二十二 幻
新しい年を迎え、私は五十二を数えた。
年賀の祝いに六条を訪れた人々を御簾越しにやり過ごした後、兵部卿の宮とだけ対面し、咲き始めの梅をともに愛でた。
夏が過ぎ、秋になると前太政大臣の中将が病を得た。見舞いに出向けば「お互い年を取ったはずが貴方だけは変わりませんね」と笑われた。
六条院に戻り、私はこれまでさまざまな人々と交わした文を火に投じた。喜び、悲しみ、憎しみ、どうしようもない愛おしさ、あらゆる想いを綴った文字は煙となり天へ昇っていく。
至尊の身から須磨へと届けられた文だけは、ひとひらの紅葉とともに手許に残した。あれから幾度も季節は巡ったが、龍神の加護を得た葉は今もなお焔のように紅い。
一年を十日ほど残し、私は例年以上に手をかけて仏名会を行った。過ぎた年月と今この時、これより先の三界のすべてに在るとされる仏の名を三日に渡り唱え、罪の許しを請う。法会の終わり、私は紫の上の葬儀以来、久方ぶりに人々の前に姿を見せた。衰えのかけらもない美しさに僧たちまでも涙を零し、私こそが光だと称賛された。
そして、一年の末日である今日を迎えた。
前太政大臣の病は重く、明日をも知れぬ病状と聞く。私も、もう終わってもいいだろう。友である中将によって須磨へ届けられた歌を心に浮かべる。
秋山に 霜降り覆ひ 木の葉散り 年は行くとも 我忘れめや
私の想いは何一つ変わってはいない。
先ほど、私はその文をひとひらの紅葉とともに西山の寺院に暮らすただ一人へ送った。名は記さず、使者にも決して口外しないよう厳命した。
龍珠に関するすべてとともに私への想いを忘れた院は、その文と紅い葉を私からだと気づくだろうか。もし気づいたのなら、どう処すだろう。捨て置くか、それとも私の真意を訊ねる文を綴るのか。返書があったとしても、それが届く頃、私はすでにここにはいない。
六条院での最後の務めとして私は薫のもとへ出向いた。
「私の大切な子は元気にしているか」
聞けば、私の訪れに気づいた薫が乳母から離れ、笑顔で駆け寄ってくる。まもなく六歳になる姿はどこまでも愛らしい。
「お父さま」
無垢な目で私を見上げ、両手を伸ばしてくる。
「今日もいい子にしていたか」
腕に抱けば、声を上げて笑う。
「薫はいつもいい子です」
得意気な顔もかわいらしい。
「そうだね、薫はいつもいい子だ。父に似て本当にいい子だよ」
言って、薫を抱いたまま座す。
「とても大切なものをあげよう」
私は膝の上の幼い子に柏木が遺した横笛を差し出した。
「龍笛と言うのだよ。龍の鳴き声を奏でられる」
薫は両手で受け取って、興味深げに見つめている。
「龍はなくのですか」
「私も聞いたことはないが、鳴くこともあるのだろうね」
「泣いていたら、かわいそうですね」
「優しい子だね、薫は。いつの日かきっとこの笛も吹きこなせるだろう」
頭を撫でれば、「がんばります」と笑う。細められた目許はやはり柏木によく似ている。
今も三の宮に仕える小侍従には、薫が元服した後に柏木からの文を渡すよう言いつけてある。許されない恋の果てに産まれたという事実は薫にとってどれほどの痛みとなるだろう。
「どうか幸せにおなり」
心から願い、私は愛し子を抱きしめた。
黄昏時、私は一人、春の御殿の泉殿に出た。明日からは新しい年になる。
朱雀院の皇子である今上帝と私の姫君である明石の中宮との間に産まれた東宮は十二歳。すでに元服も終えている。
龍神が告げたとおり、私の血はただ一人の血統とともにこの国の皇統を永く流れゆくのだろう。心は結ばれず、血筋だけがつながった。それは幸福なのか、皮肉なのか。
紫の上は見送った。
明石の方は中宮の後見役として後宮で華やかな日々を過ごしている。明石の中宮は多くの皇子や姫宮に恵まれ、第一皇子は東宮に立った。この先、国母にもなれる。
花散里には息子代わりの夕霧がついている。夕霧自身も大納言と左大将を兼務し、二の宮と雲居の雁のもとで月の半分ずつを過ごしている、どちらとも仲睦まじく、望みながら子に恵まれない二の宮の願いに応え、典侍との間の六の姫を姫宮の養女としたばかりだ。
