十六 藤裏葉
卯月の初めの夕暮れ時、私のもとを訪れた夕霧の手には作りものに見えるほどに見事な藤の枝があった。
柏木を使者として花とともに届けられた文には右大臣邸での藤の宴への招きが綴られていたと口にし、縋るような目で私を見つめてくる。
「柏木には差し障りのない返信を託し、ひとまずはと帰しましたが、このお誘いをお受けしてもよいものかどうか……」
「藤の花を名目にあちらから歩み寄っていらしたね。せっかくのご招待だ、ありがたくお受けなさい。行き違いもあったが、内大臣は亡き母上の兄君でもいらっしゃるのだからね」
「はい」
ようやく想いが叶うというのに十二の頃から六年あまりも引き離されたせいか警戒の色が強い。
「心配しなくていい。先頃の大宮の三回忌でも内大臣は許すとおっしゃっていたのだろう」
「ほのめかしてはいらっしゃいましたが、折り悪く雨が降り出してしまい、はっきりとお許しをいただいたわけではございませんので」
「では、出向かぬつもりか」
「いえ、伺います」
即座に答えた夕霧に「そうしなさい」と笑顔で頷く。
「すぐにでも出た方がいいが、今のままでは直衣の色が濃く、軽々しく見られてしまうだろう。宰相の中将らしくもっといいものに着替えてから出掛けなさい」
私は自身の持つ直衣の中からふさわしいものを選び出し、それに劣らぬ衣の幾つかを夕霧へ与えた。
翌朝、晴れやかな顔で私のもとへ出向いた夕霧に後朝の文はもう届けたのかと訊ねると「つい先ほど」と短く答えた。
「長い間よく耐えた。賢いと言われる人でもなかなかできることではないから立派だが、我が意を得たりとばかりに自慢げにしてはいけないよ。妻にしたからといって奢らず、会えずにいた時を忘れず内大臣の姫を大切になさい」
「いつまでもずっと、ずっと大切にいたします」
喜びにあふれた夕霧は迷いなく言い切った。
東宮への入内こそ叶わなかったが、雲居の雁は宰相の中将である夕霧の正室となった。内大臣と離縁し今は按察大納言を夫としている実母もきっと喜ぶだろう。親しい友でもある柏木はとうに夕霧を認め、妹の縁組を心から祝っている。家柄も釣り合い、年の頃も十八と二十で丁度いい。
心から願うただ一人と結ばれ、その上、誰からも喜ばしいと祝われる。私には得られない幸せを手にし、夕霧は晴れやかに笑っていた。
「貴方とはよほど縁があるようですね」と笑う内大臣の中将と若い頃のように近しく行き来を重ねるうちに日々が過ぎ、明石の姫君の入内が目前となった。
入内に際しては母として正室の付き添いが求められるが、紫の上を明石の姫君の後見として後宮に留めるわけにはいかない。ならばいっそ明石の方を世話役とし、入内した後を任せた方がいいだろう。私の考えに紫の上は異を唱えなかった。
冬の御殿に渡り、明石の方と向かいあう。
「長い間、待たせてしまったね。世話役として仕えるという形にはなるが、姫に付き添い、ともに後宮で暮らしてもらえるだろうか」
三歳の娘を奪われ一度として会えぬまま八年が過ぎている。姫はすでに十一歳になり、裳儀を終え、東宮への入内を間近に控える。長い年月引き離した私への恨みも見せず、明石の方は深く頭を下げた。
「喜んでお伴させていただきます。殿はお約束をお守りくださいました。大堰の邸でいつの日か必ず姫に会わせようとお約束くださり、そのお約束を支えにここで母と過ごして参りました。もう一度この目に姫を映せるとはこの上ない喜びでございます。心よりお礼申し上げます」
涙を零すさまは明石で会ったあの頃と変わらずに気品に満ちている。趣味も優れ、ものの道理をわきまえた明石の方であれば、女御となる姫のよい支えとなるだろう。
明石の姫君と呼ばれながらも姫は実の母を知らない。紫の上でないことは知っているが、そのことについて姫宮は何も訊ねてこない。いつか知らせる日が来るだろう。その時、身分の劣る実母を姫はどう感じるのだろうか。
入内の夜、姫君は紫の上とともに輦車を許されたが、母である明石の方は女房の一人として徒歩で後宮へ入った。
明石の女御となった姫君の暮らす淑景舎は明石の方の手により後宮のどこよりも洗練された局となった。その華やかさは東宮の女御でありながら帝の中宮である前斎宮をも凌ぐと讃えられるほどだった。明石の方という風雅に長けた後見を持つ明石の女御はほどなく東宮からの寵愛を得た。
夕霧が雲居の雁を正室とし、明石の姫君も入内した今、私は再び出家を考え始めていた。
