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源氏秘恋  作者: 世宇
7/22

七 賢木

 長月(九月)、六条の御息所が伊勢への下向を決めたと馴染みの女房から文があり、私は嵯峨野の野の宮へ赴いた。

 人里離れたこちらでは秋の花はすでに枯れ、虫の音までも弱々しい。かすかに琴の音が聞こえてくるが、都一の貴婦人と称された御息所が姫宮の潔斎のためとは言え、これほどに草深い地で月日を重ねたと思うと痛ましい。風雅を極めた御息所の目に適うよう衣に気を配り、供の数もごく少なくしたが、神官たちは咎めるような視線を向けてくる。神に仕える彼らには私の罪が見えているのかもしれない。

 女房たちに取り次がれ、北の対で御簾越しに御息所と向かいあう。あえかに薫る香に、ともに過ごした日々を思い出す。折よく上がってきた月が背後から私の姿を照らしたのだろう、御息所が息を呑む気配がした。

「さまざまなことがありましたが、あなたとの出逢いは私にとって色を変えぬこの葉のように今もかけがえのないものです」

 賢木(さかき)の枝を御簾の内へ差し入れ、囁くと、

「深い心もないままに手折られる枝の痛ましいこと」

 変わらない貴やかな声音で返された。恨み言を口にしながらも声に私を拒む響きはない。

「この心を信じていただけないとは悲しいですね」

 言って、御簾の内へと立ち入れば、声と同じくその姿も衰えなく麗しい。

 まだ若かったあの頃、六条に住む年上の恋人は私にさまざまなことを教え、導いてくれた。尽きない思い出を、二度とは戻らぬ日々を語るうちに夜が明け、私は野の宮を後にした。


 それからほどなく十四歳の新斎宮は桂川での禊の後、母である御息所とともに輿で御所へ入った。定められた儀式として「京には戻らぬように」と命じ、斎宮の髪に別れの櫛を挿した帝が、清らかな姫宮との惜別に落涙したと聞き、私の心は騒いだ。

 風雅を極め、都随一の貴婦人と讃えられた六条の御息所は、新斎宮となった姫宮とともに伊勢へ下った。


 季節は冬へと変わり、以前から病を得ていた桐壺院の病状は日に日に重くなっていった。弘徽殿の大后の見舞いに続き、東宮の行啓(ぎょうけい)があり、遂には朱雀帝の行幸があった。内裏に在るべき至尊の身が上皇の御所へ出向く。それは院の命がもう長くはないと告げている。

 上皇の御所から還御した帝に召され参内すれば、濡れた瞳に迎えられた。

「父院はこの先も源氏の君を頼りにせよとの仰せになった。帝となるわたしの支えとなるよう臣籍に下ろし源氏の姓を与えたのだからと」

 言って、誰よりも貴いはずの一人はどこか儚く微笑む。

「源氏の君はこの先も、わたしを支えてくれるだろうか」

 声は隠しきれない憂いの色に染まっている。

 譲位の後も院は帝の後見として政の要だった。院が逝けば、右大臣と弘徽殿の大后を抑えられる者がいなくなる。帝は院の遺志を継ぎ左大臣と私を重んじようとするだろうが、右大臣と弘徽殿の大后が許すはずもない。祖父である右大臣と母である大后、亡き父の遺言と臣下である弟、どちらも大切に思う帝だからこそ板挟みになってしまう。

