十三 薄雲
冬になり、大堰川に面した邸は指先に痛みを覚えるほどに冷え込む。明石の海辺とは違い、京の外れにあるこの場所は山々に囲まれ、凍てつくほどの寒さに満ちている。火桶を側に寄せ、明石の方と向かいあう。
「こちらは川沿いでひどく冷える。二条のあたりなら少しは寒さもやわらぐだろう。移ってはもらえないか」
「お気持ちはありがたく、うれしくも存じます。ですが、鄙びた地で身分なき者として生まれ育ちましたこの身には二条のお邸はあまりに華やかで気後れがいたします」
俯きがちに返された言葉に胸中で息をつく。将来の東宮妃をいつまでもこんな山裾に置いてはおけない。私は決意とともに口を開いた。
「姫は内大臣である私の子として袴着などもきちんと行いたい。姫だけでも先に二条に迎えたいと思う」
言えば、見えない何かで打たれたかのように明石の方が顔を上げた。愛しい我が子を奪い去ろうとする私に、しかし、身の程を知る明石の方は悲しみも憤りも表わさず、ただ口唇を噛み締める。しばらく眼差しを重ねた後、明石の方は私から視線を外し、俯いた。
「……わたくしの父母は卑しい出自ではございませんが、今は身分さえ持たぬ身の上。そのような者の娘であるわたくしが母であることは姫のためにはならない、それはよく存じております。紫の上さまは兵部卿の宮さまの姫君さま。どちらを母とするのが姫にとっての幸せであるかは明らかなことでございます。ですが、……ですが」
白い指先が握り締められる。
「いえ、やはりお連れくださいませ。源氏の君さまと紫の上さまの御子としていただけるのであれば、姫にとってどれほどの幸いでございましょう」
震える声で言い切り、明石の方は顔を上げた。涙を堪え、凍てつく冬に咲く水仙のように凛とした微笑みを刻む。その高貴なさまは帝の姫宮にも劣らない。
「離れていても産みの母があなたであることに変わりはない。いつの日か必ず姫に会わせると約束しよう」
誓って、私は明石の姫君を二条院へ連れ去った。
姫の乳母も二条に移した上に、紫の上の女房たちはよく心得た者ばかりでもあり、姫は新しい暮らしにほどなく馴染んだ。
年の暮れが近付く中、私は姫の御袴の儀を行った。慣習に従い碁盤の上から勢いよく降りるさまも愛らしく、人々から祝辞を受けながら私は明石の方の痛みを思った。
新しい年を迎え、私は三十二を数えた。
正月の華やぎも落ち着かぬうちに、亡き葵の父である太政大臣が逝った。血のつながりはなくとも葵の歿後も私を気づかってくれた大切な父だった。
重臣を喪い悲しむ冷泉帝と同じように、朱雀の院も太政大臣を深く悼んだ。
「人柄も優れ、政にも長けていたから残念だよ。それでも、埋もれたままではなく太政大臣として送れることをありがたいと思わなくてはね。内裏の柱石を失って、この先、源氏の君もさらに忙しくなるのだろうね。どうか無理なく勤めてほしい」
院は言って、今以上の重責を担うだろう私の身を案じた。
太政大臣の死と前後して、太陽や月の姿が異様なものに変わり、疫病が流行した。
私は一人、二条院の南庭で空を見上げる。夕暮れには早いが、血のように赤い星がいくつも輝き、生温かい風が頬を撫でる。梅の香りを運ぶ春風ではなく人肌を思わせる不快な風。
「帝を父としない今上に、今さら天の怒りか」
問えば、凍てついた泉のような薫衣香が薫る。
振り向くと隻眼の公達が立っている。人の世を嘲笑うように細められた金色の目。臣下に下ったあの日から何度も会った。私は子どもから大人になり子の親ともなったが、神の姿は変わらず若々しい。三十を過ぎた今では私の方が年嵩に見えるかもしれない。
「桜襲とは雅びだな」
太政大臣の喪のために薄墨をまとった私とは対照的に、龍神の直衣は蘇芳に雪の色を重ねた淡い紅。春そのもののような衣に白い肌がよく映える。
「お前から褒められるとはめずらしい。礼に一つ教えよう。今上の母は、自らの命と引き換えに天変地異を鎮めたいと願っている」
どんな変異も流行り病も止まぬ雨がないようにいつかは鎮まる。藤壺の女院にもそれは分かっているのだろうが、政の要である太政大臣を失くした今、これ以上の変事が続けば帝は譲位を迫られる。冷泉帝はまだ子に恵まれていない。譲位の後に生まれた皇子は東宮に立てないという不文律があるため皇子が生まれるまでは帝の位に留めておきたいのだろう。
「愚かだな」
言えば、人ではない父が笑う。
「姿形だけでなく、その内までもお前の母によく似ている」
