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源氏秘恋  作者: 世宇
17/22

十七 若菜

 六条院への御幸の後、朱雀院は病の床に就いた。幼い頃より壮健な質ではなかったが、今までになく衰弱が激しいと聞き、私は心尽くしの見舞い状を綴り選りすぐった品々とともに贈り届けた。

 自らも見舞いに出向きたいが、太政天皇に准ずる位ではそう簡単に院参できない。帝の行幸ほどではないが、私を迎えるとあれば相応のもてなしが必要とされる。病を得ている院を煩わせたくはない。周囲にはそう説いたが、すべて言い訳だと分かっている。私がその気になればいつでも見舞いに行ける。院の御所に別当(べっとう)として仕える藤大納言は亡き弘徽殿の縁の者で実務に長けている。院自らが指示しなくても、有能で趣味のよい藤大納言なら何一つ遺漏なく上皇に准ずる私を歓待できるだろう。

 会いたいと思う。けれど、会えば心が揺れる。愛しさが波のように引いては寄せる。揺れ動く想いのままに足掻いては私はくり返し院を傷つけた。何より恐れている。院の優美な顔に死の影を認めてしまうのが恐ろしい。ただ一人を喪う日を恐れ、動けずにいる。

 朱雀院から返された文は趣味のよい梳き紙に香が炊き染めてあり、手蹟も変わらず流麗ではあるが、墨の色がひどく薄い。もう余命が長くないように感じるから西山の寺が完成したら念願の出家を果たしたいと書かれている。院にとって出家は長らくの宿願だった。母である弘徽殿の大后が存命の頃は果たせなかった願いをようやく叶えようとしているのか。上皇の位にありながら多くを望まぬ院ならば、祈りの日々に確かな平穏を見出せるに違いない。

 ただ一人が俗世を離れれば、もう生きる世界が違うのだからと私はこの心をなだめ落ち着かせられるだろうか。自らの考えに自然と口唇が緩む、自嘲の笑みだ。

 東宮と臣下、帝と無位無官の罪人、上皇と太政天皇に准ずる身、私たちを取り巻くものがどれほど移ろうとも私の想いは変わらなかった。第一皇子と第二皇子として宮中で過ごした日々はすでに遠い。けれど、あの頃と同じように私はただ一人を乞い求め続けている。朱雀院への想いは私が私である限り、消えも薄れもせずに在り続けるのだろう。


 日々を重ねても朱雀院の病は回復の兆しを見せず、遂には東宮が母である承香殿の女御を伴い、宮中から見舞いに院参した。

 東宮が御所に戻った頃を見計らい、清涼殿へ参内すれば、寵妃である明石の女御の父として私は御簾の内に招かれた。十三歳という年齢以上に大人びた顔を憂いの色に染めている。命に関わるほどではないが安定しない容態だと口にし、その後で東宮は苦笑した。

「父上は昔からお優しくいらっしゃる。ご出家をお考えの今になっても、私たち子どものことばかり気にかけていらしたよ。中でも母を早くに亡くした三の宮をことさら不憫にお思いのご様子でね」

 東宮は右大臣と髭黒の大将という確かな後見を持ち、四人いる姫宮も三の宮以外は母も存命で血縁にも恵まれている。

「三の宮は幼くして母を亡くし頼るべき縁者もないゆえ不憫にお思いなのだろう。姫宮の多くは婚姻せず生涯を終えるものだが、三の宮に関しては降嫁もお考えと伺っている。妹の身の上がこの先どうなるかは分からないが、私は父上のお望みのとおり、妹宮たち、中でも三の宮を厚く遇する。それは即位の後も変わらない。とは言え、位ゆえに動けぬこともあるだろう。源氏の院、貴方にも姫宮の後見をお願いしたい」

 次代の帝である東宮と太政天皇に准ずる私とでは位の貴さにそれほどの隔たりはない。けれど、私はあくまでも臣下としての扱いを望んだ。帝は(あめ)(した)第一の人、東宮は第二の人。私が上皇に准ずる身を誇れば、あるべき序列が崩れてしまう。

 私を父と信じる冷泉帝には受容されなかった考えを、東宮は「人々の上に立つ者が規律を乱してはならぬはず」と認め、受け入れている。

 聡明で気丈夫な東宮に弘徽殿の大后を思い出す。我が強くはあったが、怜悧で政の手腕にも長けていた。人々は大后こそ私の政敵と捉えているだろうが、私に憎む気持ちなどない。桐壺帝の女御として、朱雀帝の母として、弘徽殿の大后にはどんな時も守るべきものを守り抜こうとする強さがあった。

 女人とは信じられぬほどに強固な母から優しすぎるほどにやわらかな気質の朱雀院が産まれた不思議を思う。

「朱雀院さまは私にとっても大切な御方。この身の限りで姫宮にお力添えいたします」

「源氏の院にそう言ってもらればば安心だ。ありがとう」

 帝の皇子として生まれ、いずれ天位を譲り受ける東宮は屈託なく笑った。


 六条院で私の身近に仕える左中弁(さちゅうべん)は、三の宮の乳母の一人を妹に持つ。三の宮は父である朱雀院とともに院の御所で暮らしているため宮の乳母も自然と院の様子を伺い知ることができる。私は左中弁から院の病状について日々報せを受けていた。

 そんな折り、左中弁が笑顔で口を開いた。

「六条院であれば、三の宮さまも心安らかにお暮らしになれるだろうとおっしゃっておいででございました」

「……院がそう仰せになったのか?」

「はい。源氏の院にお任せできれば万事心配ないだろうと」

 朱雀院の私への信頼を我がことのように喜び、誇らしげに笑みを浮かべている左中弁に気づかれぬように細く息を吐く。

 姫宮の降嫁先となることは紛れもない名誉ではある。けれど、どれほど高貴な姫を迎えてもこの心の空ろが埋まるはずもない。

「誉れ高く、ありがたい仰せでもあるけれど、私とでは親と子ほどにも年の頃が離れているからね、釣り合いが取れないだろう」

 気乗りしない様子で返せば、左中弁は「さようでございますか」と肩を落とした。姫宮の乳母である妹から私の気持ちを確かめてくるようにと乞われていたのだろう。

「……本当に釣り合わない」

 いつの時も私だけがこの上なく想っている。


 年の暮れが近づき、朱雀院の病はますます重篤となり、遂には御簾の外にも出られなくなったと知らされた。慈悲深い院を慕う者は多く、帝や東宮だけでなく内裏の上達部たちからも見舞いの文や品々が絶えず届けられると聞き、心が騒ぐ。

 その死をこの上なく恐れながら、けれど、やはり会いたい。もしも最期になるのなら、どうしても会いたい。

 朱雀院が三の宮の降嫁を決めたという噂も広がり、太政大臣を父に持つ柏木や朱雀院の弟である兵部卿の宮などが色めき立ち、冷泉帝までも入内をほのめかす中、私は六条院へ夕霧を呼び出した。

「私の名代として朱雀院さまをお見舞い申し上げ、少しでもお心をお慰めして差し上げなさい。近々、私自らも伺いたいと思っているから、そのお許しも頂いてくるように」

 見舞いの心得をくり返し説き、これまで以上の品々を託した。

 半日の後、朱雀院の御所から六条院へ戻った夕霧と向かいあう。

「どのようなご様子でいらした」

「あまりお健やかではないご様子ではございましたが、私を御簾の内にお招きくださり、いろいろとお話してくださいました。六条への御幸の後から父上がしきりに懐かしく思える、どうしても父上にお会いしたい、院参が待ちどおしいと涙をお見せになられ、そのお姿はおいたわしくも清らかで、満ちゆく月を眺めては泣き濡れた竹取りの姫とはかのような御方であったのかもしれないと思いました」

 その身から光を放つほどに美しい姫は帝に求められながらも十五夜の夜に月へ還った。別れに際し、月の姫は地の帝に不死の秘薬を残したが、姫を失った帝はその薬を国で最も高い山で焼かせた。不死から転じて富士と呼ばれるその山からは今も白煙が立ち昇り、それは秘薬を焼いた煙だと伝えられている。