 帝は強くはないが、聡明だ。これからの行く末が見えているのだろう。せめてその心が少しでも晴れるよう偽りのない思いを声にする。

「この身のすべてで帝の御代をお支えいたします」

 誓えば、「ありがとう」と笑みを深める。

「源氏の君のような弟がいて、わたしは幸せだね」

 小さな声、小さな笑み。

 冬の今、裏地の紫が表の白綾にほんのりと透けている。天位を背負うにはあまりにも儚げな姿は、ひどく痛ましく私の目に映った。


 数日後、桐壺院が崩御し、帝は諒闇(りょうあん)に服した。師走(十二月)の二十日に四十九の日の法要があり、その日を最後に妃たちは桐壺院の御所を出た。


 年が改まれば右大臣と弘徽殿の大后の世となるだろう。やわらかな心根の今上帝では祖父も母も抑えられないと見抜き、人々は顔を曇らせている。

 近衛大将である私に東宮の母である藤壺の中宮と左大臣とを加えても、帝の外戚である右大臣と国母である弘徽殿の大后の力には及ばない。手段を問わなければできなくはないだろうが、強引な振る舞いは祖父と母を思う帝を傷つける。内裏が二つに分断されれば、どれほど帝を悩ませてしまうのか。

 これまでは桐壺院によって抑えられていた右大臣と弘徽殿の大后は、これから先、決して引かない。ただ一人の御代を支えたい思いに変わりはないが、弘徽殿の大后の怒りは帝の悲しみとなる。


 憂いとともに年が明け新年を迎えたが、今上帝が喪に服しているため新春を祝う儀式もなく御所は静けさに満ちている。桐壺院という後ろ盾を失った私のもとには年賀の挨拶も数えるほどだった。

 桐壺帝の御代から仕えていた尚侍(ないしのかみ)が院の崩御を悼み尼となったため、御匣殿(みくしげどの)であった朧月夜の君が後任に選ばれ、内侍司(ないしのつかさ)(かみ)に昇進した。後宮の女人はすべて、ただ一人の帝のために集められている。女御や更衣同様に帝に召され、皇子や姫宮を産んだ尚侍も少なくない。右大臣と弘徽殿の大后が朧月夜の君に託した願いはまだ断たれていない。

 弘徽殿の大后は二条の右大臣邸に里下がりする日々が増え、参内しても梅壺と呼ばれる凝華舎(ぎょうかしゃ)を使うようになった。後宮において第一の殿舎とされる弘徽殿は姉である大后から妹の尚侍へ譲られた。確かな後ろ盾を持ち、芍薬のように華やかな尚侍は、父院を喪い沈みがちな帝の心を明るく照らし、ほどなく女御にも劣らない寵愛を得た。


 今が盛りと桜が咲き誇るある夜、私は朧月夜の君に仕える女房に手引きさせ、秘かに弘徽殿に忍び入った。女房は泣きながら「あまりにも恐れ多いことでございます。どうかお考え直してくださいませ」とくり返したが、私は無理に押し切った。

 初めて出逢ったのは二十歳の春。あの頃、朧月夜の君は東宮妃としての入内を控えていた。あれから四年が過ぎ、東宮は朱雀帝として即位し、朧月夜の君は尚侍となり名実ともに帝のものとなった。今上帝の寵妃との逢瀬、公になれば官職も位も奪われ、流罪にさえなり得る。分かっていても、足を止めようとは思わない。