帝の寵愛を受けながら神の血を求めた更衣と女御をどう思うのか、それを聞く前に龍神は消えた。
その夜、藤壺の女院は病に倒れた。病状は日に日に重くなり、弥生(三月)には冷泉帝が三条邸へ行幸を行った。内裏へ還御した帝は涙をこらえながら、女院が大厄となる三十七歳であるため、これも定めと覚悟を決めていたと私に語った。
痩せ衰えた指先で帝の頬を撫で、
「主上に罪などないことは存じております。ですが、この世に生きる限り気づかぬうちに得る小さな罪もございましょう。けれど、どうかご安心なさいませ。主上の罪のすべてはわたくしが彼岸へ持って参ります。……どうか御代の幾久しく弥栄と続きますように」
そう言ったと聞いた。
行幸の翌日、私は招かれ、藤壺の女院のもとを訪れた。伏せた女院のすぐ近くに置かれた几帳の前に座せば、薄絹の向こうから苦しげでありながらも毅然とした声が届く。
「わたくしは姫宮として生を受け、中宮となり、国母、女院とまでなりました。これまでの日々の何一つとしてわたくしは悔いてはおりません。帝はわたくしの命。守るためになら地獄の業火にも焼かれましょう」
「命を差し出さずとも、流行り病も天変地異もいずれは治まるものでございます」
「太政大臣亡き今、いつかを待ってはいられません。貴方はわたくしを愚かだとお思いでしょう。でも、願いを叶えるのは命ではありません。自らのすべてと引き換えにしてもと願う、それほどに揺るぎない思いこそが願いを現へ変えるのです。人の強い思いは天さえも動かし得ると、わたくしは信じます」
母は強い、そう思った。
桜の盛りに藤壺の院は崩御した。時を同じくして、太陽も月も健やかな姿を取り戻し、流行り病も消えた。その死と引き換えに世を救ったとして人々は手厚く藤壺の女院を弔った。
太政大臣と藤壺の女院のために宮中は喪の墨色に染まった。そんな中、藤壺の女院の異母妹である藤壺の女御も逝った。もともと丈夫な質ではない女御は病を得て幾日も過ぎぬうちに六歳の姫宮を遺して儚くなった。
弔辞のために院参すれば、朱雀院は喪の衣の袖で涙を拭いながら私を迎えた。
「わたしとしては尚侍に劣らぬほどに大切にしていたつもりだったが、皇統を引く女御でありながら中宮にも立てられず、憐れなことをした。母を亡くした三の宮の幼さを見るほどに悲しみが募るよ」
壮年と呼べる年にも関わらず寵妃を悼む姿は世の穢れを知らぬ若者のような清らかさに満ち、絵のように美しい。
私が死んだら院はどれほど悲しむのだろう。叶うなら、二度と笑えないほどに深く嘆いてほしい。
院を喪った時、どれほど取り乱すのかは私には分からない。ただ一つ、院が逝ったのなら必ず後を追うと決めている。院は私より先に生まれた。死に遅れるくらいならいっそ先に逝きたい。
藤壺の女院の四十九日が過ぎた頃、私は冷泉帝に召され、内裏に赴いた。女房たちを遠ざけ、御簾の内で向かいあう。服喪のため墨染めの衣を纏った帝は少年のやわらかさを残す頬を強張らせている。
「母上に長く仕えた僧都から聞いた。私の父は誰よりも美しく優れていながら帝位を得られなかった。だからこそ、母上は私には帝として輝かしい御代を築き、私の子に皇統をつなげてほしいと願っていたと。母上からは他言無用と固く口止めされていたそうだが、僧都は私が不敬の罪を重ねてはいけないからと話してくれた」
母の代から加持祈祷を頼み聖と名高い僧都に藤壺の女院は生涯でただ一つの恋を打ち明け、僧都は冷泉帝が何も知らぬまま父である私を臣下として処す罪を憂い、事実を奏上した。
死の床にありながら、藤壺の女院は帝の父は龍神ではなく私だと偽った。帝の姿は日に日に私に似てきている。そのうちに疑念を抱かないとも限らない。それに備え、あらかじめ僧都に父は内大臣だと伝えておけば、藤壺の女院が遺した虚言が帝にとっての真になる。父である私の分まで冷泉帝が天位に執着し皇子を得て東宮として立てるよう導くための偽り。
亡き母の虚偽を信じる帝は、私と同じく龍神を父とする。桐壺帝には十人の皇子がいるが、私にとって弟と呼べるのは冷泉帝だけ。
「どうか、私に真実を与えてほしい」
年若い帝は縋るように私を見つめている。
「……夏の夜、三条で藤壺さまにお会いいたしました」
国母となるため人ならざるものと交わった真実よりも、禁じられても断ち切れない想いゆえに産まれたという虚偽を、私は異母弟のために選んだ。
覚悟はできていたのだろうが、それでも今上は端正な顔を驚きに染めた。
「……そうか」
目を伏せ、少し一人で考えたいと続けた帝を残し、私は淑景舎へ戻った。