 古い物語の帝と同じように私もただ一人を得られない。憂いに傾く胸中を隠し、軽い口調で問う。

「朱雀院さまは姫宮さまのご降嫁をお考えのご様子。なよたけの姫を父君にお持ちの三の宮さまに興味が湧いたか」

「上皇さまの姫宮さまであればさぞお美しい御方でございましょう。ですが、そのように高貴な御方をお迎えするとなれば、名誉だけでなく労苦も背負うこととなります。何より私には雲居の雁がいますから」

 夕霧の声に迷いはなかった。想い続けた一人と結ばれる。それはどれほどの栄華にも勝る幸せなのだろう。太政大臣の姫君を大切にするよう伝え、私は夕霧を下がらせた。


 夜、院の御所から戻った左中弁は私に朱雀院が夕霧を「源氏の君を父とするだけのことはあるね」と褒めていたと知らせてきた。

「太政大臣に先を越され残念にも思う、とまでおっしゃっておいででした」

 左中弁の声で伝えられる朱雀院の言葉に苦笑する。私だけではなく夕霧までも姫宮の降嫁先として名が上がっていたらしい。

「朱雀院さまはやわかなご気性の方。太政大臣の姫を得たばかりの夕霧に無理をさせようとはなさらないだろう」

「だからこそ未だにお迷いになっていらっしゃいます」

「年の頃なら柏木あたりが釣りあうが、官職が衛門の督では難しいだろうな」

 太政大臣を父に朧月夜の姉を母に持つ柏木は出自も申し分なく、本人の資質も優れている。父に劣らぬ弓の名手で、楽の才にいたっては太政大臣以上とまで讃えられ、容姿も端整で若い公達の中では夕霧と並び称されているが、その位階は従四位。姫宮の降嫁先としては不足だろう。

 柏木は桐壺帝の妹宮を頂いた祖父と同じく自らも姫宮を迎えたいと望んでいると聞く。多くの才に恵まれた衛門の督へは大臣や大納言から縁談の話が引きも切らないようだが「迎えるのならば、姫宮以外にない」と言い切り、二十半ばの今も独り身を通している。 

「衛門の督さまは思慮深く趣味にも優れ、いずれは内裏の柱石となるだろうが、今はやはり位が足りないとの仰せでございます、兵部卿の宮さまは風雅をお好みになるあまり頼りなく感じられるとおっしゃられ、……」

「やはり源氏の君がよいとでもおっしゃったか」

 戯れに訊ねれば、左中弁は生真面目に頷く。

「はい、ゆったりと落ち着き、何事に置いても信頼できる方だからとの仰せでございました。私も源氏の院さまにお願いできるのであれば、上皇さまはもちろんのこと、三の宮さまにおかれましてもどれほどのお幸せかと存じます」

「私とでは年の頃が適さぬだろう」

 三の宮の年齢は明石の女御とほぼ同じ。私とは親と子ほどにかけ離れている。

「怖れながら、源氏の院さまは以前、高貴な方をお迎えできなかったとお嘆きでいらしたと伺っております。三の宮さまこそ比類なく高貴な姫宮さま。東宮さまも姫宮の降嫁は後の世で先の例とされるのだから並みの臣下では望ましくない。太政天皇に准ずる源氏の院に親代わりとして譲られてはどうかとのご意向でいらっしゃるそうでございます」

 先の世のことまで思慮するあたりが聡慧な東宮らしいが、どれほど望まれても三の宮を六条院に迎えようとは思わない。

 誰を手に入れてもただ一人を得ない限り、この心は満たされない。ならば、もうこれ以上は足掻かず、紫の上とともに静かに年を重ねていくべきだろう。

「冷泉帝もお望みだと伺っている。帝に差し上げるのが最もいいと思うが」

「すでに梅壺の中宮さまも弘徽殿の女御さまもおいででございますので、それがお気がかりなご様子にて……」

「六条にも私ばかりがいるわけではないし、困ったことだね。院にお認めいただけるのはうれしくもありがたくも思うが」

「これは私ではなく、妹が伺ったそうでございますが、上皇さまはもしも姫宮に生まれていたならば源氏の院にこそ寄り添いたかったと仰せになられたそうでございます」

 思いもしない言葉を伝えられ、愛しさに心が波打った。


 数日後、太政大臣の中将が六条院を訪れた。気の置けない友との他愛もない会話の中、太政大臣が三の宮の裳儀の腰結い役を引き受けたと知る。

「それほど所縁(ゆかり)のない方だから、お断りになるのかと思っていたよ」

「いや、私もそのつもりだったのですが、以前からの仰せでもあり、お断りもできず」

 腰結い役は縁深く声望のある者が選ばれる。太政大臣自身に不足はないが、三の宮との結びつきはごく薄い。

「貴方は昔から院のお願いには弱いね」

 苦笑すれば、中将も似た表情を浮かべ、頷く。

「本当に。まったく我ながら不思議なほどですよ。右大臣の世であった頃もお恨みする気持ちにはなれなかった。お優しげにおっしゃるのに、どうしてか願いを必ず叶えて差し上げなくてはという気持ちになってしまう」

「分かるような気がするよ。あの方ならば微笑みと憂い顔だけですべてを手に入れられるだろう」

「ご兄弟そろって恐ろしい。とは言え、そんな院さえ、姫宮であれば光の君と添い遂げたかったと女房たちにおっしゃったとか」

 三の宮を諦められず院の御所に日々参内している柏木から聞いたのか、太政大臣は含みもなく口にすると声を上げて笑う。

「朱雀院と源氏の院、格別にお美しいお二人ならば、よくお似合いでございましょう」

 私は波打つ心を隠し微笑む。

「私などでは力不足にも程がある。院のような姫宮であれば帝のご寵愛さえ容易いはず」

 朱雀院は私の気持ちをかけらほども知らない。院は姫宮でさえあれば私を求めたかもしれないが、私は皇子であっても院を求め続けている。


 年の暮れ、朱雀院は病を押して三の宮の裳儀の儀式を盛大に執り行った。

 院の御所の広大な庭に無数の灯りを置き、軒先には繊細な作りの釣灯籠が並べられ、冬の夜ながら春の昼日中よりも明るく暖かい。柏殿の西面を唐織の布で百花繚乱のごとき色合いに飾り立て、唐の皇后の即位式にも劣らぬ壮麗さは人々を驚かせた。

 腰結い役の太政大臣を始めとし、左大臣、右大臣が並び立ち、大納言の数も限りなく、親王さえも十人近く、帝や東宮も揃って代理を使わせ、前例のないほど豪華絢爛な式となった。

 数日前から小康を得たという朱雀院は優美に装い、やわらかな笑みで三の宮の儀式を見守っている。死は近くにないようだが、病が重いのは間違いないらしく頬の線が細くなり肩もよりいっそう薄くなっている。それでも、私にはどうしようもないほどに美しく見えた。

 出家を望む朱雀院にとって今日が自ら催す最後の式事となる。冷泉帝と東宮は蔵人所(くろうどどころ)納殿(おさめどころ)の宝物の数々を贈り、私も六条の倉から極上の品々を選び抜いた。

 前斎宮の中宮からも三の宮へ装束や櫛の箱が贈られた。御髪上(みぐしあ)げの道具は冷泉帝に入内する際に朱雀院から下賜された逸品を今めかしく、けれど、元来の典雅さを失わぬよう細やかに手を加えたと伝え聞いた。

 前斎宮の中宮は殿上を許された中宮職(ちゅうぐうしょく)の次官を使者に選び、必ず三の宮の手許に届けるようにと命じ、品々を託した。中宮から贈られた箱の中には文が入っており、院がその歌に返歌を送ったようだと左中弁から知らされた。上皇と中宮がどんな歌を交わしたか、二人以外誰も知らない。


 病の身である朱雀院は儀式を終えると退席したが、宴は華やかに開かれた。ほどなく左中弁を使者とした院に呼ばれ、私は盃に口をつける前に祝宴を抜け出した。

「お疲れがお出になり横におなりでございますが、どうしても源氏の院さまとお話がしたいとおっしゃっておいでございます」

 招かれるままに御簾の内へと入れば、院は色を失った顔を晒し、白い褥に横たわっていた。今にも消え入りそうなほどに儚く見える。私の訪れを知ると、院は閉じていたまぶたを開き、小さく微笑んだ。