 声もかけずに御簾の内へ立ち入れば、文台(ぶんだい)に向かっていた朧月夜の君が顔を上げ、驚きに目を見開いた。

「……なんてこと。呆れた方ね、ここがどこかご存知でしょう」

 しばらく会わずにいたが容色に衰えはなく率直な物言いも変わらない。しとやかさが増したように見えるのは、帝の慈しみゆえかと邪推すれば心が騒ぐ。

「存じていますよ、幼い頃はよく来ていましたから」

 非難を込めた眼差しに構わず、すぐ傍らに座すと、朧月夜の君はため息とともに筆を置いた。

 弘徽殿の局は昔と変わらず贅を尽くして飾られている。調度の幾つかは姉から譲られたらしく見覚えのある品もある。

「知られたら、貴方もわたしも身の破滅よ」

「あなたなら私とともに滅んでくれると信じているのだけどね」

 言って、手を伸ばし黒髪を指先で弄ぶ。香の焚き染められた髪を帝も愛でたのだろうか。

「ともに滅ぶだなんて、わたしとの結婚を断ったこと、お父さまからお聞きしているわよ」

 責めるような物言いもあでやかに麗しい。

「ひどく残念なことに、いつの間にか立ち消えになってしまってね」

「女房たちには二条院に宮さまの姫君がいらっしゃるからだって言われたけれど、わたしは違うと思うわ」

 尚侍としての手腕を高く評価されている姫は、姉に似て聡い。

「貴方が想うのは、誰よりも貴いあの御方。今夜ここへ来たのも、わたしではなく帝の寵妃に会いたかったからでしょう」

 まっすぐな眼差しに、否定もごまかしもしたくない。

「とても優しい人でね、どうあっても心を離せない」

 認めると、どこか疲れを感じ、私は髪から指を離した。

「初めて会った日と同じね」

 白い両手に頬を包まれる。

「仕方がないから、なぐさめてあげるわ」

 微笑まれ、私は帝の寵妃を抱きしめた。ただ一人の名残を探すように丹念に肌を愛で、熱を交わした。

 求めあう時間が過ぎると、朧月夜の君は素肌に衣を纏った。あの頃はいつまでも肌を晒したまま睦みあっていたのにと思えば、短くはない時間が過ぎたと感じる。上体を起こし、小袖に包まれた身体を後ろから抱きしれる。

「どうして私の気持ちに気づいたの」

「簡単よ。貴方はわたしを抱いている時より、わたしから東宮さまの話を聞く方が楽しそうだったもの」

「それなら、これからはもっと多くの話を聞かせてくれる」

「いいえ、聞かせてあげない。だって、わたしといるのに他の誰かを想うなんて許せないもの」

「あなただけじゃない、誰といてもどうしても想いの先を変えられないんだ」

 「困ったことね」と囁かれ、腕の力を緩めると、朧月夜の君は身体の向きを変え、私を正面から見つめてきた。

「主上と貴方、よく似ているわ」

「そんなことを言われたのは初めてだよ」

 父を同じとする兄弟とされながら、私とあの人はいつだって似ていないと言われていた。母の身分も、その後に辿った道のりも何もかも、私たちはこれ以上なく遠く隔たっている。

「いるべき所を見つけられないような、迷い子みたいなところが似ているわ。寂寥を感じるの。そういう人、わたしは好きよ」

 今上帝の寵妃があでやかに笑う。

「帝はお優しいけれど、お強くはないわ。藤壺の女御さまが壮健とは言い難い方だから、代わりにわたしをお召しになるの。心を傾け過ぎたら、失うことに耐えられないから」

「私はそういうところにも惹かれるよ。あなたも同じでしょう」

 聞けば、尚侍が苦笑とともに肩をすくめる。

「わたしも貴方もいい趣味ね。でも、確かに放っておけない気持ちになるわ。弓でも太刀でもこの手にとって守って差し上げたくなるぐらいよ」

 どこか儚げな、あえかな人。守りたい思いに嘘はないのに、私はあの人を悲しませてばかりいる。それがひどく悲しかった。


 桐壺院の崩御の後、政の実権は右大臣と弘徽殿の大后が掌握し、そんな世を厭い左大臣は新帝のもとへ参内しなくなった。頼りにしていた左大臣を失い、どれほど心細く過ごしているのか分かっていながら私は清涼殿ではなく弘徽殿に通い続けていた。

「亡き院のご遺戒に背いてしまったってお嘆きよ。もとも強引なことなんておできになれない、やわらかなご性質だから、お父さまやお姉さまをお止めになれるはずもないわ」

 褥での戯れの後、座した私に寄りかかり尚侍はごく自然に口にする。

「わたし、主上は皇子さまじゃなく姫宮さまだった方がお幸せだったと思うの」

「もしそうであったら、すべてと引き換えにしても攫っていたよ」

 黒髪に口唇を落すと、小さな笑い声が上がる。

「さすがの源氏の君でも、帝を攫う勇気はないのね」

「あの方を苦しませたくはないからね」

「臆病なところもよく似ているわ」

 朧月夜の君は呆れたように笑った。


 賀茂の斎院は桐壺院の三の宮が務めていたが、院の崩御により任を降りた。新しい斎院には桃園式部卿宮を父に持つ朝顔の姫宮が選ばれた。桃園式部卿宮は桐壺院の弟皇子であり、朝顔の姫宮は朱雀帝の従兄妹にあたる。

