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源氏秘恋  作者: 世宇
6/22

六 葵

 春、病の癒えぬ桐壺帝が譲位し、東宮が朱雀帝として即位した。

 藤壺の中宮は東宮に選ばれた四歳の皇子を宮中に残し、上皇となった桐壺院ともに院の御所へ移った。弘徽殿の大后(おおきさき)は国母として後宮に留まった。

 壮麗な即位式で、天子にのみ許される黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)に身を包んだ二十五歳の帝は清らかな美しさに満ちていた。求めてやまないただ一人は地において神にも等しい天子となった。臣籍にあるこの身に、高御座はあまりに遠い。

 皇位を得ても親しげなままに、帝は私を御簾の内に招き入れた。折り畳んだ(えい)を、金箔を施した檀紙(だんし)で射し止めた金巾子(きんこじ)御冠(ごかん)に、裾を長く引く御引直衣(おひきのうし)。至尊の身にのみ許される装いが優美さをより一層引き立てる。

「父院も左大臣と源氏の君を頼りにするようにとおっしゃっていた。どうかこれからも私を支えてほしい」

 大将の位を得た私は恋情に揺れる心を押し隠し、力強く微笑む。

「私のすべてを主上(うえ)の御代にお捧げいたします」

 誓えば、大切な人が「ありがとう」と笑みを深める。帝は若く、何より心根が優しすぎる。これから先は帝の威光を笠に着て、右大臣と弘徽殿の大后が政を取り仕切るようになるだろう。


 新帝即位に際しては伊勢の斎宮(さいぐう)も代替わりとなる。新しい斎宮には、六条の御息所が亡き東宮との間に授かった姫宮が選ばれた。私との仲を思い悩み、御息所は幼い姫とともに伊勢へと下ろうとまで考えているらしい。

 御息所を粗略に遇し続けた私は、ある日、院の御所に呼ばれ、桐壺院から叱責を受けた。

「亡き東宮は私と父も母も同じくする弟皇子だった。才気にあふれ輝くほどに美しい人だったが、惜しくも年若くして儚くなった。東宮は六条の御息所を誰よりも大切にしていた。斎宮に定められた姫も私にとっては我が子同然。祖略に扱ってよいはずがない」

 桐壺院とその弟である亡き東宮は仲睦まじく、その姿は「日の皇子、月の皇子」と呼ばれていたと聞いている。

 幼い私に向かい、

「東宮も更衣も、私が心から愛した人はみな私を置いていってしまう」

 そう嘆いた姿を思い出し、私は養い親に深く頭を下げた。けれど、その後も私は御息所に誠意を尽くしはしなかった。私の子を宿した葵の体調が優れないことを言い訳に、六条へは足を向けず、文さえ送らずに過ごしていた。若年の恋人に打ち捨てられたと噂され、誇り高い御息所がどれほど耐えがたい気持ちでこの身の訪れを待ち続けているのか考えもしなかった。私は若く、傲慢だった。


 伊勢の斎宮とは異なり、賀茂の斎院(さいいん)は御代が移っても代替りはしないのが習わしではあったが、朱雀帝の即位に際しては斎宮とともに斎院も改めると定まり、新帝の妹宮が選ばれた。桐壺院からも弘徽殿の大后からも格別に愛された三の姫宮のため、儀式は盛大に執り行われることとなった。

 宮中を出て禊の後、初斎院に移った三の宮は斎戒(さいかい)潔斎(けっさい)を終えると紫野(むらさきの)へ向かう。二度めの禊の儀式が行われるのは、卯月(四月)の酉の日、賀茂の大祭と定められている。その前日、斎院(さいいん)御禊(ごけい)の神輿につき従う一向には、優れた容貌の者ばかりが選ばれ、誰も彼もが華やかな装束に身を包み、姫宮を神のもとへ送り届ける。

 神域に入る妹にはなむけを贈りたいとの朱雀帝の意向により、私も従者の一人に選ばれた。


 よく晴れた空の下、巻纓冠(けんえいのかん)を葵の葉で飾り、騎乗して一条大路を進む。馬の毛で作られた(おいかけ)で両耳を覆い、薄紫の袍の背に矢を背負い、衛府(えふ)太刀(たち)を携え、武官として雄々しく着飾った私を数えきれない見物人たちがぶしつけなまでに見つめてくる。 隙間もないほどに立ち並ぶ牛車の中に、ひときわ豪奢な一台があった。左大臣家のものだ。葵が乗っているだろうその前を私は表情を引き締め、通り過ぎた。臣下の者たちはそろって正室である葵への敬意を誇らしげに示し、後に続いた。