「お召しと伺いまして」

 枕許に座すと、

「よく来てくれたね」

 答えて、ゆっくりと上体を起こした。

 女房たちを下がらせたこの場所には、私たちの他に誰もいない。浮かれ騒ぐ者たちの嬌声も管絃の音色も、遠くかすかに聞こえるばかり。

 変わらない香があえかに薫る。

「源氏の君」

 どこか甘く呼ばれ、ごく近くから眼差しを注がれる。院の瞳の中に囚われた私が見える。

「わたしはもうすぐ髪を下ろす」

 覚悟はできていたはずなのに、胸を突かれる。ただ一人が私を置いて祈りの世界へ入ってしまう。引き止めたい、けれど、できない。これ以上、この心に院を巻き込むわけにはいかない。

「……西山でお健やかにお過ごしになられますようお祈り申し上げます」

 絞り出すように告げれば、「ありがとう」と口唇の曲線を深くする。

「これを源氏の君に」

 言って、握ったままの左手を差し出してきた。

「わたしの宝物だよ」

 細く白い指が、花が咲くように開かれる。雪をも欺くような手のひらに、金色の光。虹のようにさまざまな色が現れては消える。どんな宝玉よりも美しいそれは、

「……龍珠」

 驚きとともに口にすれば、ただ一人が笑みを深める。

「光の君のものは月を、わたしのものは日を司るそうだよ」

 幼い頃の呼び名で私を呼んだその声は、子どものような無邪気さに満ちている。

「なぜ、院がこれをお持ちなのです」

「龍珠だもの、龍神から賜った以外にないでしょう。あのひとひらの紅葉もその色を失わぬようにと願ったら叶えてくれた」

「ですが、私のもとに現れる龍神には片目がありましたっ」

 衝撃を受け止めきれず声を荒げれば、笑みが深まる。

「時々は龍神にお返ししていたからね」

 何も考えられないまま私は懐中からもう一つの龍珠を取り出す。私の掌で白銀に輝くそれを見て院が笑みを深める。

「ああ、美しいね。虹を秘めた月のようだ」

 言って、日を司るそれを月の龍珠のとなりに置く。私の手の上で二つの龍珠が輝く。

「日と月と、龍珠は二つで一対。龍珠を持つ者は持たぬ者の心を惹きつけ、さらに月の龍珠を持つ者は日の龍珠を持つ者を狂おしいまでに求めてやまなくなると聞いた」

「私の想いをご存知でいらしたのですか」

「知っていたよ。だから、ひどく楽しかった。誰よりも優れ、美しい貴方がただの人であるわたしを最上の者として恋焦がれ苦しみ悩むさまは本当に美しく、見飽きることなどなかった」

 声だけはただどこまでも優しい。

「……兄君」

 ひどく久しぶりにその呼び名を口にしていた。

「父も母も異なるのだから、わたしは貴方の兄ではないよ。貴方は龍神の御子だもの」

 私が皇統を受け継いでいないと知っていたのか、知っていたからこその優しさだったのか。

「龍神は龍珠とともにわたしに真実を教えてくれた。でも、驚きはなかった。貴方は人であるにはあまりに美しく優れている、それは今上も同じこと」

 私に酷似した冷泉帝も龍神の血を引くと気づいていたのか。すべてを知りながら知らぬふりで微笑みを浮かべ続けてきたのか。

「わたしは龍神に感謝しているよ。源氏の君も冷泉帝もこの国の大切な支えだからね」

「ずっと私を憎んでおいでだったのですか」

 弟でありながら世の賞賛を受ける私を、東宮妃となるべき葵を奪い、寵妃である尚侍との逢瀬を重ね、前斎宮を遠ざけた私を、

「それほどに憎らしいとお思いでしたか」

「どうあっても大臣になれぬ者にとって、大臣の姿を目にすることは、それだけで苦痛となるのだよ。……貴方を知って初めてわたしは苦しみを知った」

「私というこの身のすべてが、院のお苦しみとなるとおっしゃるのですか」

「わたしが勝手に傷ついただけ。でも、わたしは同じだけ貴方にも傷ついてほしかった」

 思いもしない願いを口にされ、言葉を失う。

「わたしは貴方に三の宮を任せたい」

「初めてお会いしたあの日から、私はずっと院にだけ心を捧げ続けて参りました。そのすべてをご存知でありながら私に姫宮をあてがわれるのですか」

「心配しなくていいよ」

 兄のような顔で私をなぐさめる。

「龍珠を手放せば、わたしへの想いも消えるのだから」

「消えるわけなどないっ」

 手の中に龍神の秘宝を握り締めながら叫ぶ。

「私が望むのは天にも地にもただ一人、貴方だけだっ」

 激情のままに腕を伸ばし、かき抱く。

「貴方だけをずっとずっと強く深く、どんな時も想ってきました。貴方さえ私を望んでくれたら、それだけでいいと、ただ、ずっと貴方だけを。誰よりも優しい心をずっと……」

 求め続けたぬくもりを抱きしめ、想いのあまり、その背に爪を立てれば、龍珠が褥へ落ちた。院は私を拒みも受け入れもせず動かない。

「源氏の君の第一の人は、式部卿の姫君だと聞いている」

「紫の上は大切ですが、私が想うのは貴方だけです。私が私である限り、貴方を望まずにはいられない」

 宴の喧騒が遠い。貴やかな香り、ただ一人が私の腕の中にいる。このまま時が止まればいい。他には何もいらない。

「私が想うのは貴方ただ一人」

「……わたしも貴方を想っている」

 小さな声に私は腕の力を緩め、表情を確かめる。眼差しを重ね、院は私へ笑みを見せる。

「貴方は幼い頃から誰よりも美しくて、初めて会った時、光輝いて見えた。わたしは貴方を想い、貴方にも想われたかった。でも、貴方はすべてに置いてわたしより格段に優れていて、想いが届くはずなどないと分かっていた。だから、日の龍珠を求めた」

 背中に添えたままの手のひらが、院の震えを伝えてくる。

「龍珠に操られたまやかしでもよかった、わたしは貴方に想われたいと望んだ」

「私は龍珠に操られてなどいません」

 もう一度、今度は痛みを与えないようにやわらかに抱きしめる。

「私は貴方を誰よりも大切に想っています」

「わたしも貴方を想っている」

 腕を解き、顔を見つめる。

「想うからこそ、わたしは貴方の幸せを願う。臣籍に下りながら太政天皇に准じる身となり、明石の女御は東宮の寵愛を受けている。姫宮を正室とすれば、まさしく光の君にふさわしい生涯となる」

 白い両手が私の頬を左右から包む。

「貴方が帝となっていたなら、どんな御代を築いたのだろうね」

 ただ一人が夢見るように瞳を細める。

「きっと誰よりも素晴らしい御代を築いたに違いない。この目で見られず残念に思うよ。……髪を下ろしたら、わたしは日々、貴方の幸せを祈る。この命が尽きるその時までわたしは貴方のために祈り続ける。貴方には今以上の栄華を極めてほしい」

「私が望むのは貴方ただ一人です。互いに想いながら、私たちはどうしてこれほどにすれ違わなくてはならぬのですか」

 想いのままに院を求める私と、想うからこそ私から離れようとする院と。

「貴方の想いは龍珠によるまやかしだよ」

「貴方への想いこそ私の心の唯一です。偽りなどではありません」

 言い募れば、院は聞き分けのない子どもを前にしたような微笑みのまま私の頬から手を離した。膝へと落ちて行く左右の手を両手で包む。私の手の中に院のそれがある。

「……指を見た」

「指を」

「六条院で式部卿の姫君を垣間見た。顔は見ていないけれど、几帳の影に、白く細く、作り物のように美しい指先を見た」

 春の御殿の東の対には紫の上がいる。あの秋の夜に偶然その姿を目にしたのだろう。

「貴方が本当のわたしを知らないようにわたしも本当の貴方を知らないのだろう」

「私は知っています、貴方は誰よりも優しい」

「わたしは優しくなどないっ」

 悲鳴にも似た叫びとともに手を振り払われた。荒らかな振る舞いに驚けば院が笑う、ひどく悲しげに。

「左大臣の姫が亡くなったと知っても、わたしは心から悼みさえしなかった。光の君と結ばれ子まで得た。比類なき幸運に恵まれたのだから命を落としても仕方ないとさえ思っていた」

