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源氏秘恋  作者: 世宇
11/22

十一 絵合

 朱雀院を慮り動けずにいるうちに秋が過ぎた。冬が深まると藤壺の女院は春には前斎宮を入内させたいと幾度も私をせき立てた。日参する使者をあしらううちに桜が散り、夏も終わり、いつしか虫の音を愛でる季節となった。

 晩秋の頃、召されて院参すると、朱雀院は木々が色づいた葉を散らす庭を眺めていた。優美な横顔を晒し、

「前斎宮が帝に入内すれば、亡き御息所へのいい供養になるだろう」

 独り言のように口にした。

 おそらくは藤壺の女院の意向を耳にしたのだろう。もしかしたら女院が意図して院の耳に入れるように仕向けたのかもしれない。

 何も返せずにいる私へと顔を向け、小さく微笑む。

「わたしの御代を斎宮として支えてくれた姫宮の幸せを願っているよ」

 恨みも憎しみもない笑みに、私は目を伏せた。


 年が明け、三十一歳となった私は六条の御息所の遺志を継ぎ、藤壺の女院の意向を汲んだ形で、前斎宮の姫宮の入内の準備を進め始めた。冷泉帝は十三歳、権中納言の中将の姫である弘徽殿の女御は十四歳。前斎宮の姫宮は二十二歳を数えていた。

 前斎宮はすでに父である東宮も母である御息所も喪っている。本来であれば、後見である私の自邸に迎えるべきであり、藤壺の女院も強くそれを望んでいた。しかし、私は院に厭われたくなかった。二条院に迎え名実とともに父代わりとなれば、帝への入内は私の意思により行われることになってしまう。

 私は院の願いを知りながら、藤壺の女院と謀り冷泉帝への入内を進め、院から前斎宮を奪った。自らが招いたことだと分かっていても、院が誰かを厭うことはないと知ってはいても、私は姫宮を六条の邸に留め置いた。

 姫宮に仕える女房たちに確かめると、院からの文はすでに途絶えているらしい。

 私は入内の準備に追われる身を言い訳に院参せず六条へ通った。周囲は前斎宮の入内に沸き立っていたが、私の心は晴れやかさとは遠くあった。


 内裏へ向かうその日、女御となる前斎宮の姫君へ朱雀院から心尽くしの祝いが届けられたと聞き、私は六条邸へ急いだ。

 姫宮と御簾越しに向かいあう私の前には、竜宮の宝物もかくやと思わせる品々が並んでいる。美しく贅をこらした装束、見事な細工が施された櫛箱、満天の星のように宝玉が散りばめられた香壺(こうご)の箱。螺鈿に蒔絵、唐の綾織物の数も限りない。先の帝であり、今は上皇となったその身が有する力のすべてを注ぎこんだような調度の数々。院の命を受けて作られただろうそれらは絢爛でありながら品よく優美なものばかり。中でも手ずから調合したのか薫衣香が素晴らしく、百歩離れた先でも薫るだろうと確信させる。私へのあてつけではない。ただどこまでも純粋に姫宮を想い、時間と手間と、この上ない財をかけて誂えた品々。

 これほどにまでに院は姫宮を想っていたのか。

 櫛箱の一つを手に取れば、蒔絵も美しいそれは中宮が持つほどの逸品だ。蓋を開ければ、中に収められた挿櫛(さしぐし)の箱の飾り花に薄紅の文が結んである。初めて逢った日、斎宮となる姫宮の髪に櫛を挿し、慣わしどおり京に戻らぬようにと口にした。その言葉を神が聞き届け、遠く隔たってしまったのかと嘆く歌の手蹟も見事なまでに美しい。

 自らのもとへ迎えられなかったことを惜しみながらも、心を尽くしこれほどの調度を整える。その優しさこそが私を悔やませる。どうして感情のままにあの人を傷つけるような振る舞いをしたのか。もし逆の立場であったなら、あの人は私の想いを遮るような真似はしないに違いないのに。

