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源氏秘恋  作者: 世宇
19/22

十九 横笛

 年が明け、柏木の一周忌を迎えた。

 私は念入りな読経を行わせ、それとは別に、何も知らない薫に代わり父である柏木の追善供養のため金百両を寺に寄進し、権大納言を手厚く弔った。

 夕霧も未だ悲しみの淵にいる前太政大臣に代わり、亡き友のために法要の一切を取り仕切った。


 三の宮の出家の後、朱雀院は同じ仏の道を行く者として、折りに触れて三の宮に宛てて文を送ってくるようになった。出家した身では俗世の姫への消息も控えなくてはならなかったが出家したもの同士であれば差し支えないと判断したのだろう。いたわりに満ちた風雅な文を目に入れたいばかりに、私は三の宮を三条の邸には移さず六条院に留め置いていた。

 親としての情愛に満ちた言葉を目にするたび、三の宮に世を捨てさせた我が身の至らなさを悔やむ。最初からこんな風に足しげく通い、心を込めて接していれば、もっと違う今があったのかもしれない。柏木は死なず三の宮は髪を下ろさず、そうすれば院を落胆させることもなかった。太政天皇に准ずる身として六条院の主として私にならそれができた。けれど、私はそれをしなかった。


 春の麗らかな昼下がりに三の宮のもとを訪れると、高坏(たかつき)が並べられていた。漆塗りのその上には、筍、山芋が置かれている。

「めずらしいものがありますね」

 几帳を隔て何も答えない三の宮に代わり、女房が口を開き、西山の寺院で暮らす朱雀院から贈られてきたものだと答えた。傍らに置かれた添え状を手に取れば、三の宮を気づかい励ます言葉が並んでいる。

 返事を書くよう勧めれば三の宮は無言で筆を取り、青鈍(あおにび)の綾織りの衣を使者に与え、父への消息を託した。

 几帳越しに三の宮と途切れがちな会話をしていると、乳母のもとで眠っていた薫が目覚め、私の方へと這い出てきた。何も知らずに機嫌よく笑い、養父である私の袖を引く。白の薄絹に紅梅襲の唐織を着ているが、動き回るせいでほとんどはだけてしまっている。白い肌を晒し、にこにこと笑う様子は誰の目をも奪うほどに愛くるしい。この世に産まれて一年と少しの薫はおぼつかない足どりで高坏へ近づくと筍を掴み口に近付けた。

「こらこら、そんなことをしては意地悪な女房に喰い意地の張った若君だと笑われてしまうよ」

 笑いながら薫を抱き上げ、女房たちに高坏を片付けるように言いつける。

 腕の中の赤子は今まで見たどんな皇子や姫宮よりも美しい。これほどの子が産まれるために、天は柏木の死と三の宮の出家という大きな犠牲を必要としたのかもしれないとさえ思えてくる。

 もしも、この子が私の子であれば、どれほどうれしく誇らしかった感じただろう。叶うはずもない願いに心が沈めば、小さな紅葉のような手に頬を叩かれた。

「今から父に手を上げるとは恐ろしい子だ」

 私は笑う薫を抱きしめた。


 紅葉の美しい頃、六条院へ里帰りした明石の女御のもとで、二の皇子と薫の相手をしていると、三の皇子を抱いた夕霧が顔を出した。

 二十八歳の夕霧は十年ほど前に正室とした雲居の雁だけでなく典侍との間にも多くの子に恵まれている。子どもの扱いに慣れている伯父は甥にあたる皇子たちにも慕われ、三歳になる弟皇子が伯父に抱かれているのを見た二の皇子は「大将、宮も一緒に抱き上げて」と夕霧に両手を伸ばした。途端、三の皇子は顔を曇らせ、夕霧の直衣を掴む。

「大将は宮の大将なのに」

「夕霧の大将は今上帝にお仕えする身。奪いあうような真似をしてはいけないよ。三の皇子がよくない。兄君に張りあうような真似をして」

 祖父である私に諌められ、三の皇子は小さな頬を不満げに膨らませる。二の皇子はそんな弟を「怒られてしまったね」となぐさめている。勝気な弟と心優しい兄の姿に、幼い頃を思い出す。幼い日々に、慈しみ深い東宮を兄とできたことは、私にとって確かな幸せだった。