春の終わりに亡き桐壺帝の弟、桃園式部卿の宮が薨去した。式部卿を父とする朝顔の姫宮は冷泉帝の即位に際し賀茂の斎院となり、冷泉帝の御代になっても引き続き任を果たしていたが、父の喪に服すため役を譲った。神へ仕える者から幼なじみへと戻った姫宮に私は弔慰の文を書き送った。
太政大臣、藤壺の女院、藤壺の女御、式部卿の宮を見送った春が行き、夏も過ぎた。
秋の司召除目も終わった数日後、私は朱雀院に管絃の遊びに招かれた。院の和琴に横笛を合わせる。幾つかの曲を奏でた後、院は弦に手を添えたまま口を開いた。
「太政大臣にと推挙されながら辞退したそうだね、帝がお嘆きになっていらしたよ」
「私には過ぎたものですので官位は辞退いたしましたが、位階はいただきました」
太政大臣の位階は従一位。牛車に乗ったままで内裏の門を行き来できる高位も上皇である院とは比べものにならない。
冷泉帝は内々に私への譲位を望み、一世源氏が皇籍を奪還し天位に昇った例を古い書物の中から幾つも探し出していた。私への譲位を望む気持ちは強く、幾度も懇願されたが、私は固辞していた。冷泉帝の後を継ぐのは、東宮である朱雀院の皇子でなくてはならない。臣下の中で最上である太政大臣の地位は皇籍復帰の足がかりとなってしまう。帝の意向のすべてを拒むことは難しいため、官位は受けず相当する位階だけを自らのものとした。
「権中納言の中将は大納言に昇格し右大将も兼務したと言うのに、源氏の君は相変わらず欲がないね」
苦笑して、白い指で琴の弦を手遊びに爪弾く。
「そろそろ梅壺の女御も里下がりなどしてもいい頃だろう。六条の邸には今はもう住む者もないと聞く。二条に迎えてほしい」
指を止め、院は微笑みとともに言った。それは喪に服す宮中で固苦しい日々を送っている前斎宮への気づかいであり、同時に私への配慮でもあった。弘徽殿の女御と並び重んじられている帝の寵妃の里内裏となれば二条院の格はこの上なく高められる。
「心してお迎えいたします」
心配りに私は深く頭を下げた。
ほどなく、私はこの上なく豪奢に設えた二条院の寝殿に前斎宮の女御を迎えた。
秋の長雨が植え込みの草花へと降り注ぐ。どこか物悲しくも心惹かれる風情に亡き御息所を思い出しながら、前斎宮の女御と御簾越しに向かいあう。
「心尽くしのお持て成しをいただき、感謝いたします」
女御は女房を介さず直々に私に声をかけた。可憐な声の音。朱雀院が今もなお心にかける女御とはどれほどの女人なのか。いっそ朧月夜の君のように奪ってしまおうか。徒めいた気持ちが浮かび、胸のうちで自嘲する。そのような真似できるはずもない。位を降り、ようやく得た安らかな日々を大切にしている院の心を乱したくはない。
つれづれと言葉を交わす中、春と秋のどちらを好むかを問えば、
「春は美しいけれど、わたくしには母を失くした秋がより一層、心に近しく感じます」
静かに返された。
華やかな宮廷で女御として暮らしながらも人々が浮かれ騒ぐ春ではなく物悲しくもある秋を好む。慎ましやかな優しさを持つ姫宮は入内していなければ院から寵愛を受けたに違いない。
前斎宮からの櫛のかけらを院は今もきっと大切にしているのだろう、私がひとひらの紅葉を至上のものとしているように。
もの思いを抱えたまま西の対へ戻ったが、奥へ足を進めるのさえ面倒に感じ、廂の端近で高欄にもたれた。火を灯した釣灯籠を遠くの軒に掛けさせ、夜へと向かう秋の庭へ視線を投げる。叶わぬ願いを抱え足掻き続けた徒労の日々を振り返れば、拭いきれない疲弊を感じる。
大納言と右大将を兼務している中将は太政大臣であった亡き父から政の才を引き継いでいる。そう遠くないうちに中将が大臣の位を得るだろう、その時には中将に政を委ね、一線を退きたい。すぐに出家はできなくてもただ一人のために祈る静かな日々を送りたい。
東宮の御代を支えたい思いに変わりはないが、東宮には母方の祖父と伯父という後見だけでなく、父方の祖母である弘徽殿の大后は未だ健在であり、その妹は大納言の中将の正室でもある。これまでのどの帝よりも確かな後ろ盾に恵まれ、まだ幼くはあるが東宮自身の資質も十分に優れている。即位の前から御代の栄華は約束されている。
院は上皇であり、いずれは今上帝の父となる。私が支えなどなくとも先行きに不安はない。
あり余るほどに与えられた天賦の才を、どうしてただ一人のために活かせなかったのか、今さら悔やんでみても過ぎた日々を取り戻せるはずもない。私は目を閉じた。