 聡明で落ち着いた朝顔の姫宮は、葵を亡くした後、私の正室にとの声もあったが、一度として色恋めいた仲にはならぬまま季節の折りに文を交わし続けている。自らの教養や趣味をひけらかすことのない控えめ文面はどこか帝に似ている。神に捧げられる姫宮に、私は中将の君を通じて歌を送った。


 夏の終わりの今日は神今食(じんこんじき)の儀式がある。神嘉殿(しんかでん)に天から神を迎え、地においての神である帝が食事をともにする。

神事のために纓を白絹で結んだ御幘(おさく)の冠をつけ帛御衣(はくのおんぞ)を纏った帝が神を歓待している同じ頃、私は弘徽殿で帝の寵妃を腕に抱いていた。

「今、主上は国のため、人々のために祈っていらっしゃるのよ。そんな最中にこんなことをしているなんて、わたしたちはきっと地獄行きね」

 極楽浄土よりは退屈しそうになくていいわ、そう微笑む尚侍を私はきつく抱きしめた。


 秋になり、しばらく内裏から遠ざかっていた理由を後付けるため、私は雲林院(うりんいん)へ籠もることにした。亡き母の兄である律師(りつし)から仏典の講釈を受け幾日か滞在していると、東宮のもとへ参内している藤壺の中宮から使いが来た。宮中から退出する際の供をしてほしいとの願いを受け入れ、私は久しぶりに内裏へ向かった。

 東宮と藤壺の中宮の待つ昭陽舎に赴く前に清涼院に出向くと、帝は穏やかな笑みで私を御簾の内へ招き入れた。心安らかではない日々を過ごしているせいか、少し痩せ、顔の色も優れない。

「しばらく姿を見ないから、わたしや内裏のことを忘れてしまったのかと思っていた」

「そのような日は一日としてございませんでした」

「兄として弟を信じないわけにはいかないからね」

 さしたる理由もなく参内せずに過ごした日々は、それだけのやりとりで許された。

「今日は時間があってね、ゆっくりしていたよ」

 (ひとえ)の上に小葵(こあおい)の文様を織り出した(うちき)を重ね、脇息にもたれる典雅な姿に想いが募る。尚侍との噂を耳にしているだろうに責めるそぶりもない。

 幼い時から才学非凡と讃えられながら、なぜ私は正しく道を歩めないのか。自らを憂いていれば、雲林院で学んだ経典について教えを乞われた。説けば、穏やかな笑顔で称賛される。

「さすがは源氏の君、よく理解していて驚くよ。それにしても仏の道もなかなかに難しいものだね」

 温和怜悧と讃えられながらも奢ることのない微笑み。

「仏の道は遙かですがせめてものお慰めにと、雲林院からお持ちいたしました」

 言って、私は薄紙に包んだ紅葉をひとひら差し出した。

「まるで小さな(ほむら)のようだね」

 この上なく紅く染まった一葉に、帝が白い指を伸ばす。雪のような手で小さな火を愛で、口唇を緩める。

「とても美しいね。ありがとう。……伊勢の木々も同じように色づいているといいけれど」

 落ちた声に、心がざわつく。伊勢に下った斎宮の面影は未だに帝の心のうちにあるのか。だが、斎宮はすでに神のもの。京に戻るためには、母の死か帝の譲位のどちらかが必要となる。