 御所へ戻り、滞りなく大役を終えたと奏上すれば、帝は私への称賛を我がことのように喜び、感謝を伝えてくれた。

「ありがとう、源氏の君。三の宮も心から喜んでいたと聞いているよ」

 曇りのない笑顔を与えられ、満ち足りた思いともに淑景舎へ戻ると、冷やかな風が一陣吹き込み、あの香を感じた。

 まぶたを閉じた覚えはないのに、目の前には隻眼の着公子が立っている。龍神は楽しげに口唇を開き、葵と御息所の車争いを私に伝えた。

 後からやってきた左大臣家の牛車が見やすい場所を求め、御息所の牛車を無理やり脇に追いやった挙句、車の長柄(ながえ)を置くための(しじ)までも乱暴に押し折ったと聞き、私は深く息をついた。

「葵は多くに恵まれているせいか周囲への情けに欠ける。もうすぐ母となる身であるのに、思いやりも知らぬとは」

「榻の折れた車はぐらつき他の車に寄りかかる有様。気位の高い御息所にはさぞ堪えただろうな」

 言われるまでもなく誇り高い御息所がどれほど身の置き場のない思いをしたのか、考えるまでもない。

 その夜、謝罪と慰撫のために久しぶりに六条邸へ出向いたが、御息所は新斎宮となった姫宮の潔斎を理由に私に会おうとはしなかった。取り次ぎの女房の手前、ひどく残念だと口にはしたが、顔を合わせずに済み、私は秘かに安堵していた。


 翌日の本祭、私は牛車に若紫を同乗させて祭見物へ出かけた。妻でも恋人でもない姫は、だからこそ私に恨みごとの一つも口にしない。理想的なまでに美しく整った顔立ちを見つめ、私は心安らかな時を過ごした。

 私は御息所が本当に伊勢に下るとは考えていなかった。いくら姫宮が幼くとも斎宮は神のもの、親子の縁を断ち切って神域に生きるが定め。同行する母など聞いたことがない。それでなくでも、風雅を愛する御息所が都を捨て、鄙びた伊勢へなど下れるはずがない、そう決めつけていた。

 聡い御息所には、年下の恋人に軽んじられていると感じることも多かっただろう。それがどれほどの痛みとなって、御息所を苦しめ苛んでいたかなど私は想像さえしていなかった。


 賀茂の大祭の後、葵の様態は日に日に悪化していった。左大臣邸に見舞いに出向くと、額に汗を滲ませ苦しげな様子で伏せている。

 互いに打ち解けぬまま十年が過ぎ、ようやく子を授かった。親になれば、私たちも心を通わせられるかもしれない。互いを慈しみ、双宿双飛の夫婦として幸せな日々を過ごせたなら、私はこの片恋から逃れられるだろうか。

 体調の優れない葵は普段の取り澄ました様子もなく心細げで、女房たちから勧められるまま私はその身を抱き起し、手ずから薬湯を飲ませた。

「主上から頂戴いたしました薬司(やくしどころ)の煎じ薬です。少しは心地が楽になるとよいのですが」

「お気づかい、うれしく思います」

 葵は小さく微笑んだ。その笑みにようやく気づく。初めからこうしていればよかった。理解されない、愛されないと求めてばかりで、私はこれまで葵をいたわりさえしなかった。

「どうか無事に私の子を産んでください。私の妻はあなた以外にいないのですから」

 願いを囁き、髪を梳けば、葵は少し驚いた顔をした後、小さく微笑むと私の腕の中で身体の力を抜いた。


 時を同じくして、病を得た御息所が加持祈祷のために斎宮のいる六条邸を離れたと知り、私は久しぶりに足を向けた。強引に御簾の内に立ち入り、変わらない想いを囁き抱きしめたが、御息所は私と目を合わせようとはしなかった。言葉だけはどこまでも甘く注ぎながら、黎明よりもずっと早く帰っていく私の背中を御息所はどのような気持ちで見送ったのだろう。