 葵を喪い悲しみに沈む私をあれほどに気づかってくれていたのに。

「それだけではないよ。藤壺の女御を求めたのも光の君に似ていたから。更衣腹ゆえに皇籍を失った姫に、わたしは貴方を重ねていた。貴方が都を離れていた間は、尚侍の中に貴方を探していた」

「では、なぜ前斎宮をお望みになられたのですか」

「神に仕えた聖なる姫なら罪人であるわたしを赦してくれるかもしれないと思った」

「貴方に罪など何一つもありません」

 罪人は私だ。唯一に焦がれ、手に入らぬと嘆き、多くの人を巻き込んでは苦しめ傷つけた。その足掻きが夕顔と葵の死となった。

「斎宮となった姫宮に別れの櫛を挿した時、わたしは帝位を継ぐ悲しみに泣いたのだよ。帝とは心のすべてで国と民のために祈る者。天位にありながら貴方を想えば、国と民への背信となる」

 白い頬を雫が伝う。

「貴方が都を追われ、わたしの心は光を失った。貴方に逢いたくて仕方なかった。……わたしは龍神に太政大臣と母上の死を願おうかとさえ考えた。ひどく恐ろしくて願えなかったけれど、確かにわたしは母上たちを呪おうとした。わたしを慈しみ支え続けてくれた二人をわたしは殺そうとした」

 これほどに優しい人に血縁の死を願わせた、その罪はどれほどに深いのだろう。

「私が貴方なら殺していました」

 言えば、濡れた瞳が見開かれる。

「貴方を私から引き離すなら誰であろうと、必ず」

 誰よりも大切な人が小さく、とても小さく口唇を緩める。

「源氏の君なら、そんなことにはならない。貴方は強いから。わたしは弱い」

「弱いのではなく優しいのです」

 口唇の曲線が深まる。それは自嘲めいた形に。

「わたしは弱く穢れている。天位にありながら私欲のために父上の夢を見たと偽り、龍神にはこの目をつぶしてくれるようにと願った」

 驚き、言葉を返せない。そんな私にただ一人は笑みを深める。

「貴方を目にできないのなら他に何を見ても意味などない。母上をはじめとして皆がどれほど心を痛めるのか分かっていた。分かっていて、それでも願い続けた。太政大臣はわたしのために昼夜を厭わず加持祈祷に明け暮れた挙句に亡くなった。呪いこそしなかったが、わたしが殺したのも同然だ」

「太政大臣はすでに老齢でした。貴方に罪はない」

「そうだとしても、心のすべてで国のために神に祈るべき帝位にありながら、わたしは天の下の安寧よりも貴方を求めた。これが罪でないのなら、この世に罪など一つもない」

 灯火が揺れる。これほどに近くにいるのに、私たちの行く末はどこまでも遠く隔たっていく。

「これ以上、罪を重ねては生きられない。わたしは世俗を捨て、これからの日々は貴方のために祈り続ける。だから、どうか幸せになってほしい」

 白い手に片頬を撫でられる。

「どうか、誰よりも光あふれる道を」

 悲痛なまでに真摯な祈り、拒めるはずもない。

「貴方の願いならば、私はその願いを叶えるためにこの先の日々を生きましょう」

「……ありがとう、光の君」

 安堵の笑みを浮かべた院を褥に横たえる。

「どうぞお休みくださいませ」

 病を得た身にはひどく負担だったのだろう、院はまもなく眠りに落ちた。疲労の色が濃い寝顔、頬をそっと撫で、祈りを囁く。

「お目覚めの後はどうか心安らかな日々を」

 私は院を残し、二つの龍珠を手に御簾の外へ出た。足を進め、渡殿に立つ。

 見上げた先には満ちた月。虚空に龍珠を握った片手を差し出す。

「返す」

 言えば、氷の香が漂う。

「久しぶりに日と月が揃った」

 冷やかな声とともに、月を背にし、人ならざるものが現れた。際立って整った顔に金色の左目と白銀の右目が輝く。人に化けた身に闇色の直衣を纏い、神であることを誇るように宙に浮いている。

「一つ知りたい。院に龍珠を渡したのはいつだ」

「元服の祝いに与えた」

 その答えが私の心を満たす。私が朱雀院に心を奪われたのは弘徽殿の局で初めて出逢ったあの日。この想いは龍珠に操られた偽りなどではない。

「月の龍珠を持つ者は日の龍珠を持つ者を求めて止まなくなると教えると欲しがったので与えた」

 風が強く吹いたが、龍神は髪も乱さず悠々と浮かんでいる。

「何を望み、私に月を、院に日を与えたのか」

「地に生きる身で神の望みを知ろうとするとは」

 嘲るように笑い、ふわりと私の目の前に降りてくる。高欄に浅沓(あさぐつ)の先をつけ、ゆるりと微笑む。

「月を望んだのはお前の母だ。日を求めたのは東宮であった院だ。私はただ願いを叶えただけ」

「では、私の願いも叶えてくれるのか」

「何を願う」

「龍珠に関わるすべてと私への想いを朱雀院の心から消してほしい」

 すべてを忘れることができれば院は心安らかに祈りの日々を過ごせる。ただ一人を思うがゆえの罪も痛みも抱えるのは私だけでいい。

「今夜のこともか」

「ああ、龍珠の記憶とともに私への想いも消えれば、院はこの先、心を痛めることもない」

 龍珠を手放しても、この想いは決して変わらない。

「私は残された日々を院の願いを叶えるために生きる。そして、この想いが真実だと証を立ててみせる」

 すべてを忘れる朱雀院には何一つ伝えられないけれど、それでも、この心の行きつく先はただ一人。

「願いを叶え、行く末を見届けよう」

 すべてを浚うような風とともに、龍神は掻き消えた。


 翌日、裳儀の儀式への列席の礼を兼ねた見舞い状を贈れば、今朝はひどく気分がいい、長年の霧が晴れたようだと書かれた返信があった。流麗な手蹟もあえかな香も変わらないが、どこかが違う。よく似た別人の文に感じられた。

 左中弁に探らせると、龍神に願ったとおり、院は宴席から私を呼び出したことさえ忘れていた。


 裳儀の儀式から三日が過ぎ、朱雀院は俗世を捨てた。

 帝や東宮を始めとした多くの見舞いが落ち着く頃を見計らい、私は院の御所へ出向いた。上皇であれば騎乗した高官に取り囲まれて行くべきではあるが、私はあえて普段どおりの牛車を選び、ごく少数の供も騎乗させずに牛車に乗せた。

 院は普段どおりの御座所にもう一つ席を用意させ、近しく私を迎えた。

 白絹の帽子(もうす)、文様を織り出さない白い絹で作られた(そけん)に袈裟を重ねている。素絹は帝が神事に纏う御斎衣(おんさいい)にも似ている。微笑みは変わらず、けれど、身に纏う装束のすべてが私とはかけ離れている。手を伸ばせば苦もなく届く近さにありながら、私たちの世界は天と地ほどにも遠い。

 微笑みはどこまでも穏やかで、あの夜に目にした、ひりつくような痛みに染まった表情とはまるで違う。ただ一人は龍珠に関する記憶とともに私への想いを手放した。自ら望みながらどうしようもないほどに悲しく、涙が零れる。

「いつかは出家をと望みながら、後れを取り、自らを恥じ入る思いでございます」

 偽りの理由を口にすれば、院も頬を涙で濡らす。

「源氏の院はまだ若いのだから、出家など考えなくていい。まだ修行の身だが、わたしは貴方のことも祈っているからね」

 幼い私をなぐさめた時と同じ口調。多くを忘れても優しさは変わらない。

「この上なくありがたく存じます。私もせめて院のお心にお応えしたく、……お許しいただけるのであれば、三の宮さまを六条院へお迎えしたいと考えております」

 言えば、院が驚きと期待に満ちた声で聞き返す。

「三の宮を六条院に」

「はい、姫宮さまを私自ら心を込めてお世話をさせていただけるのであれば過分の喜びでございます」

「ありがとう、源氏の院」

 ただ一人が安堵の笑みを浮かべる、その微笑みのために私はすべてを差し出せる。


 夜になり、院の御前で御饗宴(ゆうげ)を振る舞われた。格式張らない精進料理だが、どれも趣味よく整えられている。出家をした院の前には浅香(せんこう)の膳や鉢が並べられた。黄昏時から雪が降り出し冷え込んできたせいか、院の顔色は悪く箸の進みも遅い。案じる私に院が微笑む。

