八 須磨
二十六歳の春、私は官位を失い、無位無官の身となった。帝の寵愛する尚侍と通じた罪へと下された罰だった。
公然の秘密として、それでも暗黙のうちに秘められていた私と朧月夜の君との結びつきは、右大臣に暴かれ白日のもとに晒された。
数日のうちに、帝の名で私に流罪を命じる宣旨が下されるだろう。右大臣と弘徽殿の大后の差し金であっても、すべてを知りながら何も知らない振りを続けてきた優しいあの人に、それはどれほどの痛みとなるのか。
流罪を命じられるより先に、私は自ら須磨へ下ると決めた。想うほどに近づくほどに私は帝を傷つける。ならば、離れる以外に道はない。遠く遠く離れて、もう二度と会えぬまま鄙びた地で息絶えたとしても、ただ一人を悲しませも苦しませもせずに済むなら悔いはない。
私は粗末な網代車に乗り、夜にまぎれ先の左大臣邸に出向いた。
四歳になった夕霧は私を見つけると、笑い声を上げながら駆け寄ってきた。重くなった我が子を抱き上げる。無垢な瞳が眩しい。この子と葵と幸せになれると信じていた頃もあった。けれど、私は私の想いを捨てきれず多くの人を傷つけ、多くのものを失った。
久しぶりの父の訪れにはひとしきりはしゃいだ後、夕霧は私の膝で眠りについた。何も知らない寝顔、もう二度と会えないかもしれない。女房たちに息子を託せば、「おいたわしい」と涙声を返された。
「報いを受けたまでのこと」
そう言い聞かせているところへ、先の左大臣が三位の中将を連れ、渡ってきた。義理の父と兄に須磨へ下ると告げ、盃を交わし語り明かした。
葵の母である大宮と別れの歌を交わし、暁近くに邸を出ようとすると、有明の月が輝いていた。薄霧の中、盛りを過ぎた桜が薄紅の花びらを散らす景色はどこか現を離れて見える。花も恥じ入るほどの美貌と謳われた私ももう若くはない。
二条院に戻れば、眠れずにいただろう女房たちに涙とともに出迎えられた。西の対に出向くと、紫の上は静かに庭に視線を向けていた。
桜の細長に包まれた身体を抱きしめる。
「私は無位無官の罪人だ。貴方を連れてはいけない。いつの日にか私が戻れるその日までこの二条院を守ってほしい」
紫の上を最愛の人として慈しめていたのなら、何も失わずに済んだのかもしれない。
紫の上とともに夜を過ごし、日が高くなっても離さず御帳台で別れを惜しんでいると、桐壺院の三の皇子である帥の宮が訪れた。昨日会ったばかりの三位の中将を連れている。今上帝の異母弟に対面するため直衣に着替える。無位無官の身に紋の織り出しのない無地の直衣を纏い対面すれば、帥の宮がなぐさめを口にする。
「やつれた姿も見映えがしますよ」
穏やかに微笑む宮の顔立ちは亡き桐壺院によく似ている。
「源氏の君が都を離れるとなれば主上もひどくお嘆きになられるでしょうね」
ともに風雅を好み、帝とも親しい帥の宮の声に俯く。
「すべては私の不徳ゆえにでございます」
目を伏せ、ただ一人を心に描く。さまざまに語りあった秋の夜を思い出す。あの時、贈ったひとひらの紅葉は今どこにあるのだろう。
私と尚侍との関係を知りながら、何も言わずにいつの時も微笑みかけてくれた。あれほどまでに優しい人を傷つけた。それが私の罪。これが罰なら、甘んじて受け入れよう。
帥の宮を日暮れの頃に見送った後、邸や倉、荘園などはすべて私のものから紫の上の所有になるよう手配し、少納言に託した。
信頼できる侍従たちに二条院を頼み、都を離れる準備を進める中、右大臣の邸で蟄居している朧月夜の君や、関わりを持ったそれぞれの女人に別れの文を書き綴った。返事があるものは稀だった。
亡き桐壺院の麗景殿の女御を姉に持つ花散里からは私との別離を深く嘆く歌が届いた。私が帝の愛し子として宮中で暮らしていた頃からの恋人は、容色にこそ恵まれないが控えめで素直な性格が好ましい。夏に白い花を咲かせる橘のような姫に、いつの日にか帰京できた暁には必ず会いに行くと返歌を贈った。戻れるあてなど一つもない。それでも、私はその歌にかすかな願いを込めた。
