十五 梅枝
六条院に移ってほどなく、私は夕顔が内大臣の中将との間に遺した姫を偶然にも見つけ、引き取った。乳母の一家とともに筑紫にまで下りながらも今めいた美貌の玉鬘を求め、多くの上達部たちが足しげく六条へ通ってきた。しばらく世話をした後、父である内大臣の中将に事実を打ち明けた。
「この血を受けた子ながら生きて会うことは叶わぬとばかり思っていたのに、まさかこのような形で会えるとは」
中将は夕顔の死を嘆きながらも我が子との再会を喜び、涙を浮かべながら私の両手を握り感謝の言葉を口にした。
「心よりお礼申し上げます、源氏の院。この恩は決して忘れないとお約束いたします」
兄でもある友に言われ、自然と笑みが浮かぶ。
「忘れてくれていいよ。須磨に来てくれたのは他でもない貴方なのだから」
「友のいない都がひどくつまらなかったからですよ」
屈託なく笑う内大臣に私は玉鬘の裳着の儀式での腰結いの役を委ねた。
玉鬘を通じ養父と実父となった私と内大臣は再び気の置けない友に戻ったが、夕霧と雲居の雁の縁組については互いに歩み寄れずにいた。
長月、弘徽殿の大后が逝った。朱雀院の嘆きは深く一時は病に伏すほどだった。
「母上、母上」
幼子のようにくり返し涙を零すそのさまは痛ましく、ひたすらに愛された院と一族再興のために捧げられたこの身の違いを思い知った。
時の内大臣を父に、太政大臣を後見に持つ玉鬘は、帝から尚侍として仕えるよう求められながらも髭黒の大将の正室となった。
東宮の母である承香殿の女御の兄であり、自らは右大将である上に右大臣を父とし、私としては望ましい相手であった。冷泉帝にはすでに内大臣の中将の姫君が弘徽殿の女御として入内している。玉鬘が尚侍となれば、母の異なる姉妹で帝の寵愛を争う日々を送らなくてはならない。父である内大臣も縁組を望ましいものとして喜んだが、右大将は実直な性格で文武にも優れながらも肌の色が黒く髭もあり雅びとは遠い。美しい公達を見慣れた玉鬘にとっては意に添わぬ結婚であることは容易に見てとれた。しかし、髭黒の正室となり息子を産んだ後、玉鬘は私に一通の文を送ってきた。そこには髭黒の正室が残した二人の息子と産まれてきた子の母として生きていく決意が綴られていた。
今上帝に尚侍として仕え、後宮の華ともてはやされるより、右大将と息子たちのために地に足をつけて生きようとする玉鬘なら、この先もきっと自らの手で幸せを掴んでいけるだろう。
「髭黒に感謝しなくてはいけないな」
本音が零れた。
冷泉帝にはまだ人の親にはなっていない。玉鬘が寵愛を受け皇子が産まれたなら帝は次の東宮にと望んだだろう。だが、私は東宮にこそ皇統を継がせたい。そして、いつの日にか東宮と明石の姫の間に産まれる皇子を高御座へ昇らせたい。
年が明ければ、明石の姫君は十一。十三歳になる東宮は春に元服を控えている。明石の姫君の裳着の儀式はそれよりも少し早く、中宮となる身にふわさしくこの上なく絢爛に執り行う。
来るべき新しい年を必ずや輝かしいものにする。誓いとともに私は三十八の年の瀬を過ごした。
正月の祝い事も落ち着いた睦月(一月)の末、次の弥生に控える明石の姫君の裳儀ために、私は薫き物の調合を始めた。
太宰大弐から献上された異国の香木を確かめてはみたが、やはり古いものには劣る。二条院の倉に収めていた銘木の多くを六条へ運ばせた。私たちが去った二条院の東の対は、夫に先立たれ尼となった空蝉や、亡き常陸の宮の姫宮である末摘花の他、若かりし頃に縁を結んだ女人たちに住まいとして与えていた。使いとした惟光から久方ぶりの訪れかと女人たちが色めいていたと聞き、私は無駄に心を騒がせた詫びとして新しい装束をそれぞれに贈った。
