございます」

 亡き母は幼い頃より父である大納言からゆくゆくは入内し皇子を産むよう育てられた。父を亡くした後はその遺志を継いだ母によって一族再興の悲願とともに後宮へ送られた。

「母は私を産んだが、私は臣籍に下り、今は位さえも持たず都を離れた身だ」

「承知しております。けれど、わたくしめはその昔、ある占い師に、大願を果たしたいのなら明石で光を待てと告げられました。信じきれぬまま、それでもここを離れる気にもなれず、このような鄙びた地でどうして皇子さまに娘を差し上げることができようかと嘆いておりましたが、今、源氏の君さまはこちらにおいででございます。これはきっと亡き桐壺の更衣さまのお導きなのだとわたくしめは信じております」

 入道は再び涙を落とす。私は無言のまま立ち上がり、簀子に出て空を仰いだ。都に戻れず、女房にさえ劣る身分の娘をなぐさめとし、この地で朽ちるのが私の定めか。

「先ごろ承香殿の女御さまにおかれましては皇子さまご誕生とのことでございます」

 驚きに振り向けば、入道は平伏している。

 帝が父となった。

 承香殿の女御の父は右大臣、母を同じくする兄は右大将の地位にある。弘徽殿の大后と縁はないが、確かな後ろ盾を持った女御の第一皇子であれば、この先、東宮にも立てる。今上帝の第一皇子の誕生に、姫君を持つ公卿たちは心をざわめかせているのだろう。

 宰相の中将は柏木を初めとし多くの子女に恵まれているが、私の子は葵の産んだ夕霧ただ一人。

 もし、許されて都へ戻れたら。

 もし、私に姫が産まれたなら。

 二つの願いが(うつつ)になれば、朱雀帝の皇子へ私の姫を入内させられる日が来るかもしれない。龍神の予言を信じるなら、その子は中宮にさえなり得る。

「お車を用意してございます」

 言って、入道は深く頭を下げた。


 その夜遅く、私は用意された牛車ではなく月毛の馬を選んだ。淡い栗毛の馬に乗り、わずかな供を連れ、入道の別邸を目指す。

 月の色を宿した馬で天を駆け、都まで舞い戻り、ほんのわずかの垣間見でもいいから、ただ一人の姿をこの目に映せたなら……

 叶うはずのない願いのままに山裾へ向かい、風情のある住まいに辿りついた。秋の夜を彩るように虫が鳴いている。

 見れば、檜の戸が月光を招くようにわずかに開いている。声をかけ、邸に上がったが、応えはない。代わりに几帳の紐が触れたのか筝の琴の音がした。秋の夜長に琴を爪弾いていたらしく、香もほのかに焚かれ、都の姫宮にも劣らぬ室礼(しつらい)ではある。

「琴を聞かせてはくれないのか」

 呼びかけに答えはなく、娘は襖障子(ふすましょうじ)の向こうへ隠れたらしい。手をかけると鍵までかけている有様だった。父の願いと娘の思いは違っている様子だが、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。

「あなたに会いに来たのだよ」

「……ものの数にもならぬ者でございます。どうか、お見捨て遊ばせませ」

 悲痛でありながらも気品に満ちた声。

「私はあなたにずっと会いたいと願っていたのだ」

「このような地で育ち、命の他に何をも持たぬ泡沫のような身の上でございます。どうぞお見逃しくださいませ」

「あなたを海神(わだつみ)の妃としないために、私は今ここにいるのだよ」

 答えはないが、いつまでも閉じこもってはいられないだろう。私は座して待つことにした。

 手遊びに筝の琴を奏でていれば、しばらくの後、娘は私の前に姿を露わした。顔立ちは都の美姫にも劣らぬほどに高貴に整っている。すらりとした身体つきは六条の御息所を思わせる。鄙びた地で育ちながら、藤のように貴やかであり、凍てつく冬に凛と咲く水仙のような気高ささえも感じさせる。

 私とこの娘の子であれば、どれほど美しく生まれつくだろう。姫であればいい、願いながら私は腕を伸ばした。


 夜明けを待たずに邸へ戻り、時を置かずに後朝の文を秘かに届けた。以来、私は人目を避け、明石の方のもとへ通い続けた。趣味に優れ、都の美姫にも劣らぬ容色の明石の方と過ごす時間はよいなぐさめになったが、海辺の邸から山の麓までは遠く、口さがない者たちに知れれば噂にもなる。無位無官の身で名まで落とすわけにはいかない、そう思えば次第に足は遠のいた。

