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源氏秘恋  作者: 世宇
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五 花宴

 新しい年を迎え、私は二十歳となった。

 如月(二月)の二十日過ぎ、紫宸殿の南庭の右近の桜を愛でる宴が開かれた。才を認められた人々が庭の白砂(しろすな)に立ち、揃って学才に秀いでた帝と東宮に漢詩を奏上する。

 日が傾き、楽人(がくにん)春鶯囀(しゅんのうでん)を舞った。舞が終わると、私は東宮に召された。御前に参上すれば、桜の枝を下賜され青海波を所望された。

「どうかひとさし舞ってはもらえないだろうか。紅葉賀(もみじのが)での舞い姿が忘れられなくてね」

「では、ひとさしだけ」

 そう断り、冠を桜の枝で飾り、私はゆるやかに袖を振った。ほんの少しの、かりそめのような儚い舞踊、これ以上は続けられない。これ以上舞えば、許されない想いが溢れてしまう。

 わずかな舞に、それでも東宮は何一つ惜しまず感謝を示してくれた。私への人々の称賛を我がことのように喜ぶ。嫉妬のかけらも見せない稀有な心根に想いが募る。

 私に続き頭の中将が柳花苑(りゅうかえん)を舞い、褒美に帝から衣を下賜された。帝からの衣は、恩賜(おんし)御衣(おんぞ)と呼ばれ、臣下にとって至上の誉れとされる。誇らしげな中将を微笑みとともに見守り、東宮は私へ眼差しを向けた。

「源氏の君にはわたしから何か贈ろう」

「すでに(はな)を一枝、頂戴しておりますので」

 言えば、「わたしの弟は無欲だね」と笑う。

 願いはただ一つ、花の中で花以上に美しく微笑む人、ただ一人。

「とても楽しかったよ、源氏の君のおかげだね」

 宴が果てると東宮は私にそう声をかけ、退出した。遠ざかる背中を見送り、私は供も連れず、あてもなく歩き出した。

 宴の最中に見た、春の月を愛でる横顔が心を離れない。

「今夜は見事な朧月だね、桜も美しくて」

 同意すれば、陰りのない笑顔を向けてきた。

「そう遠くないうちに、わたしも新たな花を迎えられそうだよ」

 東宮の言う花とは、右大臣家の六の姫。弘徽殿の女御が年の離れた妹姫を女御として東宮に入内させるつもりらしいと聞いている。

「望ましい相手だから大切にしたいと思っているよ」

 六の姫の後ろには右大臣と弘徽殿の女御が控えている。六の姫を東宮に入内させ、即位の後に立后できれば、右大臣家の権力は今以上に盤石なものとなる。美貌を謳われる六の姫自身に惹かれる思いもあるだろうが、それ以上に右大臣と弘徽殿の女御の意向を汲む気持ちの方が強いのだろう。

 この想いに気づこうともせず祖父と母の期待に応えられると喜ぶその笑顔が愛おしくも憎らしい。憎悪という言葉さえ知らないかのような微笑みを思い浮かべ彷徨うちに、いつしか弘徽殿に近づいていた。

 ふと見れば、不用心にも細殿(ほそどの)の三つ目の戸が開いている。元服前は桐壺帝に連れられ幾度も立ち入ったが、大人になった今、血縁でもない身で立ち入れば咎めを受ける。分かっていながら私は弘徽殿へ上がった。

 人に見つかり断罪され、多くを失うもの悪くない。空に輝く月に触れられぬように、私の心もただ一人だけにはどう足掻いても届かない。唯一を手に入れられないのなら、いっそそれ以外のすべてを失ってしまいたくなる。揺れる心を静められないまま細殿を歩く。

 弘徽殿の女御は今夜、桐壺帝に召されているため女房たちも少ないのだろう、しんとした静けさが満ちている。ふいに開いたままの奥の戸の向こうから朧月夜を愛でる女人の声が聞こえてきた。気づかれないよう近付き、手を伸ばし袖を掴む。

「ど、どなた」

 驚きに満ちた声に答えず、私は華奢な身体を抱き上げ。幾つかに区切られた西廂へ降ろし、素早く戸に錠をした。

 二人きりになり向かい合えば、弘徽殿の女御に似た華やかな顔立ちの姫だった。大輪の花を思わせるあでやかな美貌。姉が牡丹なら、こちらは芍薬。私より幾つか年下に見え、身に付けた衣装も()()められた香も高価なもの、右大臣の姫に違いない。

「私をご存知ないのですか。私は何をしても許される者ですよ」

 驕りを口にし、正体を明かす。私がかの光源氏だと知り、戸惑いの色を薄めた姫に名を問えば、その顔に笑みが浮かぶ。

「わたしが誰かをご存知で、このような真似をなさったのでしょう」

 顔立ちだけでなく男相手にも物怖じしない勝気さも弘徽殿の女御に似ているが、女御ほどの重々しさはない。姉が花の王なら、妹は花の宰相。五の姫か六の姫か。

「あなたの声でお聞かせ願いたいのですよ」

「他の方とお間違いになるのを恐れていらっしゃるの」

「間違えるはずなどありません。私はずっとあなたを想ってきたのですから」

 偽りを口にして、抱きしめる。この腕の中の姫が六の姫であれば、私との噂一つで入内は叶わなくなる。

 東宮妃として迎えるはずだった葵を正室とし、今再び立后の願いを託した姫君を奪えば、右大臣と弘徽殿の女御はどれほどまでに私を憎むだろう。遠くない将来、右大臣は今上帝の外戚として弘徽殿の女御は国母として内裏を支配する。背けば、すべてを奪われる。