「お返事をお書きなさい、これほどのお心を頂戴しているのだから」

 御簾の内の前斎宮に伝え、院からの使いの者たちに充分な褒美を与え、帝と斎宮として一度きりの邂逅に終わった宿縁が悲しいと嘆く返歌を託した。院の御所へ戻る使者たちを送り出し、一つ息をつく。

 凛々しさよりも優美が勝る院の姿を想う。三十四歳の朱雀院と、母である御息所以上に麗しいと伝え聞く二十二歳の前斎宮の姫宮となら、さぞ似合いだろう。冷泉帝は利発で大人びているとは言え十三歳。どちらが望ましいかなど明白であるのに、どうしてこのような行いをしてしまったのか。深く悔いたところで今さら取り止められるはずもない。

 自責の念を抱えながらも以前から親しくしている修理職(すりしき)に、入内に際しての一つ一つを詳細に命じ、私はいつもどおりの参内を装い、前斎宮より先に内裏に向かった。

 その夜、前斎宮は冷泉帝のもとへ女御として入内した。


 前斎宮の入内から半月ほどの時を置き、私は朱雀院のもとへ院参した。院は変わらぬ微笑みで私を迎え、さまざまに語りあった後、梅壺の呼び名を持つ凝花舎(ぎょうかしゃ)を局として賜った前斎宮について口にした。

「伊勢への下る前の姫宮はとても美しくて何よりとても清らかだった。梅壺の女御として幸せになってほしいと願っているよ」

 誰も憎まず前斎宮の幸福だけを祈る言葉に嘘はないのだろう。誰かを傷つけるぐらいなら諦めを選ぶ人。もし私が院の想いを叶えていたなら、今どれほどの微笑みを目にできていたのか。譲位後の平穏な日々、容色と血筋を兼ね備え、母である御息所から確かな教養と風雅を伝えられた前斎宮の姫宮はどれほど院のなぐさめとなっただろうか。

「帝と同じように梅壺の女御も絵を好むそうだね。源氏の君も幼い時から絵を好んでいて、わたしにも贈ってくれたね。今も大切にしているよ」

「子どものつたない手でございますので」

「源氏の君にそんな風に言われては画所の者たちが困ってしまうよ」

 笑みはやわらかで、だからこそ私に鋭い痛みをもたらした。


 前斎宮の入内の後も冷泉帝は年の近い弘徽殿の女御をより多く召していたが、梅壺に迎えた前斎宮の女御が絵を好むと知ると梅壺への渡りも増え始めた。

 弘徽殿の女御の父である中将がこれを快く思っていないことは明らかで優れた絵師たちに物語絵などを描かせては帝を弘徽殿へ取り戻そうと必死になっているらしい。

 太政大臣を祖父に持つ弘徽殿の女御と亡き東宮の姫宮である梅壺の女御、帝の寵愛をめぐり争う二人の姫に仕える女房たちは秘蔵の絵巻を見比べる勝負事に熱中し、遂には冷泉帝の御前で絵合わせが開かれることとなった。

 二条院に前斎宮を迎えなかった私は表立って梅壺の女御の後押しはできない。しかし、私の助けなしで後見に恵まれた弘徽殿の女御に勝てるはずもない。

 絵合わせの日が近付き、どう処すべきかを悩んでいると、朱雀院の御所へ召された。

 主殿の御座所で脇息にもたれ、院は寛いだ笑みで私を迎えた。

「忙しいのに、呼び出して悪かったね」

「いえ、この時期は節会などもありませんので」

 言えば、「弥生の頃は内裏も穏やかでいいね」と笑みを深め、脇息から身を起こした。

「これを梅壺の女御に渡してほしい」

 言葉とともに幾つかの絵巻を託された。どれも見事な品だった。宮中の行事を名高い絵師に描かせ、延喜帝の手が説明を加えたものの他に、院が帝であった頃の出来事が描かれた絵巻もあり、そこには前斎宮の女御が伊勢に下る際、御所の大極殿(だいごくでん)で行われた儀式の様子が比類なき絵筆で描かれている。