 帝の病気平癒を祈りながら、須磨でしていたように明石の風景を描いては無聊を慰める。入道の嘆きも明石の方の悲しみも分かってはいた。それでも、私は途切れがちにしか足を向けなかった。


 年が明け、都を離れ二年が過ぎた頃、病を得たままの朱雀帝は、病床の弘徽殿の大后に逆らい、私への許しを布告した。

 三年近くの時をかけて、私の罪は公に許された。母に背いてまで許しを与えてくれたただ一人のためにすぐにでも京へ、帝のもとへ馳せ参じたい。けれど、許されたからといってすぐに都に戻れば、弘徽殿の大后側に「罪を罪とも思わず」と責める口実を与えかねない。

 帰還すべき時を伺ううちに春が過ぎ、私は明石の方の懐妊を知った。入道は姫に違いないと騒ぎ立て安産の加持祈祷を早々に始めた。

 身重になった明石の方を日を置かずに見舞ううちに文月(七月)となり、再び京からの使者を迎えた。

「帝より内裏召還の宣旨が下されました」

 帝の宣旨は神の声にも同じ。こうなれば、もう誰も私を咎められない。

 ようやく、ようやく京へ戻れる。

「帝からの御宣旨、これでもう都のご帰還に何の憂慮もございません」と泣き咽ぶ惟光に頷き、京へ残した妻や子にようやく会えると歓喜している者たちを眺め、目を閉じる。眼裏に浮かぶのは、ただ一人。深く深く傷つけた私を許し、都へと手招いてくれた人。鄙びた地に下り季節が幾度巡った今もこの想いは薄れず心を染め上げている。

「……主上」

 ただ一人を小さく呼んだ。

 喜びに満ちた邸で帰還の準備が速やかに整えられていく。明石の方にはいつの日か京に呼び戻すと誓い、琴の琴を残し、私は海辺の邸を後にした。


 三年近くぶりに戻った二条院は、紫の上や少納言を始めとして残し置いた侍従や女房たちにより何一つ損なわれずに守り抜かれていた。長い間の不在を耐え忍んでくれた紫の上を抱きしめれば、変わらぬ香が薫る。

 再会を喜びあう最中、尚侍である朧月夜の君から文が届いた。趣味のよい薄紙に今めかしい手蹟、ほのかに焚き染められた香も風雅に満ち、都へと戻ったと実感する。文を読み終わると私は宰相の中将に使者を送った。

 

 その夜、朧月夜の君の文に導かれ、私は秘かに清涼殿へ忍び入った。牛車は宰相の中将のものを借り受けた。

「私が主上に弱いと知っていて頼むのでしょう」

 驚き呆れ、恨めしげに言いながらも、中将は秘密裏に抜かりなく支度を整えてくれた。

 無位無官の身に恩寵の単を纏い、帝ともに二十日の月を愛でたあの夜と同じ直衣を重ねた姿で、尚侍が選んだ女房たちに匿われ、帝に召された女御や更衣が控えるための弘徽殿の上御局(うえのみつぼね)に入れば、懐かしい顔に出迎えられる。

「お久しぶりね、変わらず美しいわ」

 芍薬を思わせる美貌も華やかに、朧月夜の君は私を見て微笑んだ。

「それは私の台詞だよ」

「まぁ、貴方がどれだけ美しくても今の主上に意味はないけれど」

「主上の目はそれほどまでに」

「日ごとに悪くおなりよ。だから、貴方を呼んだの」

 朧月夜の君からの文には、帝が私に会いたがっていると書かれていた。その願いを叶えるために私は今ここにいる。

「貴方ならきっと来るって思っていたわ」

「この想いだけは須磨の海にも流せなくてね」

「須磨に下ったのはわたしのせいね。でも、謝らないわ。だって、わたしたちは互いに互いを選んだだけだもの」

「私はあなたのそういう所が好ましいよ。春の夜にあなたの袖を掴んだのは他でもない私だからね」

 笑いかけると、信じられない、と小さく呟かれた。

「その顔、都にいた頃よりもずっと、輝かしいまでに美しいわ。須磨や明石で過ごしていたなんて信じられない」

「心だけはここに残したからね」

「その輝かしさで主上の御代を照らしてほしかったわ」

 取り戻せない過去を悔やむ尚侍に、幼い頃、高麗の観相見が私にだけ告げた言葉を思い出す。

 光あれば必ず影が生まれる。強く大きい煌めきほど、その影は暗く冷たい。日と月、どちらも輝かしいゆえに同じ空には並べない、それが天の理。

 皇統を受け継ぐ帝と龍神を父とする私、どちらが日でどちらが月なのだろう。

「わたしはここまでよ。この先は貴方が一人で行って」

 尚侍に言われ、私は妻戸を開け、夜の御殿(おとど)に足を進めた。

 懐かしい香が薫る。東西南北の四隅に掲げられた灯籠に照らされた御帳台に帝は一人で座していた。俯き、顔は見えない。頼りなげな背中を、至尊の身にのみ許される御引直衣で包んでいる。色は藍が勝った二藍(むらさき)