 祖父と母の期待に応えられると喜んでいた微笑みを思い出す。東宮のためにもこの腕を解くべきだと分かっている。分かっているのに、動けない。何も知らずに笑う東宮に、この心の苦しみをほんのわずかでも知らしめたくて足掻かずにいられない。

 私から逃れようとする姫を捕えたまま、その髪を口唇で愛でる。

「あなたは右大臣の六の姫。東宮妃となられ、いつかは中宮に立たれる姫君なのでしょう。それでも想わずにいられないのです。……どうか拒まず、私を受け入れて」

 懇願を口にし、私は名も知らぬ姫をかき抱いた。


 夜をともに過ごし、明け方近く再びの逢瀬を誓い、(あかし)として互いの扇を取り交わした。

 宿居所(とのいどころ)である淑景舎に戻ると、宴の後で姿を消し朝方に戻った主人に女房たちは何か言いたげだったが、私は気づかないふりをして御帳台に入った。横になり目を閉じても眠りは遠い。

 東宮の後宮では藤壺の女御が格別に愛されてはいるが、先々帝の姫宮とは言え更衣腹で有力な後援もない。右大臣と弘徽殿の女御という強大な後見を持つ六の姫が女御として入内すれば、その権勢は揺るぎないものになるだろう。

 まぶたを開き、朧月が描かれた扇を眺める。

「おそらく六の姫なのだろうな」

 声にした途端、確信は増した。私は扇を投げ捨て、きつく目を閉じた。


 春の終わり、私は右大臣邸での弓の競いと、それに続く藤花の宴に招かれた。

 藤を愛でる宴席に遅れて顔を出した後、酔いを得たふりをして場を離れ、秘かに寝殿へ向かった。朧月の夜と同じ香りを探し当て、御簾の隙間から手を伸ばし、指先を絡めれば、強く握り返された。

 女房の手引きで寝所に忍び込むと、朧月夜の君は私を笑顔で迎えた。

「ずっとあなたを探していました、愛しい人」

 偽りを口にして腕を伸ばす。熱を交わし、汗ばんだ素肌を晒したまま御帳台でまどろんでいると、姫は上体を起こし、私の顔を見下ろしてきた。

「東宮さまに入内できなくなってしまったわ」

 眉を寄せてはみるものの口ぶりはさほど残念そうでもない。

「わたしが六の姫だと知っても驚かないのね」

「初めから知っているとお伝えしたでしょう」

「貴方はわたしのお父さまやお姉さまが怖くないの」

「私の恐れることは他にあるのでね」

 言って、目を閉じる。

 私の裏切りを知っても、あの人は私に怒りも憎しみも向けないだろう。痛みと悲しみを抱えたまま、じっと耐えるに違いない。この上なく大切に想う人を傷つけた。その事実と向き合う時を恐れている。

「あの夜、どうしてわたしが逃げなかったか分かる」

 問いかけに双眸を開けば、年下のはずの朧月夜の君が大人びた笑みを向けてくる。長い髪が素肌をくすぐる。

「相手が私だったから」

「違うわ。貴方がとても悲しそうだったからよ」

「私が」

「そう、貴方が。拒んだら泣き出してしまいそうだったから、その手を振り解けなかったの」

 なだめるように頬を撫でられる。

「あなたは優しい人だね」

「今ごろ気づいたの」

 驚いてみせるさまも華やかで入内すれば後宮で時めくに違いない。

「後悔はしていないわ。だって、わたし本当は女御より女官になりたいと思っていたから」

 思いもしない言葉に驚く。

「右大臣家の姫であるあなたが女官になる必要などないでしょう」

「だって人の心は移ろうもの。そんな頼りないものに縋って生きるのは嫌だわ。わたしはわたしとして生きたいの。誰よりも早く入内して、東宮さまをお産みになったお姉さまだって中宮にはおなりになれなかった。後宮にいる限り、どれほど愛しても報われないわ」

「藤壺さまは中宮におなりだよ」

「あなたのお母さまの身代わりでしょ」

 躊躇いなく言い切って、こともなげに続ける。

「わたしはわたしの行く末を誰かに委ねたくないの」

 朧月夜の君は咲き誇る大輪の花のように微笑んだ。


 卯月(四月)に予定されていた右大臣の六の姫の東宮への入内は、桐壺帝の病を理由に延期とされ、その後、とりやめとなった。

 私と朧月夜の君との仲は秘かに、けれど、知らぬ者などいないほどの噂となっている。噂であるだけに右大臣も弘徽殿の女御も表立って私を咎められない。そして、噂であったとしても他の者との関係を疑われれば入内は叶わない。右大臣と弘徽殿の女御がどれほど私を憎んでいるかを十二分に知りながら、私は朧月夜の君との逢瀬を重ね続けた。

 東宮は何一つ変わらず優しく穏やかで、私を糾弾することはもちろん、問い質しさえしなかった。東宮が噂をいつ耳にしたのかさえ私には分からなかった。

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