薫については明石の中宮に後ろ盾となってくれるよう頼んである。夕霧も年の離れた弟を我が子のようにかわいがっているから心配はない。
友であり、多くを競った前太政大臣の中将も逝こうとしている。
私にとってのただ一人は西山の寺院で祈りの日々を穏やかに過ごしていると聞く。
今夜、一年が終わる。私もまたこの一生を終えよう。直衣の下の単は、帝であった頃の朱雀院から与えられたもの。冬の今、山中で一夜を過ごせば、きっと眠るように逝ける。先の始末は、紫の上の時と同じように夕霧が遺漏なく取り仕切ってくれるだろう。
私は私にとっての唯一が生きる西山で死ぬ。
沈みゆく日が何かに抗うように空を紅く染めていく。
文は届いても、この想いはかけらほども届かない。それでも、私はこの心の限りでただ一人を想い続けた。想うあまり身勝手に傷つけ、苦しませもした。
それでも、
「私は今も貴方を、貴方だけを想っています」
届かない声が冬の風に消える。この心とともに私は生きた。最期もこの心に殉じたい。
世の人は私の生涯を幸福だと思うだろう。けれど、龍神を父に更衣を母として生まれ落ちた私にとってこの世は少しも優しくなどなかった。確かな後見のない身で血のつながりもない天と地ほどに身分の違うただ一人だけを求め続けた。告げられもしない想いを抱え彷徨い、足掻き続けた、愚かで虚しい一生だった。
龍珠を手放した冬の夜から十年以上の時が過ぎた今もこの心は変わらない。この想いは私にとっての真実だと証は立てられた。院の願いどおりに生きられはしなかったが、この想いに偽りがなかったことを自らの喜びとしよう。
小さく水の音がした。ある予感とともに顔を向ければ、池の水面から夜の色をした龍が現れた。宙に浮かび、たてがみを風になびかせ、金と銀の双眸で私を見下ろしている。
「久しいな」
かけられた声は人に化していた時と変わらず、ごく近くから聞こえた。
「そうだな」
「年を取ったな」
龍の表情など見分けられるはずもないのに、楽しげだと分かる。
「明日には五十三を数える」
「長く生きたな」
「ああ、長かった、とても」
「お前は誰よりも美しく優れて生まれ、誰よりも大きな喜びと誰よりも深い悲しみとともに生きた。満足か」
「満足かはどうか分からない。だが、私はただ一人に出逢い、ただ一人を想って生きた。悔いはない」
優しい人は私の死に涙を零してくれるだろうか。深く深く嘆いてほしいと望みながら、悲しまないでほしいとも願う。
「西山に向かうのか」
「ああ、夜の闇に乗じ抜け出すつもりだ」
「乗れ」
風に乗り水を操り天と地を自由に駆けるとされる神が緩やかに私の目前へと降りてきた。高欄のすぐ向こうに漆黒の鱗に包まれた身体がある。
「子を死に場所に送るのか」
「それが願いだろう」
「そうだな、私の最期の願いだ」
頷けば、見えない手に抱き上げられるように身体が浮き上がり、気づけば龍神に跨っていた。鱗なのに人肌のように温かい。
「父の背に乗るのは初めてだ」
龍神の頭のすぐ後ろで言って、目の前の二本の角を掴めば、大ぶりの枝に似たそれはひどく固い。
「私も子を背に乗せたのは初めてだ」
耳元で声が聞こえ、身体がふわりと舞い上がる。見下ろせば、眼下に六条院が一望できた。
広大な土地を四つの町に分け、贅を尽くした庭と壮麗な邸を配した。地の極楽とまでもてはやされたそれも空から見れば、ひどく小さい。あの中で喜び、悲しみ、憤り、さまざまな罪を重ねながら藻掻くように生きていた日々を思うと、愚かなようで愛おしい。遺された人々の平穏を願い、私は龍神とともに六条から離れた。
「真実を与えよう」
御所の上を過ぎ、神泉苑が見えた頃、龍神は言った。
「私は初めから邪神などではなかった。神泉苑の泉に住み、雨を司る水神だった。重臣の病を癒した泉に感謝し、帝はその礼にと折りに触れ、私のもとを訪れた」
神泉苑の泉は暮れゆく空を映し、血に濡れたように紅い。
「ともに時を重ね、心を交わした。泉の水によって病の癒えた重臣はそれを知り、帝を誑かす邪神として私を射殺そうとした。帝は私を庇い、その身に矢を受け落命した」
衝撃が胸を突く。龍神はただ一人を奪われたのか。