「主上」

 静かに傍らに座し、囁きのようにただ一人を呼ぶ。ゆっくりと上げられた顔。まぶたは閉ざされ頬の線が陰っていても、この上なく美しい。

「……源氏の君」

 か細い声とともに白い指先が宙をさまよう。御所から出ることも稀な指は雪をも欺くほどに白い。その手が私を探している。

「源氏の君」

 その声が私を呼んでいる。

「主上、私は主上のすぐお側に」

 手を伸ばし、指先を捉える。それは悲しみだけで形作られているかのようにひどく冷たい。氷のような指先を両手で包み込む。見つめる先、閉ざされたままのまぶたが悲しい。

「……許して」

 あえかな、虫の音にも消え入りそうな儚い声。

「許して、源氏の君、どうか、わたしを許して」

 閉じた双眸から次々に涙が零れ、白い頬を伝う。優しいばかりの、誰一人として傷つけたくないとただそれだけを愚直なまでに望む人。

「私は主上にお許しをいただき、今ここに在ります。どうして主上を許せぬなどと思えましょうか」

「源氏の君……」

 呼び名は嗚咽へと消えていく。

 たった一人の人が私のために泣いている。やわらかで清らかな心で私だけを思い、悲しみに頬を濡らしている。京を追われた三年近い日々は、すべて今この時のためにあったのかもしれない。無位無官の身を清涼殿に召す危うさは帝にとっても同じこと。それでも、尚侍を介し私を呼び寄せてくれた。

「この心は二十日月のあの夜と何一つ変わってはおりません」

 告げて、濡れた頬を指先で拭う。

「……あの夜に帰りたい」

 涙とともに願われ、胸がつまる。

 頬を両手で包み込めば、ゆっくりとまぶたが開かれた。濡れた双眸は変わらずに美しく、光を失いつつあることがひたすらに悲しい。

「月は夜ごと昇ります。笛でも琴でも、主上のお望みのままに奏でましょう」

「宰相が源氏の君の横笛を聴かせてくれた。……それでも、ずっと、とても、さみしかった」

 ただ一人の瞳から新たな涙があふれ、零れる。 

 私はきつく目を閉じて、ただただ強く、唯一の人を抱きしめた。


 暁より少し早く、夜の御殿を出ていく私に帝は微笑みの曲線を描く口唇を開いた。

「源氏の君が参内する時は、わたしも装束に気を配らなくてはならないね」

「私にとってこの上ない眼福となりましょう」

「もっと早く尚縫(ぬいのかみ)に頼んでおけばよかった」

 残念そうな顔がどこかあどけなく、自然と口許が緩む。縫司(ぬいのつかさ)後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)のうち帝の装束を受け持つ。長である尚縫は美しい色合いを巧みに生み出すことで知られている。きっと見事な装束を用意するだろう。


 それからほどなく私に権大納言(ごんだいなごん)の宣旨が下った。私に与したために官職を失っていた周囲も、それぞれの位階にふさわしい者たちには元の官職が返された。

 秋の盛りに再びの春が巡ってきた。

 内裏に召され参内すれば、帝は晴れやかな笑みで正三位の位階を得た私を迎えた。三十歳を目前に都に戻った私を公卿や女房たちはより一層美しくなり風格も増したと褒めそやした。久しぶりに味わう人々の賞賛の中、清涼殿の昼の御殿で私は帝と対面した。

「待っていたよ、源氏の君」

 ただ一人は優美に再会の喜びを口にした。そのまま御前を離れず、さまざまに物語るうちに十五夜の月が輝く夜となった。

「このところ久しく管絃の遊びもしていない。ずっと源氏の君の楽の音を懐かしく思っていたよ」

 言って、帝は目許を潤ませた。

「古事記に伝わる水蛭子(ひるこ)のごとく足さえ立たぬ思いで三年の月日が過ぎましたゆえ」

 恨み言を歌にすれば、

「国産みの神々の巡り逢いのように再び会えた今なのだから、どうかあの春のことは忘れてほしい」

 返歌とともに帝は次々に涙を零した。私は私のために流された涙を拭い、求められるままに琴や横笛を奏で、ただ一人とともに夜を明かした。

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