「風邪をひいてしまったようでね。でも、源氏の院のおかげで気持ちはとても楽だよ」

 その微笑みに私も笑みを返す。

 六条院には紫の上がいる。上皇の姫宮である三の宮は私の正室として降嫁する。それは紫の上が六条院の第一の人ではないことを広く世に知らしめる。短くはない時をともに過ごした紫の上には惨い仕打ちとなる。分かっていても私は院の願いを叶えたい、この心の証として。


 院の御所から帰った翌朝、私は紫の上とともに白く染まった庭を眺めていた。

「院がひどくお気の毒なのでね、院が西山の寺院にお移りになられる前に三の宮さまをこちらにお迎えしようと思う。心穏やかではないかもしれないが、どうか承知してほしい」

 紫の上は何も答えない。

「院からお預かりする姫宮さまだからね、大切にしなくてはいけない。どうか頼んだよ」

 雪よりも白い横顔に告げて、紫の上の返事を待たず私はその場を立ち去った。


 年が改まり、朱雀院の御所では三の宮の降嫁の支度が進み、柏木たちだけでなく冷泉帝までもが嘆きの声を上げている。

 宮中での四十の賀は辞したが、()の日にあたる正月二十三日、玉鬘が祝いの若菜を持参し六条院を訪れた。若菜とともに四十の賀を祝う贈りものの数々が届き、急遽、祝いの席を設けることとなり、玉鬘の父である太政大臣が楽の手配をした。

 太政大臣の家に古くから伝わる和琴を当代一と讃えられる太政大臣が弾きこなすさまに人々は感嘆の息を零した。あまりに見事な演奏の後では誰も楽器に手を伸ばせず、柏木に無理を言って和琴の前に座らせると父に劣らず素晴らしい演奏を披露した。古風な響きの太政大臣とは反対に柏木の音色は朗らかに明るい。

 太政大臣は琴の琴も持参していた。それは、宜陽殿(きぎようでん)の宝物の一つとされ、桐壺院が晩年に弘徽殿の大后の一の宮に下賜された名器だった。太政大臣の正室は亡き弘徽殿の大后の妹姫であるため、その伝手(つて)を辿ったのだろう。天下一と名高い琴を兵部卿の宮が奏でる。妙なる音色に戻らぬ日々を思う。多くの人を見送り、朱雀院は俗世を離れ、光の君と呼ばれた日々はすでに遠い。兵部卿に譲られ、私は琴の琴をひとさし奏でた。


 如月(二月)十日過ぎ、私は六条院に三の姫宮を迎えた。姫宮という身分を慮り春の町の寝殿の西の対に寄せられた牛車から私自ら三の宮を抱き降ろした。幾重にも重ねた絹に包まれたその身は小さな子どものように軽い。

 贅を尽くした饗宴の後、御帳台で向きあえば、十四歳という年齢以上に幼げで夫となる私を前にしながら恥じらう素振りもない。顔立ちは朱雀院に似てはいないが繊細に整っている。

「あなたをこちらへお迎えでき、うれしく思います。院の御所には劣りましょうが、どうぞお健やかにお過ごしくださいますよう」

「お気づかい、ありがたく存じます」

 表情は乏しく返す言葉も型どおり。手ごたえのない様子に落胆しつつ、にこやかに微笑みかける。

「院のお心に応えるためにも、私はあなたを大切にいたします」

「お気持ち、ありがたく存じます」

「あなたがここでお幸せになれば、院もさぞお喜びになるでしょう」

 三の宮を抱き寄せ、私は目を閉じた。

 姫宮を大切にすれば、院と確かなつながりを得られる。院の願いどおり紫の上よりも他の誰よりも大切にしよう。宮中以上の日々をこの六条院で過ごさせ、何一つ欠けたところのなく眩いほどの幸せを与えよう。誓いとともに肌を重ねたが、三の宮はやはりどこまでも幼かった。この上なく丁寧に接しながらも夜がひどく長い。

 黎明を待ちわび、眠ったままの三の宮を残し、私は紫の上のもとへ戻った。

「一晩会えなかっただけなのに、貴方がひどく恋しかったよ」

 何も言わない紫の上を私は強く抱きしめた。


 三の宮は高貴で麗しく、ただそれだけだった。父である朱雀院は楽を好み、どのような楽器も巧みに奏でたが、姫宮は琴も琵琶もおぼつかない。情緒豊かな院が風雅に暮らしている中に生まれ育ったはずなのに三の宮は歌も書も何一つ優れていない。佳麗な顔を喜びにも悲しみにも染めず、周囲の言いつけのまま人形のように大人しく日々を過ごしている。打てば響くような会話もない。それでも、院の期待に応えるため私は足しげく三の宮のもとへ通った。

 そんな日々の中、西山の寺院に移った朱雀院から六条院に文が届いた。私だけでなく紫の上宛てにも届いたそれには三の宮を気づかう言葉が綴られている。姫宮とはかけ離れた流麗な筆跡だった。


 朱雀院が院の御所を出た後、朧月夜の君は亡き弘徽殿の大后が遺した二条の邸へ移っていた。朧月夜の君は朱雀院の後を追い、出家を望んだが、院に諭され、今は髪を落とす準備を整えながら静かに日々を送っているらしい。

 ある夜更け、私は粗末な網代車(あじろぐるま)に乗り、二条へ向かった。前和泉守(さきのいずみのかみ)に来訪を告げ、やや強引に邸へ上がり込んだ。朧月夜の君は警戒しているのか、御簾ではなく襖障子越しに私を迎えた。ため息の後で小さく笑い声がする。

「会うつもりはないってお伝えしたのに、困った方ね」

 華やかな声は昔と変わらない。

「こんなところに来ている暇があるのなら、六条の寝殿に出向くべきでしょう」

「あなたに会いたくて来たのに随分と冷たいことだね」

「姫宮さまを頂いてもまだ貴方の心はあの御方のものなのね。どうせここに来たのも院の様子が知りたいからでしょう。いいわ、話してあげる」

 開かれた障子の先、朧月夜の君が微笑んでいる。芍薬の花のような微笑みに衰えは微塵もない。

「お久しぶりね、源氏の院」

「あなたは変わらないね」

「ありがとう。貴方にも同じ言葉をお返しするわ。……院はご出家の後、お変わりになったわ。変わらずにお優しいけれど、前はもっと、そうね、まるで天上にでも住んでいるような風情でいらした」

「まるで竹取りの姫のようだね」

「出家した後の方が俗世っぽいなんて不思議なことね」

「あの方は地で生きるには優しすぎるのだよ」

「貴方は何も変わらないわね。わたしは院と貴方を同じだけ大切に想っているわ。でも、貴方にとっては院と私では比べるまでもないのでしょう」

 私は答えず、かつての恋人を抱き寄せた。


 夏、明石の女御が懐妊した。まだ十二歳という幼さゆえに不安もあるが、春には朱雀院の皇子である東宮と私の姫である明石の女御の子がきっと無事に生まれるだろう。

 冷泉帝には未だ一人の皇子もない。東宮の寵愛を受けた明石の女御が皇子を産めば、次代の東宮にもなり得る。院と私の血を皇統へつなぐため、どうか皇子であるようにと強く願った。

 身重となった明石の女御はしばらく六条院へ下がることになった。東宮の寵愛ゆえにこれまで一度も里下がりを許されなかった姫のために三の宮の暮らす春の町の寝殿の東に女御の御座所を用意した。