 予定の月日より早く葵は産気づき、苦しみ出した。喘ぐように私の名を呼んだらしく私は几帳の内に招き入れられた。左大臣も母宮も下がり、二人だけになる。僧たちの読経も低められた。出産に備え調度は白一色に整えられ、横たわる葵の衣も雪の色だ。袖の色にも劣らぬほどに白い手を取る。

「あなたを失うなんて、私にはあまりにつらいことです」

 言えば、嘘のない涙があふれた。ようやく妻の大切さに気づいた今になって、喪おうとしている。その痛みに私は泣いた。葵の目からも涙が零れている。

「どうか泣かないで、私の大切な人」

 妻の涙を拭い、黒々とした髪を撫でると、葵は口唇を緩めた。

「……少し、祈祷を緩めてくださいませ、苦しくてなりません」

 声が違う。葵よりも幾分低い、落ち着きと気品に満ちた声。

「貴方を愛して、愛しすぎて、わたくしの魂は彷徨っているのです」

 苦しげに微笑む面差しが、かの人に重なる。六条に住まう高貴な年上の恋人。趣味よく風雅に優れ、年若い私に恋の手ほどきをしてくれた人。

 葵の病の原因は御息所の生き霊だと騒ぐ女房たちを愚かだと幾度もたしなめていたのに、それなのに。

 愛していると言いながら、なぜ私を苦しめる。

 生き霊となるまでに追いつめた我が身の至らなさを悔いるより先に、私は怒りを覚えた。

「愛していると言われても私はあなたなど知らない。心あたりもない」

 苛立ちのままに突き放せば、すぐ近くの顔が泣き出しそうに歪む。傷つけた、この上もなく。

 気づいて、けれど、弁解を口にするより前に、

「葵の上さまのお声が」

「いかがなさいましたか」

 異変に気づいた女房たちが近付いてきた。

「御息所」

 伝えるべき言葉を見つけられぬままに呼べば、頬を撫でられる。

「貴方はわたくしを愛してなどいらっしゃらない、初めから存じておりました。それでも、わたくしはどうしようもなく貴方が愛おしい」

 悲しげに言い残し、白い手は花が萎れるように落ちていく。動けずにいる私の目の前には、葵の寝顔。ざわめく心をなだめられぬまま、戻ってきた女房たちに妻を託し、私はその場を離れた。

 簀子に出て見るともなしに庭を見ていると、しばらくの後、産声が聞こえてきた。

「若君さまでございますっ」

 勢いよく駆け寄ってきた惟光に一つ頷き、母と子の身辺が整うのを待ち几帳の内へ戻ると、葵は疲れを見せながらも穏やかな笑みで私を迎えた。傍らに控えた女房から赤子を受け取り、腕に抱く。

 私の子だ。この子こそ光となり、私を照らしてくれるだろう。今日からはこの子と妻である葵を愛して生きていける、きっと。

 産まれた子は親の欲目かひどく愛らしい。右大臣家が力を増していく世でこの先どんな道のりを歩むのか。どんな時世となっても、生きていけるよう私は容姿、人格、出自をも兼ね備えた女房たちを息子のために選び出した。

 人の親となった喜びに浸りながら御息所を思う。このままにしてはおけない。とは言え、会いたいはずもない。迷いの末、私は季節の挨拶だけを短く書き送った。


 大臣以外の都の官吏が任命される秋の司召除目(つかさめしのじもく)を迎える頃には、葵の容態も落ち着いた。夕霧の誕生以来、多くの時を左大臣邸で過ごしてきたが、私は久しぶりに参内すると決めた。子の親となった今なら、痛みもなく帝と向きあえるかもしれない。

 邸を出る前に葵を見舞えば、几帳の内へと招かれた。枕元に用意された席に座し、とりとめもなく言葉を交わす。あの日と同じように薬湯を飲ませ、腕の中に抱く。

「長く隔たっていたが、これからは夕霧とともに三人で日々を重ねよう。たくさんのことを語りあって生きていこう。私はあなたに話したいことがまだたくさんあるのだからね」

「わたくしもお聞かせいただきたく存じます」

「なるべく早く戻るよ」

 言えば、葵は「お待ちしております」と微笑んだ。心の通う妻の姿に満足し、私は衣装を整え内裏へ向かった。昇進を望む子息たちは父の力添えを期待し、左大臣を取り囲んで清涼殿へ参内した。