その衣のどれよりも高価で稀少な織物で明石の姫君の身の回りの調度品を仕立てさせた。
香木は今と昔のものをそれぞれ取り合わせ、縁のある人々に配り、調合を任せた。
裳儀の儀式を明日に控えた今日は朝からしとやかな雨が降っている。天からの雫を受ける梅の香りを楽しんでいると、弟皇子である兵部卿の宮が「入内の御準備のお見舞いに」と現れた。
気の置けない相手と紅梅を愛でながらあれこれ語りあう最中、朝顔の姫宮から私宛ての文が届いた。亡き桃園式部卿宮の姫宮である従姉弟と長く文を交わし続けてきたと知る兵部卿の宮が興味を示したが、私は笑顔で打ち消した。
「残念ながら宮がお考えになっていらっしゃるような色めいた文ではありませんよ」
「ですが、一時は正室にとさえお望みになった姫宮でしょう」
楽しげに追求する兵部卿の宮に苦笑する。
聡明で落ち着きがある従姉弟を迎えられれば、この胸に巣食うどうしようもない想いが薄れるかもしれないと考えたこともあった。けれど、年を重ね、私にはもう分かっている。誰にどれほど愛されても、この世のすべてを手に入れても、誰も何もただ一人の代わりにならない。日も月も他には代えられないように私の心はただ一人だけにどうしようもなく揺れては波打つ。私が私でいる限りこの想いは薄れさえしない。
朝顔の姫宮から贈られた沈香の箱には一対の香壺が収められていた。紺瑠璃には五葉の松、色の無い玻璃には梅の花が添えられ、どちらにも丸められた薫香が入っている。
「ご覧のとおり、入内する明石の姫のために薫き物のお願いをしただけですよ」
「残念ながらそのようですね。しかし、さすがに朝顔の姫宮、素晴らしいご趣味でいらっしゃる」
「姫宮の他にもさまざまな方にお願いしているのです。せっかくの雨の湿り、これから宮に香りを聞き比べていただきましょう」
風雅の道に優れる兵部卿の宮は「これは大変な聞き比べになりそうですね」と苦笑しつつ引き受けた。
私の侍従を格段に心惹かれると評し、朝顔の姫宮の黒坊は落ち着いて澄んだ湖面のような静けさがあると讃え、今の季節には紫の上の梅花がこの上もなく素晴らしいと称賛し、花散里の君の荷葉は心がやわらぐと笑みを見せ、明石の方の薫衣香は甘く優美で百ほど歩いた先でも芳香が届くに違いないと賛美した。
「どれもこれもお褒めになって、これでは勝負になりませんね」
軽やかに不満を口にすれば、兵部卿の宮が香炉から手を離し笑う。
「どれもこれも素晴らしく、三十六歌仙のどなたが最も優れているのかを判じるほどに難しかったのですよ」
身分の低い明石の方を見下げもせずに等しく花を持たせる優しさは、兄である朱雀院に似ている。もし院に調合を願えていたなら、どれほど趣味のよい香りを届けてくれたのだろう、薫き物合わせの残り香が馥郁と満ちる邸で私はただ一人の面影を心に描いた。
日の入り時、明日の裳儀に招かれた礼にと内大臣の中将が六条を訪れた。頭の中将である柏木やその弟の弁の少将も連れている。
せっかくなので夏の御殿に花散里を親代わりとして暮らす夕霧も呼び寄せ、管絃の遊びに興じることとした。兵部卿は琵琶、内大臣の中将は和琴、私は筝の琴を奏でた。
冷泉帝とともに朱雀院の御所に参内したあの夜、院が奏でた音色を思い出す。あの妙なる調べは香りと同じように形なく、けれど、今もなお鮮やかに記憶に残る。
弁の少将が催馬楽である梅が枝を見事に謳い、私や兵部卿も歌声を添えた。とりたてて用意はしていなかったが、すばらしい管絃の夜となった。
明けて十二日の夜半、秋の御殿の西の対に里下がりしていた前斎宮の中宮を腰結い役とし明石の姫君の裳儀の儀式を行った。