 明石の女御を六条院に迎え、存分にもてなしたその夜、私は再び二条に出向いた。朧月夜は苦笑とともに私を迎えた。

「本当に困った人ね。春には皇子さまか姫宮さまのおじいさまになるのに」

「皇子さまであればいいと思っているよ」

「皇子さまが生まれて東宮さまにおなりになれば、貴方のその御しがたい想いも少しは楽になるのかしら」

「さあ、私にも分からない」

「源氏の君にも分からないことがあるなんて」

「たった一つ、特別な想いだから分からなくてね」

 私は目を伏せた。


 冬になり、紫の上、前斎宮の中宮、冷泉帝により、私の四十の賀が次々に祝われた。帝は私への祝意として権中納言であった夕霧を右大将に昇進させた。心尽くしの宴席を捧げられながらも私は西山で祈りの日々を送る院だけを思っていた。


 年が明け、弥生(三月)十日過ぎ、明石の女御は六条院の冬の町で東宮の第一皇子を産んだ。懐妊中は容態が安定せず苦しむ日々が続いていたが、驚くほどの安産だった。

 陰陽師に住まいを変えるよう進言され、春の町の主殿から冬の町の対の屋に移った女御は尼となっていた祖母から出生の事実を知らされた。

「多くの人に支えられ、今のわたくしがあるのだと知りました。実の母は身分の劣る人なのだろうと思ってはおりましたが、まさか明石で産まれたとは夢にも思わず、自らの驕りを恥ずかしく感じます」

 身分の低い母ではなく、事実を知らずに高貴な身の上だと驕心していた自らを恥じた姫の稀有な心根こそが安産をもたらしたのだと祖母である尼君はくり返し口にした。

 白絹に包まれた赤子を抱けば、無垢な瞳に見つめられる。

「ああ、愛らしい御子だ」

 偽りなくそう思う。朱雀院を父に持つ東宮と、私を父に持つ明石の女御の間に産まれ、小さなこの身体には院と私、両方の血が流れている。兄とされる朱雀院と私に血のつながりはない。けれど、それぞれの子をよすがとして私たちの血は一つとなった。

「きっと誰よりも輝かしい日々を生きるだろう」

 父方は上皇と東宮、母方は太政天皇に准ずる私と女御、抜きん出て貴い血脈に恵まれ、その身はいつの日か高御座へ昇るに違いない。

 産まれて七日目の夜の祝いの席には、冷泉帝から数限りなく贈り物が届いた。東宮の父である朱雀院は出家しているため、公に祝うことは難しい。その代わりを果たそうとする心づかいであり、同時に未だ人の親になっていない今上帝が産まれた皇子を次代の東宮に考えているとの表明でもある。明石の女御の腰結い役を務めた梅壺の中宮からも煌びやかな装束が数多く届けられた。太政大臣を始め、左大臣、右大臣、すべての殿上人からと言っていいほどに数限りなく祝いの品が贈られた。

 自らも出家し、朱雀院とともに西山に移った左中弁からは、院も心から喜んでいると知らせがあった。忠義に厚い左中弁からの長い文には、院が「光の君の再来のような子になるかもしれない」と口にしていたと綴られていた。

 ただ一人の喜びが何よりもうれしかった。

 子の誕生を知った明石の入道はすべてを捨て山奥へと入った。後日、明石の方へと届けられた文には自らの命日を知ろうとするなとだけ書かれていた。大願を果たした今、もう世俗に興味はないのだろう。

 ただ一つの願いも叶えられぬ彷徨う身にはまぶしいほどの潔さだった。


 桜の盛り、皇子と明石の女御がともに宮中へ帰った後の六条院の春の町の寝殿で、私は弟皇子の兵部卿の宮や衛門の督である柏木とつれづれに会話を楽しんでいた。退屈凌ぎに夏の御殿を訪れている夕霧へ使いを出せば、人々を集めて蹴鞠をさせているとの返事だった。

「蹴鞠とはあまり作法がよくないが、春の昼下がりの眠気を覚ますには丁度いい。こちらへ来るように伝えなさい」

 ほどなく夕霧が年若い者たちを連れて現れ、遣水(やりみず)の合わさるあたりで蹴鞠が再開された。夕霧と柏木にも参加を許すと揃っていそいそと庭へ下りた。

 夕暮れへ近づく空の下、年若い公達たちが毬を蹴り上げるさまは一幅の絵のような風情に満ち、見飽きることがない。中でも柏木の技量が抜きん出ており、父である太政大臣が数いる子息の中で最も誇りとするのも頷ける。

 いつしか蹴鞠の輪は私の目の前を離れ、南面(みなみおもて)の階近くまで移動していた。私と兵部卿の宮もつられ、孫廂(まごひさし)から簀子(すのこ)へ下り、高欄にもたれ見物を続けた。遠目にはなったが、さすがに疲れたのか夕霧と柏木が寝殿の階に並んで腰をかけたのが見える。

 ふいに野分を思わせるほどに強く風が吹いた。桜吹雪で視界が塞がれ、どこからか猫の鳴き声が聞こえる。

 風はほどなく止み、それを機に私は夕霧たちを東の対の南面に招いた。廂に座した柏木はいつもの才気煥発さを潜め、ぼんやりと庭の桜を眺めている。どこか虚ろな表情を浮かべながらも横顔は過ぎるほどに整い、太政大臣にも劣らぬ魅力に満ちている。

「父君とは多くのものを競ったが、どうあっても弓と蹴鞠だけは敵わなかったことを思い出したよ。血筋というものがあるのだろうね。大したものだ」

 褒めれば、柏木は驕りのかけらもなく優美に微笑む。

「弓や蹴鞠の他には優れたところもない家系にて、お恥ずかしい限りでございます」

「いやいや何事であっても人より優れていることは素晴らしい。いっそのこと家伝の書に書き留めて子孫に伝えてみてもいいだろう」

 からかいの言葉に、柏木が笑みを深める。二十五歳という年齢に似つかわしい清らかな微笑み。人格も優れ、帝の覚えもめでたい身でありながら未だに太政大臣邸の東の対に独りで暮らしている。朱雀院にもよく仕え、母方の叔母である朧月夜を通じ三の宮の降嫁を働きかけてもいたとも知っている。万事抜かりのない柏木を夫とした方が、出自と容姿以外に格別の才のない三の宮にとっては幸せだったのかもしれない。院の意向に背かぬよう丁重に扱ってはいるが、私の心は姫宮にはわずかほども傾いていない。

 夜も更けた頃、一つの牛車に乗り合わせ帰っていく夕霧と柏木を見送った。



 時は流れ、十一歳で即位した冷泉帝は二十八歳になり、二十歳(はたち)の東宮へ位を譲った。次代の日嗣の皇子には明石の女御が産んだ第一皇子が選ばれた。院と私の血を継ぐ子が東宮となった。その身はいつの日にか高御座に昇る。この目で即位を見られなくても、ただ一人を求め足掻く私には大きななぐさめとなった。

 新帝の母である承香殿の女御はすでに亡くなっていたが、女御の兄である髭黒が左大将から右大臣へ昇進した。太政大臣は潮時として位を辞し、夕霧は大納言に昇進し、同時に左大将を兼務することとなった。右大臣である髭黒と左大将である夕霧、どちらも政に長け、帝に忠誠を捧げている。譲位は滞りなく行われ、新帝の御代に憂いはない。明石の女御は東宮に続き次々と子に恵まれている。我が子が帝となっても、朱雀院は政に口を挟まず西山の寺院で仏道に励んでいる。

 私自身は三の宮を正室とし重く遇しているものの、口さがない人々には源氏の院の寵愛は紫の上に傾きがちだと噂されている。

 二十歳近くになった今も三の宮は変わらずに幼いままだ。折りを見て琴や書を教えてはいるが、成長は感じられない。顔を合わせはしないとは言え、春の町にともに住む紫の上を気にする素振りもない。朱雀院としては私が幼い若紫を引き取り都に並ぶ者のないほどの貴婦人に育て上げたように三の宮も導いてほしいと願っているのだろうが、いくら教えても楽も書も紫の上には遠く及ばない。

 姫宮を迎えながら持て余しているようにも見える私への戒めの意味もあるのだろう、帝は妹である三の宮に二品(にほん)品位(ほんい)を授けた。親王の最上位である一品(いっぽん)に次ぐ高位を得ても、三の宮は格別な喜びを見せなかった。


