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源氏秘恋  作者: 世宇
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二十一 御法

 命さえも危ぶまれた頃から紫の上は二条院で床に伏す日が長く続いていた。

 桜の花が咲き誇り、空も限りなく澄んだ弥生の頃、紫の上は二条院で法華経千部を納めるための法会(ほうえ)を催した。楽人、舞人は夕霧が揃え、帝や東宮、中宮となった明石の女御からも数限りなく布施が届き、六条のそれぞれの町からも心尽くしの品々が差し出された。


 夏が過ぎ、秋の朝に紫の上は逝った。

 美しい顔立ちは何一つ変わらず、けれど、指の先さえ動かない。泣き崩れる女房たちを遠ざけ、命のない紫の上の枕許に一人で座していると、

「父上」

 夕霧の声がした。

 私は紫の上の顔に白い薄絹を乗せ、その手を握ったまま、

「こちらへ」

 短く呼んだ。夕霧は顔を伏せたまま几帳の帳を引き上げ、私の傍らに進む。

「この人が私の愛する人だよ」

 言えば、夕霧がゆっくりと顔を上げる。横たわる紫の上に眼差しを向け、整った顔立ちが驚愕に染まった。

「顔は見えずとも美しいと分かるだろう」

 ただ一人の麗しさを誇り、両手を離せば、作りもののように美しい手が落ちていく。投げ出された指の先までも美しい。

「……これは、一体……」

「よくできているだろう、財を尽くして作らせたものだからね」

「……これは人形、……では、紫の上さまに似せて、この人形をお作りになられたのですか」

「違うよ。紫の上は私が北山で見つけた時にすでに死んでいた」

「……父上」

 迷子のような頼りなげな声に、私は絹糸の髪を撫でる。

「遠い昔、北山で人形と暮らす尼君に会った。娘に続いて孫娘をも亡くした尼君は、孫娘に似せて作らせた人形を慈しみ暮らしていた」

 聖を訊ねた北山で藤壺の女御によく似た少女を見つけた。あまりにも見事な出来に最初は人形だと気づかないほどだった。尼君は喪った孫娘を人形として取り戻し、心の平安を得た。

 私もただ一人と同じ姿形をした人形があれば、安らぎを得られるかもしれない。そう思い、僧都に幾度も文を書き送り、人形師の名を訊ねた。僧都はあまりにも人に似せた物は罪を招くと拒んでいたが、遂に名を打ち明けた。私は財を惜しまず、(たくみ)に腕を揮わせた。ただ一人に生き映しの人形の出来上がりと時を同じくして尼君は亡くなった。

「尼君は孫娘の人形とともに荼毘に付した。ちょうど私の人形も完成していたから、兵部卿の姫宮だと偽って二条院へ迎えた」

「紫の上さまは初めから人形であったとおっしゃるのですか。……ですが、紫の上さまが三の姫宮さま方と合奏された琴の音を私は確かに耳にしました」

「女房の一人だ。私は北山の少女の乳母だった少納言を使い、楽でも歌でも香の調合でも、美しさの他に何か一つ抜きん出た才を持つ女房たちを集めた。明石の姫のために子の扱いに慣れた者を何人も召し抱えもした。少納言は本当の乳母のように真摯に仕えてくれたよ」

 一芸を極めた多くの女房たちによって紫の上は陰りなく輝き都一の女人とまで賞賛された。

「明石の中宮は幼くして紫の上に引き取られたから、子どもの頃、高貴な女人とは人形なのかと思っていたらしい」

 それがどれほど異常なことかに気づいた後も中宮は私に何も言わず聞かなかった。おそらく夕霧と同じように兵部卿の姫を亡くした私が人形をなぐさめにしていると考えたのだろう。

「この美しさは私が与えた。絵の心得があったからね、何枚も描いたよ。おかげで理想どおりの姿になった」

 私は紫の上の顔から薄絹を落とす。露わになった美貌に夕霧がひきつるように息を呑む気配がした。

 雪さえも欺くほどに白い肌に、長い睫に彩られた黒目がちな双眸、本当に美しい。

「……この姿が、この顔こそが、父上の理想だとおっしゃるのですか」

「ああ、そうだよ。この世で最も美しい、私の理想そのもの」

 私は紫の上の頬を両手で包み込む。なめらかで冷たく硬い頬が描く曲線さえもどこまでも美しい。

「紫の上はいつも私の傍らにいてくれた。しかし、私は五十を過ぎた。そろそろ別れなくてはならぬだろう。これほどに美しいものを失うのは惜しいけれどね」

 私の死後に紫の上を残すことはできない。六条院の第一の人として逝かせるために私は紫の上を殺すと決めた。

「これは、……この顔は、上皇さまの、朱雀院さまのお顔立ちそのままではございませんか」

「院こそ私にとってのただ一人」

 夕霧は眉を寄せ、何かを拒むようにわずかに首を振る。

「……そのようなこと。では、なぜ上皇さまの五十の賀を前に紫の上さまが病を得たなどと偽るようなお振る舞いをなさったのですか」

「私は恐れたのだよ。三の宮とともに院の御前に参内して、院の目に私への非難や失望が浮かぶことを。誰よりも想うからこそ何よりも恐れた」

 こんな私を愚かだと嗤うか、自嘲とともに問いかければ、

「いえ」

 短く、迷いなく返された。

「誰かを想う、それは決して愚かなどではございません」

「私は子に恵まれたな」

 微笑み、私は紫の上の葬儀の一切を夕霧に任せた。


 十五日の暁、鳥辺野に火葬の煙が立ち昇っていく。葵を送ったのもこんな季節だった。正室として迎えながら心を通わせられぬままに見送り、その喪が明けた後、私は紫の上を妻とした。あの頃よりも濃い喪服で私は長く傍らにあった紫の上を弔った。

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