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源氏秘恋  作者: 世宇
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二十 鈴虫

 蓮の花の咲く夏、三の宮が身近に置き朝に夕に拝む持仏(じぶつ)開眼(かいげん)供養(くよう)を行った。三の宮の読経のための法華経は、春の頃から私自らが写経し、今日の日に備えた。六条のそれぞれの町からだけではなく、朱雀院や帝からも布施があり、この上なく盛大な供養となった。

 三の宮が相続した三条の邸は隅々まで充分に整え、二品という身分がもたらす献上品は残らずその倉に収めさせている。朱雀院から譲られた品々については、新たに倉を建て増し、厳重に丁重に管理させている。豊かに邸を整えさせながらも、私は三の宮を六条院に留め続けた。三の宮を手放せば朱雀院とのつながりが断ち切れてしまいそうで、三条の邸に移すようにとの院の勧めに従えずにいた。

 朱雀院の願いはすべて叶えると決めたあの秋が、ひどく遠い。


 夏が過ぎると私は三の宮が暮らす六条院の春の御殿の西の渡殿の前、塀の東側を野原のように造園させ、秋の虫を放った。夕暮れ時になると虫の音を楽しむためと口実を作り、三の宮のもとへ通った。

 十五夜の夜に訪れると、三の宮は仏前で念仏を唱えていた。三の宮に続いて尼となった若い女房が二、三人、仏前に花を供えようと水を使う音が聞こえてくる。

 見上げれば、空には満月。

 朱雀院の好んだ管絃の遊びを思い、私は琴の琴を用意させ、奏でた。どれほど心を込めて奏でても西山の寺院に届くはずもない音色に、三の宮は数珠を繰る手を止めた。

 とりとめもなく琴を爪弾いていると、朱雀院の弟皇子である兵部卿の宮が訪れた。宮中での月見の宴が取り止めになったと嘆く兵部卿の宮を廂に通すと、夕霧が多くの殿上人を引き連れて現れた。

 集まった人々で虫の音を楽しみ、琴の合奏をすれば、自然と風雅の道を極めた柏木が思い出される。

「このような夜に権大納言がいないことが惜しまれるね。(おおやけ)ことも(わたくし)のこともどんなことも物足りなく感じてしまう」

 言って、私は柏木を忍び、琴を奏でた。御簾の内で、三の宮も儚く散った命を悼んでいるのだろうか。


 虫の音を肴に盃が二巡したころ、冷泉院から使者があった。柏木の弟である左大弁(さだいべん)、式部の大輔(たいふ)などが参上しているという冷泉院の御所への招きに応え、私は人々ともに六条院を後にした。

 直衣だけではさずかに礼を欠くため、下襲を身に付け参内すれば、冷泉院は喜びとともに私を迎えた。

 三十を少し過ぎ、今が盛りとばかりに美しい顔立ちは、私に生き移しだ。若く衰えもない身で自ら位を降り、上皇として静かに日々を送る様子は清らかでもあり痛ましくもある。

 その夜の詩歌の宴で作られた漢詩や和歌はどれも素晴らしいものだった。明け方にその詩文の批評をし、人々は院の御所を後にした。


 御所を退出する前に私は前斎宮の中宮のもとを訪れた。御簾越しの声は昔と変わらず可憐であり鷹揚だった。もしも朱雀院の望みのままに前斎宮を差し上げていたなら、今とは違う今があったのかもしれない。

 亡き母が生き霊と化したという噂を苦にし、出家を望む中宮をなぐさめる。

「何も知らぬ者が口にすることなど、お気になさる必要はございません。貴方の母君は麗しく風雅を極め、素晴らしい貴婦人でいらっしゃいました。お逢いできたことは私にとって大きな喜びです」

「きっと母にとっても同じなのでしょう。感謝いたします、源氏の院」

 私は御息所を傷つけ、心がその身を離れるほどに苦しませた。幼い身であっても前斎宮は母の悲しみを感じ取っていただろう。それでも、私に向ける声に憎しみの色はない。稀有な心映えがただ一人によく似ている。私は深く頭を下げ、前斎宮のもとを退いた。


 秋の終わり、一条の御息所が逝去した。病を得て比叡山の麓の別邸で静養していたが、病状が急変したらしい。四十九日が過ぎると、夕霧は半ば無理やりに二の宮を別邸から一条邸に連れ戻し、もう一人の正室とした。夫の仕打ちに耐えかね、雲居の雁は子どもたちを連れ、三条邸を出て前太政大臣の邸へ移った。

 久しぶりに六条院に顔を出した夕霧に訊ねる。

「悔いはないか」

 四人の息子と三人の娘を()した妻を失うかもしれない上に、二の宮の亡き夫である柏木は従兄弟であり義兄でもある。二の宮を手に入れる代わりに、これまで築いてきた名声さえも失いかねない。

「ございません」

 迷いなく言い切った。三十歳を目前にしたそのさまは、鬼神も罪を見逃すほどの魅力に満ちている。

「ならば、どちらも大切になさい」

 ただ一人さえ得られなかった私に言えるのはそれだけだった。


 しばらくの後、雲居の雁は子どもたちを連れて、夕霧の待つ邸へ戻った。夕霧は一条邸の二の宮と三条邸の雲居の雁、どちらかに偏ることなく、それぞれのもとで月の半分ずつを過ごしているらしい。

 私は三の宮を不幸にした。せめて夕霧が二の宮を幸せにしてくるよう祈らずにはいられなかった。

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