京での最後の夜、私は馬に乗り桐壺院の眠る北山の陵へ出向いた。
叶うなら、このまま内裏へ駆けていきたい。けれど、帝の暮らす清涼殿の殿上の間へ昇殿できるのは、五位以上の雲上人のみ。私はこれまで三位の位階にあったが、今は無位無官の身、立ち入りさえも許されない。
崩御から二年ほどしか過ぎていないにも関わらず敬拝する者も途絶えたのか、陵への道には草が生い茂っていた。賢帝と讃えられた桐壺院でさえ、すでに人々から忘れ去られている。私もすぐに過去の徒花となるのだろう。
春の夜、私は粗末な狩衣姿で都を出た。
馬で港まで進み、舟に乗れば、まるで一刻も早く私を都から遠ざけようとするかのように強く追い風が吹いた。そのまま何事もなく日の明るいうちに早く須磨の浦に着いた。
須磨の屋敷は海から少し離れた山中にあった。周囲には木々が鬱蒼と生い茂り、見るからに侘しい風情がする。茅葺きの屋根に葦の葉をひいた渡殿などはめずらしく、風流でさえあるが、やはり都の雅びとはほど遠い。
ここで終える定めなのかもしれない。そう覚悟を決め、私は日々の生活の手はずを整えた。龍珠は荷物の中に入れてもいないのに、気づけば傍らで輝きを放っていた。
御所へ参内もせず、管絃の宴とも無縁な日々の中、私は絵筆を取り、須磨の景色を描いた。寄せては返す波、日の光に輝く砂原、海で生きる粗末な身なりの人々、都では目にできないそれらを絵巻の中へと写し取る。
私の舞った青海波を最も美しい海だと讃えてくれたあの人は、今どうしているのだろう。わずかでも私を惜しんでくれているのか。
文月、私との関係が露見し二条の邸に蟄居していた朧月夜の君から、今上の許しを得て参内したとの文が届いた。帝が私の不在を嘆いていること、源氏の君を政の支えにするようにとの院の遺戒に背いてしまったと悔み、生きていても悲しいばかりだから、いっそ儚くなってしまいたいと泣いたこと。尚侍から伝えられる消息はどれもこれも痛ましいばかりで、私は涙を止められなかった。
寄せては返す波を見つめ、時を無為に過ごすうちに中秋の十五夜を迎えた。庭に降り、満ちた月を見上げる。内裏の殿上の間での管絃の遊びが懐かしい。楽を好む帝は今ごろ琴を爪弾いているかもしれないが、今の私には波音と海風が葉を揺らすざわめきしか聞こえない。同じ月の下にありながら都はあまりに遠い。
「もう夜も更けてまいりました。どうぞご寝所にお入りになり、お休みくださいませ」
惟光の声に頷きながらも、日のように明るく輝く月から眼差しを逸らせない。あの夜も月は美しかった。ひとひらの紅葉を差し出し、帝とさまざまなことを語りあった。
「恩賜の御衣は今ここに」
私は月を見上げたまま古い詩を吟じた。
罪のない身で大宰府へ流された官吏は「恩賜の御衣は今ここに在り、捧持し日々、余香を拝す」と歌を読み、流罪の後も朝に夕に帝からの衣を捧げ持っては、その残り香に帝を思うと詠った。
詩のとおり、帝からの御衣は須磨に下った今も肌身離さず私の傍らにある。寝所へ入り、紅の単を抱きしめれば、かすかに帝の残り香が薫る。衣に左右の袖があるように、ただ一人への想いゆえにこの心は愛しさと切なさに染まり、この心は喜びと苦しみの波に揺れ続けている。
京を離れて一年近くが過ぎ、私は須磨で新年を迎えた。二十七歳を数え、二十歳の春を思い出す。紫宸殿の南庭の右近の桜を愛でる宴の席、東宮だった帝に桜の一枝を下賜されて舞を望まれた。たったひとさしの舞を心から喜んでくれたあの笑顔をなぜ守れなかったのか。
ささやかな新年の祝いが落ち着いてほどなく、宰相に昇進した三位の中将が思いがけなく屋敷を訪れた。右大臣の四の姫を正室に迎えてはいるが、須磨への訪いが知られれば官位を失う恐れもある。危険を承知の上で会いに来てくれた友を青鈍の狩衣で出迎える。
「よく来てくれた、このような地にまで」
「貴方のいない都はつまらなくてね、抜け出してきたよ」
座敷に招けば、興味深げに周囲を見回す。
「唐風でなかなかいい屋敷だ」