「伊勢は神のおわす聖なる地、紅葉もきっと美しく色づいているに相違ございません」

 波打つ想いを隠し自信に満ちた口調で答えれば、私にとってのただ一人が笑みを深める。

「もう一年ほど前なのに斎宮の清らかな美しさを昨日のように思い出すよ。慣例に従い京に戻らぬようにと伝え、別れの櫛を挿したけれど、いつかもう一度会えたらと願わずにいられなくてね」

「私が神であれば会わせないでしょうね」

 平然と言えば、整った顔に驚きが浮かぶ。

「主上の御代は幾久しく続きますから」

 理由を続けると、小さく笑う。

「国と民のためにもいい世にしたいと思う。……院のご遺志のとおりにはできないことが多いけれど、どうかこれからもわたしの力となってほしい」

「私のすべてで主上にお仕えいたします」

「ありがとう」

 微笑みは美しく、けれど、憂いを帯びていた。


 さまざまに語るうち夜も更け、空には二十日月(はつかづき)が昇っていた。宵闇月(よいやみつき)とも呼ばれるそれに、雅趣を好む帝が目許をやわらげる。

「管絃の遊びでもしたくなるような夜だね」

 多くを望まない帝のささやかな願いさえ叶えられない。

「誠に残念ながら、今宵は藤壺の中宮さまご退出とのこと。その供にとのお言葉を頂戴しております。東宮さまの後見は亡き院のご遺志でもございますので」

 言えば、失望の色もなく頷く。至尊の身と崇められながら願いが叶わないことに慣れたような微笑みが悲しい。

「知らず長く引き止めてしまったね、中宮がお待ちかねだろう。東宮は年のわりに筆の運びなども優れていて行く末を楽しみにしているよ。ありがとう、源氏の君、久しぶりにとても楽しい夜だった」

 穏やかな笑みを宝物のように心に抱きしめ御前を辞し、東宮のもとへ急げば、その途中、弘徽殿の大后の兄である藤大納言(とうのだいなごん)の子息、(とう)(べん)と出くわした。帝の女御として弘徽殿に次ぐ格を誇る麗景殿(れいけいでん)に暮らす妹姫のもとへ向かうのだろう。大納言を父に持つ麗景殿の女御は、祖父である右大臣の養女となり女御として入内している。

 右大臣の嫡孫である頭の弁は私を見やると、史記の一節を吟じる。

白虹(はっこう)日を貫きけり、太子(たいし)()じたり」

 始皇帝暗殺を企てながら蹉跌(さてつ)した故事を歌ったのは、私への牽制だ。東宮を御旗に掲げ帝に仇なすなかれとの明らかな侮辱。

 父である藤大納言は私にも礼を尽くすのに、息子である頭の弁は右大臣家の権勢を笠に着て、こちらの気持ちを逆撫でするような振る舞いをくり返す。だが、右大臣の嫡孫であり、女御の兄でもある相手を咎めれば、「その心に疾しいところがあるからだ」と決めつけられ、より一層わずらわしさが増すだけだ。何より帝の憂いのもとになる。憤る侍従たちを視線で宥め、私は何も言わずにその場を立ち去った。


 藤壺の中宮のもとへと参内する頃には、月は中天にかかっていた。御簾越しに向かいあい、帝への伺候により遅くなった旨を口にすれば、鳥が囀るような笑い声が返ってくる。

「さぞ楽しい時間でしたでしょうね」

「ええ、とても」

 頷き、龍神の御子を東宮に立てた中宮を御簾越しに見据える。子を東宮とした今、中宮がこの先どう動くつもりなのか、それを確かめるためにここへ来た。

「こちらへの道すがら詩を耳にしました、白虹日を貫きけり、太子畏じたり」

 頭の弁が吟じたままを口にすれば、それだけで中宮は私の参内の意図を見抜いた。

「わたくしは白虹など望みません。東宮はまだ幼くいらっしゃる。朱雀帝の御代がつつがなく続くよう願っています」

 いくら大人びていても東宮はまだ六つ。桐壺院を喪い、私以外に有力な後見のない今、動くつもりはないのだろう。

「わたくしは母として必ず東宮を守ります」

 毅然とした声。

 弘徽殿の大后が東宮を排除し八の皇子を次代の帝に望んでいると聞き及んでいるのだろう。八の皇子は桐壺院と大臣の姫君であった女御との間に生まれ、その血筋の高貴さから親王の中でも重んじられている。だが、この母宮がついている限り、八の皇子に勝算はない。