「これは公茂(きんもち)でございましょうか」

 当代一と名高い絵師の名を口にすれば、誇る様子もなく頷く。

「構図などはこちらで考えて誂えたものだよ。梅壺の女御には、神のもとへと出向く清らかな姿は今もこの絵のようにわたしの心に鮮やかに残っていると伝えてほしい」

 言って、私をまっすぐに見る。憤りのかけらもないただ静かな眼差し。

「源氏の君もどうか梅壺の女御に力添え願いたい」

 それは許しだった。院の想いを知りながら冷泉帝に入内させた私への許しの言葉だった。

「もちろん弘徽殿の女御にもいくつか譲るつもりだよ。けれど、あちらには太政大臣も権中納言もついているからね」

 弘徽殿の女御の母は権中納言の中将の正室であり弘徽殿の大后の妹でもある。叔母にあたる朧月夜の君は物語絵に心得があり、代々伝えられた家宝とも呼べる絵巻の幾つかを姪である弘徽殿の女御に譲ったと聞いている。女御の父である中将は都の名のある絵師を残らず集めるほどの意気込みでいるらしい。「何としても我が女御に勝利を」と息巻いている様子だが、私はどんな絵巻にも決して負けないものを有している。けれど、それを人目に晒せば院を傷つけるかもしれない。

 須磨にいた頃、都の帝への想いのままに筆を走らせた絵。京を追われ、鄙びた地で海や浜辺を描き、和歌などを書き加えた絵巻は、美しく華やかな絵の中で異彩を放ち、前斎宮の女御に勝利をもたらすに違いない。

「……須磨にいた頃、絵筆を握っておりました」

 言えば、それだけで理解したのだろう。わずかに息を呑むような気配の後、院は目許をやわらげた。

「源氏の君が描いた須磨の絵巻ならば、見るべき価値のあるものだろう。絵合わせの後はわたしにも見せてほしい」

 須磨の絵巻の披露を許すのは寛容な院らしいが、まさかその目に入れようとするとは思わなかった。驚きに返す言葉が遅れた私に、ただ一人が笑みを深める。

「他の誰よりもわたしこそが見るべき絵だと思うから、ぜひ見せてほしい」

 かつて弘徽殿の大后が口にしたとおり帝の寵妃である尚侍との密通は明らかに私の罪だった。罪には罰が与えられ、私は須磨に下った。

 帝であった院が命じたわけではない。それでも、心優しい人は自らそれを罪として捉え、言い逃れもせずに向きあっている。崇高とも言えるほどにまっすぐな心。私にはけっして持ち得ないからこそ惹かれてやまない。

「絵合わせの後、院のお手許に置かせていただけましたら幸いでございます」

「生涯、大切にすると誓うよ」 

 想いは伝えられなくてもこの心を注いだ絵だけでも届くのなら、充分に幸福なのだろう。


 朱雀院からの絵巻は繊細な透かし彫りが施された沈香の箱に収められ、同じく沈香で作られた飾り花を添え、この上なく優雅な贈り物として院の側近である左近の中将により前斎宮の女御へと届けられた。文はなく、代わりに大極殿での儀式を神々しく描いた絵に、過ぎた日を懐かしむ歌が一首、院の筆で添えられていた。

 前斎宮は、過ぎた日に戻れぬ身を嘆き朱雀帝のために斎宮として務めを果たしていた日々を恋しく思うとの歌を綴り、別れの櫛の端を折り、薄藍の唐紙に包み、院へ送った。

 前斎宮に仕える女房からその返歌を聞き、私は姫宮の想いの先を知った。京を離れる身を惜しみ涙した若く優美な帝。その面影は伊勢に下った後も斎宮の心にあり続けたのか。

 私は私の身勝手により結ばれるべき二人を引き裂いた、どこかで分かっていたはずの事実がひどく苦い。


 後日、催された絵合わせの最後に私は須磨の絵巻を披露し、前斎宮の女御に勝利をもたらした。「さすがは源氏の君」とほめそやす人々の中、私は出家を考え始めていた。神も仏も信じていないが、ただ一人のために祈りを捧げる日々を送りたい。そう強く願うようになっていた。

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