竹の垣根に石の階段、松の柱などは都人には見慣れないゆえに目新しく感じるのだろう。
地元の海人が貝などを献上しにやって来たので屋敷の内に呼び寄せ、侍従の取り次ぎで日々の暮らしぶりを訊ねてみたが、なまりがひどく聞きとれない。それでも、その表情や声音から日々の悲しみや苦しみは私たちと変わらないと知らされる。
「生きるとはつらいことだね」
海人に褒美を与え、下がらせた後にそう言えば、懐かしい友が笑う。
「だからこそ、楽しみもある。貴方にはまだ光の君の呼び名にふさわしい輝きがある。きっと都に戻れるでしょう。誰も彼も貴方を懐かしがっているのだから」
「ありがとう」
「帝もひどくお嘆きでいらっしゃる」
とっさに言葉を返せない。
「右大臣や弘徽殿の大后さまの手前、平気なふりをなさっておいでなのが、かえっておいたわしい。貴方が元気だとお伝えできれば、きっとお喜びになるだろう」
「では、帝のためにここまで」
「友として貴方に会いたいと思った気持ちに嘘はないよ。だが、私は文使いでもあるのでね」
言って、宰相の中将は私に一通の竪文を差し出した。白い薄紙を細長く折った文を受け取れば、かすかに懐かしい薫り。信じられない思いで口を開く。
「……これは、どなたから」
「もっとも尊い御方から」
いつもどおりの口調とは反対のひどく真剣な眼差しに、期待に沸き立ちそうになる心を抑えつける。ただ一人は至尊の身、無位無官の罪人である私とは天と地ほどにも遠く、限りなくかけ離れている。
「せっかくなので私は庭でも拝見させていただこう」
宰相の中将は立ち上がると、見上げる私に弟を励ます兄のような笑顔を向けてくる。
「もしも須磨を訪れることがあれば貴方に渡してほしいと、渡せばきっと伝わるからとおっしゃっておいででしたよ」
言い聞かせるような声の後、案内を命じた侍従たちを連れて宰相の中将は庭へ降りた。
一人になり、薄紙を開けば、ひとひらの紅葉。あの秋の日に帝に贈ったそれが、今もなお色鮮やかなまま、ここにある。薄紙には流麗な手蹟で万葉の歌が一首。
秋山に 霜降り覆ひ 木の葉散り 年は行くとも 我忘れめや
秋になり霜が降りた山で紅葉が散る。時が過ぎ、新年を迎え、私は貴方を忘れるだろうか、いや、忘れられるはずもない、都での再会を願い、綴られた文字。変わらぬ手蹟が涙で滲む。
帝の手筆による文は宸翰と呼ばれ尊ばれる。無位無官の罪人になど与えられるはずもないそれがこの手にある。至上の身で流刑地である須磨に使者を送れるはずもない。右大臣や弘徽殿の大后に与する者たちに取り囲まれながら、どれほど苦心して宰相の中将に託したのか。
どこまでも、悲しいまでに優しい人。いつの日にか都に戻れたなら、嘘偽りなく真心のすべてで帝のために生きよう。私は一人、誓った。
宰相の中将は日が沈む頃に戻ってきた。都の人々の消息などを語るうちに夜が更けていく。眠らないままに明け方が近づき、別れの盃を交わす。都からの趣味のいい土産を数多く持参してくれた中将に私は黒毛の駿馬を贈った。
「流人の身から贈られては不吉だと思うかもしれないが、時折はこの馬の嘶きに私を思い出してほしい」
「思い出す必要などないよ、あの方と同じように私も貴方を忘れはしないのだから」
明るさを増していく空を背に、艶やかな毛並みの体躯の大きな馬は大柄な宰相の中将によく似合う。
「これは形見として」
私は所有している中で最も名のある横笛を差し出した。楽の才に恵まれた中将なら吹きこなせるだろう。
「次に宮中での管絃の遊びが催された時は、必ずこの笛を持って参内すると約束しよう」
宰相の中将の笛の音が帝のなぐさめとなるよう願い、頷く。
惜別の言葉の後、宰相の中将は黒駒の鞍にかけようとした手を止め、私を振り返った。凛々しくも華やかな顔に苦笑が浮かんでいる。
「不思議な御方だな、主上は。頼まれると決して逆らえない気持ちになる。居丈高にではなく、ひどくやわらかにおっしゃるのに逆らえない。自らの他には誰一人としてこの御方の願いを叶える者はいない、私しかいないとさえ思えてくる。右大臣の世となり、おもしろくないことも多いが、主上に対しては不思議なほどお恨みするという気持ちになれない。お優しくお美しく、ひどく不思議な御方だ」