須磨で見た夢を思い出す。ただ一人の胸に一本の矢が深々と突き刺さり黄櫨染御袍を紅く紅く染めていく。駆け寄りたいのに動けず必死に叫んだ。呼びかけに答えず、まぶたも開かず、帝はすべてに満ちたりているかのような穏やかな表情を浮かべていた。
「人を恨むか」
片手を離し、馬のようなたてがみを撫でる。
「恨み憎み、私は都から雨を奪い、すべてに死を与えようと思った。けれど、帝は私に重臣を許し、幾久しくこの国に生きる人々を守ってほしいと言い遺した」
ただ一人の願いのままに国を護り続けた、それこそ龍神の心が真であるとの証なのだろう。
「朱雀院はよく似ている」
「聖帝にか」
「似ている。生まれ変わりかと思うほどに」
「美しい帝だったのだな」
「神としてではなく、私が私として心を捧げた唯一だ」
空は紅から群青へと色を変え、薄闇を広げていく。
夜になり、朝を迎える。天の巡りを誰も止められぬように、神であっても叶わぬ願いもあるのだろう。龍神がひたすらに人の願いを叶え続けたのは、ただ一人を救うという願いを叶えられなかったからなのかもしれない。
「朱雀院に聖帝を重ねていたのか」
「どれほど似ていても、私にとってはあの者だけが唯一だ」
「そうだろうな」
他の誰も代わりにはなれない、どうしようもないほどに唯一無二のただ一人。出逢えたことはやはり幸福なのだろう。
空を駆け、西山へと近づいていく。木々が葉を落とした冬の山肌、寺院と麓を結ぶ道に一人の僧の姿が見えた。白の帽子、錦織の袈裟、深い色合いの法衣。高僧らしい身なりにも関わらず供の一人もなく、信じられないことに牛車や輿にさえ乗らず徒歩で山道を下っている。
ひどく急いでいるような足取りで、胸元に白い何かを両手で抱え込んでいる。それが私が朱雀院に送った文だと気づいた刹那、時を同じくして何かに呼ばれたように僧は足を止め、顔を上げた。
眼差しが重なる。もう長く会っていない、けれど、忘れられるはずもないただ一人が優美な顔を驚きに染める。
「院っ」
迷いもなく龍神の背中から飛び降りれば、羽衣でもかけられたかのように私の足はふわりと地に着いた。目の前には、身なりがよく気品に満ちた僧が一人。法衣の裾が汚れている。よほど急いだのか息は整わず、苦しげに肩を上下させている。
「院、供もお連れにならず、なぜこのような所にいらっしゃるのですか」
「……文が、届いて」
白い手が私の送ったそれを胸元に抱いている。
「わたしの筆で一首、歌が書かれていて、中にひとひらの紅葉が入っていた。小さな焔のような葉は源氏の君から贈られ、わたしが中将に頼み須磨へ届けたものだと思い出して」
私への想いと龍珠に関する記憶を失いながらも覚えていてくれたのか。
「源氏の君からだと分かって、でも、何を書いて返せばいいのか分からなくて、それでも一刻も早く六条へ行かなくてはいけないと思った。……まるで永劫の別れを告げる文のように思えたから」
ひとひらの紅葉に私の覚悟を見抜き、私に会いに行こうとしてくれたのか。
一年の最後の日、寺院では終わる年を見送り来るべき新年を迎えるために多くの行事が執り行われる。そんな最中、さしたる理由もなく六条院へ出向けるはずもない。若くもない身体で夜も近い時間に冬の山を下れば、麓に行き着く前に命さえ落としかねない。それでも、私を案じ、供も連れずに寺院を抜け出し、六条へ向かってくれた。
私が院を想う心とは違っていても、院は私を大切に思ってくれている。それは幼い頃から何一つ変わることのない事実。
見つめる先で、ただ一人が瞳を潤ませる。
「……我忘れめや、貴方からの焔で、わたしはすべてを思い出したよ。日と月の龍珠のことも、貴方への狂おしいまでの想いも、龍珠に関するすべても、何もかも一つ残らず思い出した」
驚きに言葉を失えば、大切な人が小さく笑う。
「わたしだけ忘れさせるなんてひどいことをするね」
私が謝罪するより先に、院が続ける。
「分かっている。あの冬の夜から、貴方はわたしの代わりにすべてを背負ってくれていた。想いゆえの罪と痛みのすべてを」
白い頬に涙が伝う。冷たい風が吹くが、少しも寒さを感じない。