年が明ければ四十を迎える。二年前、華々しい宴の数々によって祝われた朱雀院と同じよう、冷泉帝をはじめとしてさまざまな人々が私の四十の賀を取り行おうとしている。けれど、贅を尽くした宴に招かれ、華やかな日々を送るより、世俗を捨て静かな時を過ごしたい。
秋、私は臣籍にありながら太政天皇に准ずる位に昇った。私を父と信じる冷泉帝によって与えられた位階は皇籍の最上位である上皇にも准ずる。けれど、あくまでも准ずるものでしかない。
朱雀院は私より先に産まれ、どんな時も私より高い地位にいる。これほどの位階を得ても未だ及ばない。地にある身でどれほど手を伸ばしても月がどこまでも遠いように、私の心もただ一人にはけっして届かない。
私の後任として内大臣の中将が太政大臣に昇格し、栄耀栄華を極めたと私を祝った。
「ただ一つ、高貴な方をお迎えできなかったことを残念に思うよ」
宴の席で酔いに口を滑らせると、太政天皇に准ずる私を取り巻く人々はまだまだこの先いくらでも高貴な姫を迎えられると言い募った。
迎えられるはずなどない。私の望むただ一人は、どんな時も私以上の地位にある。
夕霧は宰相の中将から中納言に進み、亡き大宮と過ごした三条邸へ雲居の雁とともに移った。
神無月の二十日過ぎ、六条院への冷泉帝の行幸が決定した。紅葉の盛りとなる時節であるため帝は風雅を好む朱雀院へ誘いの文を送った。結果として冷泉帝の行幸とともに朱雀院の御幸が決まった。
上皇と今上帝を揃って邸に迎えるなど先々代まで遡っても見当たらぬほどに稀であり、侍従や女房たちは誉れの極みと浮かれ騒いだ。太政天皇に准ずる位よりも一日限りの朱雀院の御幸をうれしく思いながら、私は心を尽くし万全の準備を整えた。
秋晴れのどこまでの済んだ空の下、昼近くに朱雀院と冷泉帝を六条院に迎え、まずは夏の御殿の馬場殿で宮中の菖蒲の節会と寸分違わぬ作法で馬を披露した。春の御殿へ移る渡殿や橋には錦を敷き詰め、絵を描かせた鮮やかな幕を張り、至尊の姿が外から露わにならないように整えた。庭の池には宮中の鵜飼の長と六条院の鵜匠を控えさせ、夏の御殿からの道中の余興とし、秋の御殿の紅葉を見えやすくするため壁さえも迷いなく崩した。
春の御殿の寝殿には朱雀院と冷泉帝の御座所を並べて設け、私の席は一段下としたが、帝の命により同列に直した。院と帝と私が並ぶ、美しいさまは人々が感涙にむせぶほどだった。
趣向を凝らした食事を終えると夕暮れ時となり、私は選りすぐりの楽人たちを召し出した。権勢を誇るような演奏はさせず優美な旋律をほどよく奏でさせ、舞は殿上童たちに任せた。夕風に散らされた紅葉が濃いものも薄いものも舞い散っては降り積もる。錦のように色鮮やかな落ち葉の上で舞手が衣を翻す。見飽きることなどない風景だった。
抜きん出て鮮やかに舞った太政大臣の末子に、帝は衣を褒美として与えた。十ほどの子の代わりに太政大臣が庭に下り、拝礼の舞を舞った。私は手折らせた菊の花を友である太政大臣へ贈り、ともに舞った青海波を懐かしんだ。院はあの頃と変わらない微笑みで私のもてなしを称賛した。
楽を好む院のため、帝は宮中から「宇多の法師」の名を持つ和琴を持参していた。名器として誉れ高いその響きに院が目を細める。
「久しぶりに耳にしたけれど、変わらない音色だね」
帝とともに院も私も琴を奏で、夕霧は横笛を吹いた。管絃の調べに導かれ、階で殿上人たちが歌を謳う。中でも柏木の弟である弁の少将の声が優れて美しかった。
太政天皇に准ずる地位を持ち、後ろ盾となった前斎宮の女御は中宮となり、明石の姫君は東宮の寵愛を受け、夕霧は宰相となり太政大臣の婿でもある。私を取り巻くすべてはどこをとっても眩いほどに輝かしい。
そして、今、私は自らの邸に先の帝と今上を招いている。今宵の私は望月のように何一つ欠けることなく世俗の栄耀栄華の限りを極めている。それでも、この世のすべてを手中にしたかのような今この時も私はただ一人の奏でる音色にだけ耳を澄ましている。
宴の最中、朱雀院の顔に疲れの色を見つけた私は、寝殿の御帳台に新しい褥を引かせ、院に休息を勧めた。御帳台まで付き添い、そのまま傍らに控えていようとしたが「こんな夜に源氏の君を奪っては帝にも皆にも恨まれてしまうよ」と微笑まれ、その場を後にした。
一刻ほどの後、饗宴の席に戻ってきた朱雀院は優れない顔色のまま、「心配をかけてしまったね」と私に微笑みかけた。
歓待の限りを尽くし、私は院と帝を見送った。
たった一つの想いの代わりに、俗世のすべてを手にいれる。それが龍神を父とする私の運命なのかもしれない。そんなことを思いながら、院の香りが残る褥で一人眠った。