 桐壺院は朱雀帝に左大臣と私を重んじ、東宮を猶子(ゆうし)とするように言い残した。左大臣は参内せず、私を重用することも難しい今、院から託された東宮までが廃太子となれば、帝は深く心を痛めるに違いない。私は東宮への忠節を口にし、藤壺の中宮の供をして宮中を後にした。


 後日、私のもとに帝から恩賜の御衣として(ひとえ)が届けられた。単は素肌に纏い、その色は束帯や直衣の襟や袖口の彩りともなる。私に与えられた綾の単の色は紅葉と同じ紅。文様は横花菱(よこはなびし)、菱形の中央に小さな四弁の花が織り出されている。

 小さな炎の礼に代えてと書かれた添え状の手蹟は流麗で、かすかな残り香を求め私は衣を抱きしめた。


 師走(十二月)十日過ぎ、藤壺の中宮が法華八講を催した。一日目に父である先々帝、二日目に母后、三日目に桐壺院の弔いを済ませ、末日である四日目に藤壺の中宮は自らの往生のためと出家を願った。人々は驚き、兄である兵部卿の宮が中宮の御簾の内へ入り、説得を試みたが翻意させられはしなかった。

 中宮の出家、すべては東宮を守るためだ。仏道に入った者の言葉は、世俗に生きる者よりも重くなる。この先、弘徽殿の大后が東宮を退けようとすれば、人々は尼になった藤壺の中宮を思い、非難の声を上げるだろう。藤壺の中宮の声望が高まるほど、それは東宮を守る楯となる。東宮を守ると言い切ったあの夜、自らの世俗の栄華と引き換えに東宮の地位を盤石にすると決めていたのか。

 母は強い。弘徽殿の大后も藤壺の中宮も子を守るためには一切の躊躇もない。もし私にそんな母がいたら、この心も少しは安らいだのだろうか。

 人々に惜しまれながら、藤壺の中宮は伯父である比叡山の横川(よかわ)の僧都の手によって髪を下ろした。


 新年とともに桐壺院の喪が明けた。新春の宴や年賀の楽が華やかに内裏を彩った。

 十日の県召除目(あがためしのじもく)では、見事なばかりに右大臣家に縁ある者たちばかりが官位を得た。そんな中、左大臣は帝の留意にも関わらず位を辞した。先帝からの忠臣を失った今上帝を、右大臣や弘徽殿の大后が目をかけた者たちが幾重にも取り巻いている。

 葵の兄である三位の中将は正室として右大臣の四の君を迎えていたが、さして仲睦まじいわけでもないため昇進はしなかった。

「源氏の君が加階していないのだから、私が昇進しなくても何の不思議もないでしょう」

 中将は恨む様子もなく笑い、足しげく二条院を訪れた。政に関われない無聊な日々を私は中将とともに学問や管絃の遊びをして過ごした。


 夏の頃、尚侍が病のために右大臣邸に里下がりした。里邸で加持祈祷を受けた朧月夜の君が小康を得たと知り、私は密やかに見舞いに出向いた。以来、私たちは幾度も逢瀬を重ね続けた。