「幾度忘れても、わたしはきっと思い出す。これほどの想いを忘れられるはずがない」
震えそうになる腕を伸ばして、濡れた頬を指先で拭う。
「龍珠はすでに在るべき場所に還りました」
顔を上げた先、龍神は天に浮かび、金と銀の瞳で私たちを見ている。
「けれど、今も貴方への私の心に何一つ変わりなどありません」
「……光の君」
ひどく懐かしい呼び名だった。
「すべてを忘れ、わたしは長く貴方を苦しめた。六条院で式部卿の姫を見た時、白い手が動かず人形だと分かった。私は貴方が姫を亡くし、悲しみを癒すために人形を身代わりにしていると思った。だから、貴方に三の宮を降嫁させた。三の宮は幼いが、幼いからこそ貴方の意のままになると思った」
ただ一人は私の悲しみを癒す、ただそれだけのために私に最愛の姫宮を与えたのか。それほどまでに深く私を想って。
「式部卿の姫が亡くなった後、左大将から文が届いた」
「夕霧からですか」
「どうか目を通してほしいとの伝言を受けたが、何が書かれているのか、もしかしたら三の宮は何か罪を得ているのではないかと思うと恐ろしく読めないままでいた」
朱雀院は三の宮の様子から何か不穏なものを感じ取っていたのだろう。
「けれど、今日、貴方から紅葉が届いた。すべてを思い出して、ようやく左大将からの文を開いた。源氏の君にとっての最愛の人は人形であり、それはわたしに似せてあったと、せめてその想いだけでも知っていてほしいと書かれていた」
日が沈み、辺りが闇に染まっていく。
「貴方はどんな時も絶えずわたしに心を捧げてくれていたと知った」
涙のままに微笑むただ一人を、誰も代わりになれないぬくもりを抱きしめる。
「……私は貴方の影になりたかった」
自分でも気づかずにいた願いが声になった。
「貴方の影となり、人ならざる血を受けた自らのすべてを貴方に捧げ、貴方を誰よりも幸せにしたかった」
これまで歩んできた長い道のりを思う。
「貴方の微笑みが見たかった。例え、私以外の誰かへと向けたものでもいいと思っていた。それなのに、私はいつも貴方を傷つけ苦しませるばかりだった」
やわらかな手つきで、すべてを許すように背中を撫でられる。
「貴方から与えられたすべてが、わたしにとってはかけがえのないもの。それは互いに同じはず」
その声は穏やかで、確かめるまでもなく微笑んでいると分かる。その微笑みを得るために足掻き、罪を重ね、多くの人々を傷つけた。それでも、なおどうしようもなく惹かれてやまない。
「貴方以外、私は誰も何も望みません」
「わたしも望むは貴方だけ」
腕を緩め、表情を確かめる。
私とともに行ってくれるだろうか。
声にしない問いに微笑みを返される。それが答えだった。
「これより先、私はいつまでも貴方とともに」
誓いを捧げ、ただ一人を抱き上げれば、龍神が目の前に降りてくる。私の両腕に抱えられた院は恐れる素振りもなく、天を翔ける神に指先を伸ばし、その目許を撫でた。
「昨晩、夢を見た。わたしによく似た人が、ずっと待っているのにわたしの龍が来ないと怒っていた」
聖帝は院とは違い気が短いらしい。口唇を緩めると龍神はその長い尾で後ろから私の背を軽く叩いた。院に気づかれないよう意趣返しする大人げない父に苦笑が漏れる。
「その人はずっと待ち続けているのにと怒って、その後で笑っていた。命と引き換えであっても愛するものを守れたことをうれしく思うと笑っていた」
「……そうか」
龍神は少しの間、目を伏せた後、「乗れ」と短く言った。ただ一人を抱きかかえたまま、再びその背に跨る。
「私のすべては貴方とともに」
誓うと、刹那のうちに私たちはあの月の夜に姿を変えた。二十日月の夜、ひとひらの紅葉を愛で、二人だけでとりとめもなく言葉を交わしたあの時の姿。
眼差しを下ろせば、冬山の一角に横たわる二人が見えた。胸に文を抱いた僧に直衣姿の公卿が寄り添っている。どちらも淡く笑みを湛えたそのさまは春の陽だまりにまどろんでいるかのように見える。
夜を迎えた空が白銀を零し始めた。
龍神の背中でただ一人を抱きしめ、
「貴方こそ私の光」
告げれば、強く抱き返される。
年の終わりの雪の夜、私たちは天へ還った。