 朱雀帝の親臨(しんりん)を仰ぎ、左大臣の取り仕切りのもと任官の儀式が進む。着任者の名が大間書(おおまがき)へと記され、選ばれた者の喜びと選外となった者の悲哀が交差する。

 近衛大将である私の位階は正三位。太政大臣になったとしても、その位階は正一位(しょういちい)。至尊の身である帝と比べられるはずもない。もう潮時なのだろう。徒人であるこの身の位が帝位に遠く及ばぬように、この心もただ一人には決して届かない。片恋に足掻き、これ以上誰かを傷つけるわけにはいかない。この先は葵と子を慈しみ生きていく。それが私の選ぶべき道だ。

 滞りなく進む除目の中、前触れもなく左大臣邸からの使者があった。

「葵の上さま、ご逝去にございます」

 涙とともに告げられ、理解できない。夢の中にいるかのような心地のまま、左大臣、頭の中将とともに急いで三条に引き返す。

 邸に戻り渡殿(わたどの)を足早に進み、妻の枕元へ駆け寄れば、葵は安らかに眠っているだけのように見えた。

「……わたくしはただ貴方を愛しただけ」

 囁きがごく近くで聞こえた。振り返ったが、傍らには嗚咽を漏らす左大臣と頭の中将、泣き崩れている女房たちしか見えない。

 空耳ではない声は年上の恋人のものだった。

 ああ、私のせいか。そう思うと、立っていることもできず、私は両膝をついた。

「葵、私だ。待たせてすまなかったね。今、帰ってきたよ」

 呼びかけ、顔をのぞき込むが、答えなどあるはずもない。周囲から幾つもの啜り泣きが聞こえてくる。

 葵は御息所に殺された。その因果を作ったのは他ならぬ私自身。葵は夫である私に殺されたも同じ。


 左大臣は娘の魂を取り戻すためにあらゆる手を尽くしたが、一度取りついた死をひきはがせるはずもなく、数日後、鳥部野(とりべの)で葵を荼毘に付した。火葬の(ほむら)は夜どおし天を焦がし、私の妻は真白い骨になった。紅蓮の炎の夜が明け、空には有明の月が輝いている。  

 夕顔に続き、葵も喪った。

 左大臣を父に宮腹のただ一人の姫君として生を受け、いずれは東宮妃にと傅かれ育った葵にとって、身分の低い更衣を母とし有力な後ろ盾もなく臣籍に下った私との縁組は不本意なものだったに違いない。都でも指折りの高貴で華麗な姫を妻としながら祖略に扱い、遂には恋の報いを受けさせた。自らの未熟さに今さら気づいても、葵はもういない。何もかも遅すぎて、何一つ取り返しがつかない。

 唯一の姫君を失った母宮の嘆きは深く、掌中で大切に慈しんだ珠が砕けたかのように泣き伏している。そんな姿を見るにつけても、悲しみは深くなる。

 葵とともに帝への恋も弔うと決め、私は左大臣邸でひたすらに読経に明け暮れた。出家も考えたが、母を知らずに育つ子が父まで失うと思えば、あまりに不憫で果たせなかった。

 御帳台で一人、浅い眠りから覚めれば、僧たちの読経が聞こえてくる。帝からの弔文が思い出され、いたわりに満ちた言の葉が次々と浮かび、心の水面(みなも)が揺れた。


 日ごとに秋が深まり、染まりゆく木々のように悲しみがより一層鮮やかに沁みてくる。

 そんな折り、咲き初めの菊の一枝とともに御息所から文が届いた。この上なく優美に慎み深く葵の死を悼むそれは、今まで交わしたどの文よりも洗練されていて、だからこそより一層許せなくなる。けれど、気持ちのままに捨て置くのはあまりにも情けのない仕打ちだろう。私のことはどうか忘れてほしい、葵の死を責める気持ちはないとだけ短く書き送った。