 皇子たちの微笑ましい姿に夕霧が目を細める。

「二の皇子さまは兄君らしくいつも三の皇子さまに譲って差し上げる。ご立派ですよ」

 言って、夕霧は三の皇子を抱いていない左腕で二の皇子を抱き上げた。夕霧の腕の中で笑い声を上げる皇子たちを薫が見上げている。今上帝の皇子たちと同じように扱うわけにはいかないが、幼い子を悲しませたくもない。

「大将でないと不満かな」

 言いながら両腕で抱き上げると、薫は声を上げて笑う。その笑顔はどこか柏木に似ている。そんな私たちを夕霧が何か言いたげに見つめている。

「ここは騒がしい。場所を移そう」

 言って、私は子どもたちを女房に託し、夕霧とともに寝殿の東の対へ移動した。


 向かいあい、とりとめのない会話を重ねるうちに日も暮れかかってきた。ふと話題が途切れると、夕霧は一管の横笛を取り出した。

「一条の御息所からいただきました。亡き柏木が常日頃、肌身離さず持ち歩いていた笛です」

 その龍笛(りゅうてき)は、私にも見覚えがあった。

「柏木はこの笛は自分の技量には余るから誰かその道の名手に譲りたいとよく口にしていました」

 今はもう聴こえるはずもない柏木の笛の音が秋風にのって聴こえてくるような気がする。

 楽において、龍笛は名のとおり天と地の間を自由に駆け巡る龍の鳴き声を、篳篥(ひちりき)は地でざわめく人々の声を表わし、鳳凰の姿に似せて作られた笙は天からの光を音色に宿すとされ、三つの楽器だけで天と地と人、この世のすべてを奏でられるとされる。

「それは陽成院の御笛だ。朝顔の姫宮の父君であられた亡き式部卿の宮が大切になさっていたが、柏木がまだ子どもの頃からその楽の才をお認めになり、宮のお邸での萩の宴で下賜なされたものだよ」

「そのような由来があったのですが」

 夕霧は手許の笛に視線を落し、続ける。

「この笛をいただいた夜、柏木の夢を見ました。私ではなく、別の者、叶うなら自らの子孫にこの笛を伝えたいと言っていました」

 夕霧が顔を上げる。薫の本当の父が誰なのか、すでに察しがついているのだろう。

「柏木は最期に私に二の宮さまの行く末を託した後、父上への取りなしを幾度も頼んできました。父上に許しを乞いたいと必死にくり返していました。理由は今も分かりませんが……」

 気づいていないふりを続ける夕霧に、わざわざ事実を伝える必要もない。

「さあ、私にも何のことか分からない。けれど、許す必要などないだろう」

 途端、夕霧は悲しみを宿した顔を憤りに染めた。穏やかな夕霧の憤怒に近い表情に、ともに生き、死ぬ時もどちらが後にも先にもならずと誓いあった友を本当に大切に想っていたのだと改めて知る。

「父上、柏木はっ」

 声を荒げる夕霧を、片手を上げて制する。

「許す必要はない。亡き権大納言に責めるべきところなど一つもないのだから」

 柏木に罪はない。柏木は柏木にとってのただ一人を求めただけ。

「……父上」

 夕霧が目許を濡らす。

「ありがとうございます」

「礼を言われる必要もないよ。惜しまれるべき人に先立たれ悲しみ嘆く多くの人々の支えとなれるよう励みなさい」

「はい、必ず。柏木の分まで必ず」

 深く頷く顔には、確かな決意が見てとれる。

「その笛は私が預かり、受け継ぐべき人に必ず渡すと約束しよう」

 言って、私は夕霧から横笛を受け取った。


 夜、私は薫を膝に乗せ、龍笛(ふえ)を吹いた。秋の澄んだ空気を彩る旋律に、父の死さえ知らないはずの薫は、けれど静かに聞き入っている。

 今頃になって、やっと気づく。桐壺院は私が自らの子でないと知っていたのかもしれない。すべてを知っていて、それでも父として慈しみ、守り続けてくれたのかもしれない。注がれた情愛に今さら気づいても、もう感謝を伝えることさえできない。桐壺院のように私が寛大な心で二人を許していたなら、柏木は命を、三の宮は髪を落さずに済んだのだろう。

 その夜、私が奏でた笛の音は薫の父には遠く及ばなかった。

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