揺らぐ灯火の中で粛々と進んでいく華やかで晴れやかなその場に、私は明石の方を迎えなかった。身分の低い母は子どもの行く末の枷となる。身の程を知る明石の方は何一つ不平を口にせず、私も慰めはしなかった。
同じ月の二十日過ぎ、東宮の元服が行われた。十三歳という年齢以上に大人びて、朱雀院に似ながらも父よりも凛とした顔立ちはこのまま帝位を得ても不足はないと思わせる。
「東宮は私よりずっと強いよ。まだ五つにもならない頃に父上は私が守りますからご安心くださいませと言ってくれたことがあってね」
苦笑混じりに語っていた院の声が蘇った。
大人として認められた東宮に公卿や親王たちはそれぞれ自慢の姫を献上したいと願いながらも明石の姫君にかける私の思い入れが尋常でないために躊躇していると聞き、私は姫を春の終わりまで六条院に留めることとした。
東宮の後宮では花々が咲き乱れるように多くの美姫たちが寵愛を競うべきだ。数ある中で選ばれてこそ意味がある。
朱雀帝の後宮に中宮は立たなかった。藤壺の女御は姫宮でありながら右大臣家を後見とする尚侍の影となり、尚侍である朧月夜の君は寵愛を受けながら私のために女御にさえなれなかった。せめて院が慈しむ東宮の後宮を美しい姫君で彩りたい。
左大臣の三の姫が麗景殿に入り、続いて入内する明石の姫君は淑景舎を賜ると定まった。母亡き後、宿直所としていたその殿舎を私は心を尽くして整えた。調度の一つ一つを確かめ、財を惜しまず名工たちに腕を揮わせ、草子の箱に入れる綴じ本も、姫君の習字の手本となるような書を選び抜き、自ら筆も取った。
入内を控え華やぐ明石の姫君とは対照的に、兄である夕霧は宰相の中将に昇ったものの未だに雲居の雁を得られず沈みがちな日々を過ごしていた。
私としては従姉弟として大宮の手許でともに育ち、互いに惹かれあう様子に反対する気持ちもなく見守ってきたにも関わらず、内大臣側から一方的に引き裂かれたとの思いがある。夕霧のためにならこちらから歩み寄っても構わないが、もし正式に断りを返されれば、望みが完全に断たれてしまう。大宮も亡き 今、よい仲介者もいない。
春半ばのある夜、私は夏の御殿に渡り、夕霧と対面した。
「内大臣の姫が難しいのであれば、右大臣や中務の宮から内々にお話も頂戴しているから、考えてみてはどうだ」
問えば、眉を寄せ黙り込む。十八という年齢にしては思慮分别があり落ち着いていると認められてもいるが、親から見ればまだ子どもだ。どこか途方に暮れたような表情は幼い頃と変わらない。
「諦められないか」
「自分でもどうしてこれほどにと思ったりもするのですが、やはり……」
先の太政大臣を祖父に、当代の太政大臣である私を父に持ち、今上帝の覚えもめでたく望みさえすれば姫宮さえも得られる身でありながら、内大臣の姫を願うばかりにつらい思いをしている。哀れな子にため息が零れる。
「困ったことだね。とは言え、私も父院にいくらお諭しいただいても、なかなかご意向に沿えなかったから、あまり強く言える身ではないけれど。それでも、いつまでも独りでいるのもよくはないからね。例え、望みどおりではない相手であっても心を尽くすことが大切なのだよ。……誰もが皆、最も想うただ一人と結ばれるとは限らないのだから」
「はい」
殊勝に頷く姿が痛々しい。
自らにとってのたった一人。この世にあまたいる人々の誰一人として代わりにはならない人、心を捧げずにはいられぬ相手に出逢えることは幸福なのか不幸なのか。
ただ一つの想いを手放せない。そんなところが父と子でよく似ている。苦い思いを抱えたまま目を伏せれば、まぶたの裏にただ一人の微笑みが浮かぶ。
もしかしたら、私や夕霧以外の人々も誰もが皆、想わずにはいられない唯一を持つのだろうか。だとすれば、この世は届かない心で満ちている。それはひどく悲しく思われた。