 ひたすらに喪に服す私を気づかい、三位に昇進した頭の中将は毎日のように顔を見せた。

 時雨の降る夕暮れ、私は西の角の高欄(こうらん)に寄りかかり、霜枯れの庭を眺めていた。傍らに人の気配を感じ、顔を上げると、中将だった。鈍色(にびいろ)の直衣も指貫もやや淡い色合いのものに替えている。

 悲哀に囚われているうちに十月一日(ころもがえ)が過ぎたのかとぼんやり考えながら、夏の直衣の襟の紐を結い直し、尽きない思い出を語りあった。


 葵の四十九日が明け、私は左大臣邸を出た。

 久しぶりに桐壺院の御所に参内すると妻を喪った息子を気づかい、院は御前に膳を運ばせた。疑いもなく我が子として私を慈しむ姿に、母の罪を思う。

「母上を覚えておいででございますか」

 私のために調えられた料理を口にしながら、気づけばそう訊ねていた。院は目を細め、頷く。

「忘れたことはないよ。けれど、長い時が経って、そなたの母と過ごした時はどこか夢のようにも思える。あの頃、周囲の心ある者の声も聞き入れず、まるで何かに操られるかのように片時も離さず更衣を求めていた。思えば、帝や弘徽殿の大后にも気の毒なことをした。私の至らぬ振る舞いが、結果として私から更衣を奪った。それでも、更衣がそなたを遺してくれたことは私の大きな慰めとなったよ」

 そなたにとっても子が大きな支えになるだろう。大切になさい、そう続ける声には私への慈しみが満ちていた。

 事実はどうあれ桐壺院を父と敬い、朱雀帝に臣下として仕えていくことこそ私の進むべき道に違いない。分かっているのに、無紋の上衣(うわごろも)に鈍色の下襲(したがさね)、喪を表わすために後ろの(えい)を巻き上げた冠を身に付けた姿を、普段の華やかな装いよりもかえって清廉さが際立つと称賛されれば、想いのままに帝のもとへと参内したくなる。


 波打つ心のまま二条院へと戻り、装束を普段のものに改め、西の対へ渡る。

 長い不在を責めもせず、若紫は静かに私を迎えた。余計なことは何も言わず、ただ黙って、いつまでも側にいてくれた。

 私は妻を喪った。この先、私が一の人とするのは若紫以外にない。それからしばらくの間、他の女人のもとへ出歩かず、二条院で若紫とともに過ごした。


 同じ頃、朧月夜の君は女御ではなく御匣殿別当(みくしげどののべっとう)として後宮に入った。右大臣としては女御としての入内が叶わぬなら葵を亡くした私の後添えにとの考えもあったらしく内々に申し出めいたものもあったが、弘徽殿の大后が許すはずもなかった。


 冬の夜、私は若紫と満ちた月を眺めていた。痛いほどに冷えた空気の中、傍らを見れば、優美な顔立ちは私の理想そのもの。

 山里に出向いたあの春からもう四年、裳着(もぎ)はまだだが、背丈は乳母の少納言と変わらない。

 若紫を入内させることはできない。

 雪のように白い頬を両手で包むと、澄んだ瞳に私が映る。

「今日から先は(つが)いの鳥のように片時も離れず日々を重ねよう」

 囁き、その夜、私は若紫を妻とした。

 翌朝、私は後朝(きぬぎぬ)の文を置いて御帳台を出た。女房たちに今日から紫の上と呼ぶよう命じれば、乳母であった少納言は目に涙を浮かべ祝辞を口にしたが、紫の上からは返歌さえなかった。


 年が明け、私は御所の桐壺院、内裏の朱雀帝、東宮のもとをまわり、新年の挨拶を述べた。

 帝は新しい年の始まりにふさわしい清らかな笑みで私を迎えた。

「先の年は心痛むことが多かったようだね。今年は安らかな日々になるように祈っているよ」

 弔問の礼を告げ内裏を後にし、左大臣邸に出向くと息子は女房たちから「夕霧さま、父上さまよりもずっとお可愛らしい夕霧さま」とあやされ、しばらく見ないうちに随分と大きくなっていた。母の死も知らずに、あどけなく笑っている。幼い時に母を失くした私と同じように、母を知らずに育つ我が子を哀れに思う。夕霧のためにも葵が生きていてくれたのなら、我が子を腕に、叶わない願いを心に抱いた。

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