 出家を果たしながらも姫宮を未だに案じている朱雀院の胸中を思い、五十の賀を祝う名目で三の宮とともに朱雀院のもとに参内すると決めた。三の宮を引き受けたあの雪の日からもう七年、俗世を捨てた院には一度として会っていない。何も覚えてはいなくても、院は私の心尽くしを喜んでくれるだろう。

 楽を好む院のため、舞人も楽人も殊更に優れた者ばかりを集め、年若い公達も整った容姿の者ばかりを選び抜き、舞の稽古を命じた。朱雀院はその趣味のよさと穏やかな性格で広く慕われている上に太政天皇に准ずる私が主催するとあって、誰も彼もが楽や舞の稽古に明け暮れた。

 慌ただしくも晴れやかな日々を送る六条院の噂を耳にし、院は自ら三の宮に琴の琴を教えていた頃を思い出したらしい。

「こちらへ訪れるのなら、ぜひ三の宮の琴の音を聴きたく思う。わたしの教えは道半ばとなってしまったが、源氏の院を師とし、どれほどの弾き手となっているのか、楽しみなことだ」

 朱雀院の願いは帝へも伝わり、

「源氏の院のもとでさぞ腕を上げているだろう。父上の御前で弾きこなすさまを私も見てみたいものだ」

 そんな言葉が人づてに聞こえてきた。

 院の血筋であれば今上と同じように楽の才にも恵まれているはずと信じ折々に教え少しは上達もしているが、院を満足させるにはほど遠い。

 私は夜ごと三の宮のもとへと出向き、琴の琴を教えた。冬の夜は長く、少しずつではあるが宮の琴も上達していく。院の五十の賀は年が明けた如月(二月)十日すぎに予定している。この調子で稽古を続ければ、きっと院も満足する演奏が叶うだろう。


 三の宮のもとへ通い詰めているうちに新年を迎え、今上帝によって朱雀院の五十の賀が盛大に執り行われた。


 正月二十日過ぎの夕暮れ時、私は三の宮の暮らす春の町の主殿に、紫の上と明石の方を呼び寄せ、懐妊のために里帰りしている明石の女御を招いた。廂の間を飾りつけ、互いを隔てるのは几帳のみとし、私はその中央に座した。

 明石の女御には筝の琴、紫の上には和琴、明石の方には琵琶、どれも秘蔵の名器を与えた。三の宮には由緒ある琴はまだ手に余るため稽古に使っている琴を念入りに調弦させた。

 御簾の向こうには筝の琴の調律のために夕霧を呼び寄せた。父とともに座している夕霧の子には横笛を、その隣に並ぶ髭黒の右大臣と玉鬘の子には笙の笛を持参させ、合奏させるよう命じてある。どちらも楽の才がある子どもたちだから音色に花を添えてくれるだろう。

 絃を調えた夕霧が短い試し弾きで音階を確かめた後、琴は明石の女御のもとへと戻り、合奏が始まった。異なる魅力を持つ四人が妙なる音色を奏でていく。

 三の宮は二十歳を数えても少女のように頼りなげな身に桜襲の細長を纏い、薄い背中に豊かな黒髪を流している。姫宮らしい気品に満ち初春の青柳を思わせる。鶯の羽ばたきにさえ揺らぐような繊麗さが高貴な身分に似つかわしい。成熟した音色ではないが、若々しい響きで危なげなく琴の琴を弾きこなしている。

 身重でもある明石の女御は紅梅襲(こうばいがさね)に身を包み、華やかな美貌が咲き誇る藤の花を思わせる。筝の琴らしく他の楽器の間を控えめに響く音色が素晴らしい。

 華やかな和琴の音に紫の上に目をやれば、葡萄染(えびぞ)めの色の深い小袿に淡い蘇芳の細長を重ねた姿は満開の桜のように華やかでありながら雪をも欺くほどに真白い睡蓮を思わせ、清らかに美しい。

 身分の劣る明石の方は、萌黄色の小袿に柳襲(やなぎがさね)の細長、女房の正装である薄絹の裳をつけてはいるが、その手が奏でる琵琶の音はどこまでも高雅な響きを放ち、冬の夜空のように澄み切っている。

 御簾の外は夕霧の子が横笛を、玉鬘の子が笙を生真面目な顔で巧みに吹いている。

 天上のものとも思われるような演奏が終わると、私は褒美として玉鬘の子に上衣を付与した。夕霧の子には紫の上から細長や袴が与えられ、夕霧には三の宮から装束一式が下賜された。

「師である私だけが褒美をいただけないとは残念ですね」

 軽く言うと、三の宮は一管の笛を差し出した。笑いながら受け取れば見事な高麗笛だった。院から譲られたものに違いない。喜びとともに吹けば軽やかな音色が響く。不足のない思いとともに夜は更けていった。


 次の夜、三の宮のもとへ渡ると、昨夜の出来栄えをうれしく思うのか熱心に琴に向かっていた。

「それほど根を詰めなくてもいいのですよ。昨日もお伝えしたとおり見事な演奏でした。きっと院もお喜びになるでしょう」

 琴を奏でる白い手を捉え、私は三の宮とともに御帳台に入った。


 時間はかかるが三の宮も少しずつ成熟していくのかもしれない、そんな期待を抱き始めた折り、紫の上が病に倒れた。

 日を重ねても病状は好転せず、幾日もしないうちに褥から起き上がることさえできなくなった。紫の上の病を知った朱雀院からは五十の賀の辞退とともに丁重な見舞い状が届いた。

 高熱と胸の痛み、如月(二月)を迎えても変わらない病状に、私は紫の上を二条院へ移した。それでも、回復の兆しさえ見えない。

 

 二条で紫の上に付き添い、六条院にはほとんど戻らぬまま日々を過ごし、気づけば夏を迎えていた。

 ひどく暑い日の午後、六条からの使者で私は三の宮の懐妊を知った。喜びよりも戸惑いが勝る。二条院に移ってからも折りを見て六条院に戻り三の宮とともに過ごしてはいるが、降嫁から五年以上過ぎた今頃になってという気もする。懐妊でなかったとしても気分が悪いと言って病床にあるのだから見舞うべきだろう。私は六条へ戻った。

 久しぶりに目にする三の宮はひどく塞ぎ込んでいた。頼りなげな様子の痛ましさに、私は昼の御座所で三の宮とともに横になり、さまざまな話を語り聞かせた。

「朱雀院さまも夏の暑さには弱くておいででしたから、あなたも同じなのでしょう」

 言って、艶やかな髪を撫でる。

「まだはっきりとはしていないけれど、子を宿してくれたのなら院もさぞお喜びになりますよ。もちろん私もうれしく思います」

 励ましにも三の宮は目を伏せるばかりで答えない。弱々しいさまがただ一人を思い起こさせ、私はその夜を六条で過ごした。


 翌朝早く、私は眠っている三の宮を御帳台に残し、二条院へ戻るための身支度を始めた。扇子をどこかに置き忘れたことに気づき、昨日うたた寝をした昼の御座所へ向かう。

 見渡すと褥の下に浅緑色の文が見えた。覚えのないそれに手を伸ばせば、男の筆跡だった。焚き染めた香も趣味がよく、切々と恋情を訴えるそれは見間違えようもない、柏木の手蹟だ。

 衛門の督であった柏木は昇進し、今は中納言を兼任している。父である先の太政大臣ととともに働きかけを続け、朱雀院の許しを得て三の宮の異母姉(あね)である更衣腹の二の宮を正室に迎えてもいる。宮の母である一条の御息所に婚姻を歓迎されず、二の宮とはあまり打ち解けていないらしいと耳にしてはいたが、見所のある若者だからいずれは心の通う夫婦となれるだろうと期待していた。

 それなのに……

 信じられぬ思いのまま幾度も文を読み返す。三の宮の女房の誰かが巧みに柏木の筆跡を真似たものかと思いたいが、見事な筆遣いは本人以外あり得ない。

 蹴鞠の折りに姿を垣間見て以来、ずっと想ってきたこと、願いどおりに逢瀬が叶ったからこそより一層狂おしいまどに愛おしさが降り積もると訴える文は技巧に満ち、柏木の趣味の確かさを裏付ける。