 いつものように明け方近くになっても尚侍と御帳台で睦みあっていると、不意に雷が鳴り始めた。先ほどまで静かに降っていた雨も急に強まり、雨音を響かせる。

「天神がお怒りなのかしら」

 地を揺らすような雷雨の音にも動じず、素肌を晒したままの朧月夜の君が笑う。

 怒りよりも悲しみを選ぶ帝に代わり、天に断罪されるのならそれもいい。

「今日初めて出逢ったわけでもないのに、今さらのお怒りだね」

 言って、私は帝の寵妃の髪を撫でた。

「貴方と出逢ってもう五年、お互い代わり映えのないことね」

 あでやかに微笑む。その強さに帝は惹かれるのか。

「想いは変えられないからね」

「どなたへの想いなのかは聞かないであげるわ」

 戯れに言葉を交わすうちに雷雨はますます激しくなり、雷を恐れた女房たちに御帳台を取り囲まれ、私は帰れないままに右大臣邸で朝を迎えた。

 雷が静まり雨が弱まってきた気配に安堵しかけた時、前触れもなく右大臣の声がした。

「大変な嵐だったね。遅くなってしまったが、見舞いに伺ったよ」

 腕の中の朧月夜の身体が強張る。御帳台の中にいる私たちと右大臣の間には几帳があり、互いに姿は見えない。色を失った頬を撫でれば、朧月夜の君は素早く衣を纏い、御帳台を出て、父である右大臣と向かい合った。

「お待たせいたしまして申し訳ございません、お父さま」

「ああ、お目覚めであったか。おや、顔色があまりよくないね。もう少し加持祈祷をさせるべきであったか。……それは懐紙か」

 昨夜、手遊びに歌などを書き散らかした紙が几帳の側に落ちていたらしい。右大臣がそれに手を伸ばす様子を薄絹越しに感じながら私は単の上に小袖をはおる。

「これは男の手蹟ではないかっ」

 声とともに、右大臣が几帳をなぎ払った。私を見つけ、その顔が驚きと憤りに染まる。

「嵐の見舞いに来てみれば、これは一体どういうことだっ」

 帝とは似ても似つかぬその姿に、私はゆっくりと扇で顔を隠した。薄様の向こうから右大臣のすさまじい怒気とともに荒い息遣いが聞こえてきたが、この場で私を罵倒することはできず、右大臣は懐紙を手に足音を荒げ出ていった。

 女房たちは青い顔で身を寄せ合い、朧月夜の君は肩を震わせている。

「いつかこんな日が来ると分かっていたから、なぐさめてくれなくてもいいわ」

 毅然と言い切るその頬を涙が伝う。

「不思議ね。帝を悲しませてしまうと思うと、それがひどく悲しいの」

 私は何も言わず、帝の寵妃を抱きしめた。


 右大臣は弘徽殿の大后に私のことを告げたのだろう。夏が終わり秋を迎えると、誰からともなく私の悪評が広まり始めた。今上の寵愛を受ける尚侍と通じた上、帝の御代を祈るべく賀茂の斎院となった朝顔の姫宮にも懸想している。それは帝への逆心に違いないと断定された。

 木々の葉が日ごとに色を深めゆくように、人の口に上る私の罪も重く深くなっていく。帝を廃し、まだ幼い東宮を即位させ摂政となり政のすべてを手中に収めようとしているという風説までが流れ、広まっていく。朧月夜の君が右大臣邸から御所へ戻っていない事実も噂に拍車をかけた。噂だけに表立って反論も弁明もできない。かつて私と朧月夜の君が関係を持った際、右大臣側は噂であるがゆえに私を咎められなかった。右大臣と弘徽殿の大后は同じ仕法で私に罰を与えた。その手腕は見事でさえあった。

 人々の眼差しは私への非難に満ち、鋭く冷たい。宮中で孤立する私を気づかうように見つめ、帝は何かを言いたげだった。しかし、今上の周囲は右大臣に縁のある者たちが幾重にも取り囲み、近づくことさえできない。

 先の左大臣に近しい人々は中将を始めとして、変わらず親しみを示してくれたが、冬になる頃には疎遠になる者も増えていった。

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