「私とは似ていないだろう」
「まったく似ていないようで、この上なく似ている気もするよ」
柏木が殿上童として内裏に参内しているが、と言って宰相の中将は言葉を切った。柏木は中将と正室の長子で、十を幾つか越えている。父によく似た華やかな顔立ちに聡明さを併せ持ち、今から元服の後を期待されるほどだ。
「父である貴方に似て楽の才に恵まれた御子なのだろう」
「ああ、楽に関しては帝からもお褒めのお言葉を頂戴してもいるのだが、幼い身でありながら主上は私がお守りすると言い出して、近頃は馬や弓の鍛錬に余念がないらしい。宮中に参内するまでは学問や管絃を好んでばかりいたのに」
「都では口にもできないが、分かる気もするな」
「ああ、私も不敬極まりないと思ったが、分かる気がして叱れもしなかった」
遠い昔、龍神の泉の水を得た帝によって病から救われた重臣の血脈を汲むとされる中将は笑い、黒駒のたてがみを撫でる。
「主上の力となってほしい」
眼差しを交わし告げれば、深く頷く。
「必ず」
誓って、宰相の中将は騎乗した。
「次は都で会おう。主上には貴方が必要だ」
力強い言葉を残し遠ざかっていく背中に、ともに青海波を舞った日を思う。臣籍に下りながら帝の愛し子として人々の称賛を受けていたあの頃、私は確かに都の花だった。誰よりも美しく万事に優れ、見事に咲き誇っていた。けれど、花の命は短く、もう若くもない私は都を追われ流人となった。人ならざるものを父とし、愚かな夢を抱いた更衣の子として産まれた私など徒花として散る定めなのかもしれない。
中将の訪れから半月ほどが過ぎ、暦は弥生(三月)となった。一日はちょうど巳の日となり、上巳の祓えとして、海で禊をし都への帰還を祈るよう勧められ、私は浜辺へ下りた。
周囲を幕で簡素に囲わせ、陰陽師に祓いをさせる。この身の穢れをうつした人形が海に流されていく。波の向こうへ消えゆくそれに都を追われた自らが重なる。誰よりも美しく優れているとあれほどまでに称賛されながら私はこの鄙びた地で終わるのか。ただ一人に会えず、都にも戻れず、それが罰か。
「それほどまでに私の罪は深いのか」
憤りとともに問えば、答えるように強い風が吹き抜けた。晴れていた空は俄かにかき曇り、雨は痛みを覚えるほどの勢いで降りつける。雷鳴が轟き、幕が吹き飛び、高波が襲いかかってくる。
全身あますところなく濡れ、外れかけた烏帽子を手で押さえ狩衣を乱しながら這うようにして屋敷に帰りついたが、雷鳴はより一層激しさを増し、矢のような雨は屋根さえも貫きそうだ。稲光は人ならざるものの咆哮のような音を立て、暴風は手負いの獣の唸りにも似た轟音を響かせ、屋敷もろとも私を地の果てに連れ去ろうとするかのごとく吹き荒れる。
「この世の終わりかもしれません」
嘆き脅える侍従たちをなだめるうちに夜になり、ようやく雷鳴が静まったが、風はまだ強く吹いている。
朧月夜の君との逢瀬が右大臣に知れたのも雷のせいだった。雷とは古来、神成りと書かれた。名のとおり地の罪人を射抜く天からの誅罰の矢なのかもしれない。
侍従たちは脅えを口にしながらも、暁近くになると疲労のままに眠りに落ちた。私も脇息にもたれ、目を閉じた。
どこかから凍てついた泉を思わせる香が薫る。まぶたを開くと、外の嵐とは無縁の悠々とした様子で龍神がすぐ近くに座している。
「今上の勅使として賀茂の斎院につき従い、光の君と褒めそやされた身が、須磨で隠遁か」
「帝の子ではない私にはふさわしい居所だろう」
言えば、父であるはずの神が笑う。
「近いうちに明石から迎えが来る」
「明石はこの須磨と浦続きだ。そんなところに迎えられても何の意味もない」
「意味があるかどうかは、後になれば分かること」
楽しげに言い置いた龍神が消えると、龍珠が脇息の上で輝いていた。