 古くからの友である前太政大臣の子息として、夕霧の友として、格段に目をかけていた柏木に裏切られるなどとは思ってもいなかった。朱雀院の願いを叶えるため、幼いばかりの姫宮を正室として迎え、この上なく大切に扱ってきた。中宮にも劣らぬ暮らしをさせてきたのに。

「ああ、そうか。桐壺院と同じだな、私も」

 私の母である桐壺の更衣も、冷泉帝の母である藤壺の女御も帝を欺き、龍神の子をその身に宿した。けれど、二人には我が子を東宮にと願う強い意志があった。あどけない三の宮にそんな思いはないのだろう。ただ柏木の熱情を拒みきれなかっただけだ。

「私の子を産むより幸せかもしれないな」

 文を握り締めたまま零した声は低く、澱んだ響きを纏っていた。

 少しの後、三の宮に仕える小侍従(こじじゅう)が戻らない私を探しに来た。私の手に浅緑色の文を見つけ、その顔が青ざめる。それを見て、手引きしたのは小侍従だと知ったが、言うべきことなど何もない。私は無言で文を手放し、その場を立ち去った。


 小侍従から柏木の文が私の目に触れたと知らされたのだろう、その日以来、三の宮は母になる喜びも見せず、身の置き場もないように俯き塞ぎ込むばかりになった。

 柏木を手引きした小侍従以外は三の宮の裏切りを知らない。朱雀院や今上帝の耳に入らぬよう組略な扱いこそしないものの、私の三の宮への振る舞いは日に日に冷やかさを増していく。その様子を小侍従から聞いたのか、それとも今頃になって罪を恐れたのか、ほどなく柏木は病の床に就いた。

 そんな最中、朧月夜の君が朱雀院を追い、出家を果たしたと知った。ただ一人に続き、短くはない月日を重ねた恋人も俗世を捨てた。私だけがいつまでも無残に足掻き続けている。


 延期となっていた院の五十の賀は、楽を取り仕切る夕霧が母を亡くした葉月(八月)と弘徽殿の大后の忌月である長月(九月)を避け神無月(十月)に予定していたが、身重となった三の宮の不調のため再びの延期となった。

 代わりに二の宮が、義理の父である前太政大臣と夫である柏木の助力を得て、十月に祝宴を催した。前太政大臣が細やかに心を尽くし、善美を尽くしたその場には柏木も病を押して同行したと聞いた。


 二条院に紫の上を残したまま六条院へ戻り、形ばかりの見舞いに三の宮のもとを訪れると、時を同じくして院からの文が届いた。

 身重の身で体調の優れぬ姫宮を気づかう文面とともに、正室としての心得を教え諭す言葉が続く。紫の上の看病を理由に二条院に留まる私と三の宮との隔たりは、すでに西山の院の耳にも入ってしまったのだろう。それでも院の文に誰かを責める言葉はない。日々が喜びに満ちてはいなくても夫である源氏の院を恨んではならない、姫宮らしく貴やかに穏やかに過ごすようにと流麗な手蹟で綴られている。

「お返事はどうなさるおつもりですか。院にこれほどのご心痛をおかけして私の心も痛むばかりです。思いがけないことがあったとしても、私はあなたを決して軽んじてはいないのに」

 私の言葉に耐えかねたのだろう、三の宮は顔を背け、すすり泣いた。小さく震える肩は頼りなげで黒髪の向こうに見える頬の線も細くなっている。可憐なさまがかえって苛立ちを募らせる。

「院はお身体が丈夫ではないのだし、何より出家もなされた今になって、そのお心を煩わせるようなお振る舞いはなさらぬよう」

 三の宮は答えず涙を零し続ける。頼りなげな風情は院に似ているが、その頬を拭う気になれるはずもない。とは言え、院からの文をこのままにしておけるはずもない。ふさわしい紙を選び、硯を引き寄せ、自ら墨を擦り、三の宮へ筆を握らせる。白く小さな手を震わせる三の宮に選ぶべき言葉を教え、院への文を綴らせた。


 霜月(十一月)を迎えたが、桐壺院の忌月であるため祝宴はできない。私は朱雀院の五十の賀を師走の十日過ぎにと定めた。六条院の四つの町では、舞や楽の稽古でそれぞれの御殿が揺れるほどの騒ぎになっている。

 上皇の長寿を祝う席では一つの不手際も許されない。私は当日に備え、試楽を行うこととした。紫の上も小康を得て久しぶりに二条から六条院に戻り、皇子を産んだばかりの明石の女御も里帰りしている最中でもあり、右大臣の正室である玉鬘も「きっと素晴らしい試楽になると思いまして」と訪れた。

 楽は夕霧に任せてはいるが、風雅の点では柏木に劣る。これまで管絃の遊びの際は必ず柏木を召していた。今日に限って呼ばなければ、人々は不信に思うだろう。使いを送ったが、柏木は病を理由に辞退の旨を返してきた。重ねて使いを送り、ようやく六条院へ召し出した。

 御簾越しに向かいあえば、確かに痩せて顔色も優れないが、これまでの誇り高く華やかな風情に替わり、静かで落ち着いた気配を得ている。端正な佇まいは姫宮の降嫁先としても遜色ない。これほどの若者がなぜ三の宮と過ちなど犯したのか、惜しい気持ちにさえなる。名門の長子として生まれ、自らの才にも恵まれ、帝の信頼も厚く、更衣腹とは言え先の帝の姫宮を正室としていながら、なぜ想いを断ち切れなかったのか。荒れる胸中を押し隠し、穏やかに声をかける。

「朱雀院の五十の賀をお祝いさせていただきたく準備を進めてきたが、やはり中納言の意見を聞かなくては落ち着かないからね、よく来てくれた。このところ姿を見かけず残念に思っていたよ」

「病を得ておりまして長くこちらにも参内できず申し訳ございません。上皇さまにおかれましては西山で仏道にご専念なさっておいでと伺っております。豪奢な祝いの宴よりも姫宮さまとのお時間こそ何よりのお喜びになるかと存じます」

 正室である二の宮の盛大な五十の賀については触れず、院の希望をしっかりと見抜き、控えめに口にするあたり、やはり優れていると言う他ない。

「簡素な祝宴では世間の人々に私の心が浅いと思われそうで躊躇いもあったが、中納言にそう言ってもらえれば安心だ。院は何事も巧みでいらっしゃるが、中でも楽をお好みだ。どうか左大将とともに楽を取り仕切ってほしい」

 柏木は言葉少なに承知すると、これまでのように些細なことを言い交わすことなく私の前から退出した。病み衰えていても立ち居振る舞いには一点の瑕疵もなく残された香も趣味がいい。姿形もその中身も優れている柏木だからこそ許せない。

 試楽は柏木の手により、この上なく優雅に執り行われた。

 ねぎらいの宴席で幾度も盃を強要すれば、

「これ以上は……」

 困惑に眉を寄せる様子さえ雅びな魅力に満ちている。

「他でもない中納言に疎まれるとは年寄りにはなりたくないものだね」

 あてつけがましく言えば、柏木は整った顔立ちを苦しげに歪ませながら盃を空けた。

 人づてに耳にした院の言葉が甦る。

「三の宮よりも衛門の督を夫とした二の宮の方がこの先も心安らかに過ごせるだろう、二の宮はいい夫を得た」

 院はそう口にするほど、柏木を認めている。どうして許せるだろう。憤りのままに無理に酒を勧め続け、その夜、柏木は酒宴の果てないうちに六条から去った。


 蒼白な顔で二の宮とともに住む一条邸に帰りついた柏木はそのまま病床へと戻った。病は日ごとに重くなり、ほどなく父母の待つ前太政大臣の邸へ移った。帝からも朱雀院からも見舞いの使者が幾度なく使わされ、友である夕霧も朝に夕にと見舞いを重ねた。


 政に置いても風雅の道に置いても重要な中納言が病を得て、両親、兄弟、他の縁者が嘆く中、私は二十五日に朱雀院の五十の賀を催した。

 私は秘蔵の琴を持参したが、院は三の宮の体調を優れないことを理由にそれを弾かせようとはしなかった。

 別れ際、院は私に祝賀の礼を伝え、

「子が無事に産まれ、かすがいとなるよう祈っているよ」

 三の宮に微笑みを与えた。

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