十 澪標
「貴方に加持祈祷ができたなんて知らなかったわ」
朧月夜の君がそう口にするほど、私の帰京の後、帝の病状は日ごとに軽くなっていった。
弘徽殿の大后の病も癒えたが、もう若くはない。祖父である太政大臣も喪い、帝は誰よりも私を頼るようになっていた。政だけでなく日常の些細なことさえ私に委ね、甘えてくる。
「源氏の君はどんな願いも叶えてくれる。まるで心強い兄を持ったようだよ」
邪気もなく、そんなことさえ口にする。光を取り戻した瞳には私への信頼ばかりがあふれていた。
ただ一人のために身を尽くす幸福な秋が過ぎ、冬を迎えた。帝の後宮では承香殿の女御の第一皇子に続き、四人の姫宮が産まれている。尚侍の権勢には劣るものの藤壺の女御も三の姫宮の母となった。
「東宮への譲位を考えたい」
雪に染まった庭を眺めながら帝は小さく言った。冷えた空気に晒された横顔、頬が強張っているのが見てとれた。人払いをした時から予見できていたので驚きはない。
「ご病気もよくなられ残念に思う者も多いでしょうが、私は主上のお気持ちのままになさるのがよろしいかと存じます」
言えば、薄い肩から力が抜けた。帝はこちらを振り向き、薄い口唇に曲線を描く。
「ありがとう、源氏の君。東宮は源氏の君に似て多くの才に恵まれている。きっといい世を築くだろう。どうか東宮の力になってほしい」
藤壺の女院の罪も知らず、母の異なる弟を気づかう心に深く頷く。
「必ず。ですが、譲位の後も、私は今と変わらず心より主上にお仕えしたく思います」
「その気持ちをうれしくも、ありがたくも思うよ。思うままにならない月日もあったけれど源氏の君を後見に帝位に立てた日々を幸せに思う」
皇子として生まれた者なら誰もが望み欲する天位をこれほどまでに未練なく手離せる。東宮はまだ十歳、元服さえしていない。帝は権大納言である私を後ろ盾とし、弘徽殿の大后に縁の者たちだけではく、第一皇子の祖父である右大臣や宰相である中将にも認められている。望みさえすれば、このまま在位し続けることは容易いにも関わらず、雪の庭へと向けられる横顔に至尊の位への執心はかけらもない。
「帝とは国と民にすべてを捧げて生きる者。帝のために民が生きるのではなく民のために生きる帝こそがあるべき姿。心のすべてで民のために祈る者こそがふさわしい。東宮ならばきっと解してくれるはずだ」
迷いなく言い切り、笑みを深める。気高く晴れやかな微笑みが眩しい。
何も知らない人々は、明石から戻った私がすべてを取り戻し京にいた頃以上の栄華を手に入れたともてはやす。けれど、違う。生まれながらにすべてを手にしていたのは、目の前で微笑むただ一人。帝である父も女御である母も確かな後ろ盾となる祖父も。
求める前に貴方にはすべて与えられる。だから、貴方は誰かを憎まず、妬みさえも知らないままでいられる。この世が貴方に優しいから、貴方はいつの時も優しくいられる。そう告げたなら、この優しい人はどんな顔を見せるのだろう。涙を零すだろうか。それとも、すでに知っていたと諦めたように微笑むのだろうか、泣き出しそうな顔で。
年が明け、藤壺の女院の皇子である東宮が十一歳で元服した。私に生き映しだと言われる弟皇子へ、帝は帝位を得る者の心構えについて慈しみ深く解き聞かせた。
「東宮は本当に源氏の君に似ている。まさに光の君だよ。そんな東宮に位を譲れることをうれしく思う」
安堵に満ちた笑みにその身に至上の位をどれほど重く感じていたのかを今さら知った。
朱雀帝が二十四歳で高御座に昇った春から八年が過ぎた。その御代へのはなむけのように桜が咲き誇るその日、帝は譲位し上皇となった。
藤壺の女院の皇子である東宮が冷泉帝として即位し、次代の東宮には朱雀院となる先帝の第一皇子が立った。母である承香殿の女御は、右大臣を父に、髭黒と呼ばれる右大将を兄に持ち、後ろ盾に不足はない。
私は権大納言から内大臣に昇進した。左大臣も右大臣もしかるべき者が就いており、左右一人ずつの大臣に私を加えるための員外の官職ではあったが、同じだけの実権を与えられた。
周囲の勧めのままに摂政となり年若い冷泉帝に代わり政を掌握することも容易くはあったが、私は自らの代わりに亡き葵の父である先々代の左大臣を推挙した。右大臣と弘徽殿の大后の世を厭い、位を返上し「致仕の大臣」と呼ばれていた義父は高齢を理由に拒んでいたが、私の説得により太政大臣に返り咲いた。
「太政大臣は源氏の君のような婿を持って幸せだね。より高い位を望む者は多いのに自ら譲るとは、なかなかできることではないよ」
人々と同じように朱雀院は私の行いを称賛したが、すべては私のためだ。私は冷泉帝よりも院の第一皇子である東宮の後ろ盾となりたい。何より心から信頼していた左大臣を自らの世で無位の者としたことは位を譲り太政天皇となる朱雀院にとって御代の中での大きな悔いの一つ。左大臣が太政大臣として再起することで院の痛みがやわらぐなら、摂政に未練などない。
宰相の中将も権中納言へ昇進し、自らの治世で取り立てられなかった才ある者たちの栄華を、院は我がことのように喜んでいた。
譲位にともない、朱雀院は弘徽殿の大后の他、女御、更衣を連れ、院の御所へ移った。 東宮の母となった承香殿の女御だけが内裏に残った。
弘徽殿の大后にとっては前触れのない譲位ではあったが、帝は戸惑いを見せる母后を、
「位を譲り、これからは母と子として心安らかな時をご一緒したいと願っています」
そう言ってなだめ、納得させた。
妹である朧月夜の君からは、弘徽殿の大后は譲位を惜しみながらも、母として子を取り戻したような気持ちを抱いていると聞いた。これまではずっと我が子である前に東宮であり帝だったのだろう。子がどんな地位であっても何一つ変わらない母としての情愛は、与えられたことのない私にはどこか眩しくもある。
芍薬を思わせる華やかな笑みで、
「わたしは主上の尚侍だもの、他の帝の尚侍にはなりたくないわ」
朧月夜の君は私宛の文にそう綴り、尚侍の位を自ら譲ると朱雀院につき従い後宮を後にした。
譲位から数日が過ぎた春のさなか、私と権中納言の中将は御布衣始の儀式に列席するため、朱雀院の御所へ院参した。
帝と東宮が日々を送る内裏では元服を済ませた者は誰であっても冠をつける定め。狩衣での参内も身分の低い一部の武官以外は許されないため、帝と東宮にとって烏帽子と狩衣は縁遠いものとなる。朱雀院は元服を前に東宮として立ち、元服の後は冠をつけ直衣を纏い、御所の中で日々を過ごしてきた。
譲位の後、烏帽子と狩衣を初めて身につける儀式、御布衣始と呼ばれるそれに私たちは召されていた。
烏帽子をつけ、薄青の単に真白い狩衣を身につけた院が微笑む。
「着慣れていないから、なんだか不思議な気持ちだよ」
かすかに頬を染め微笑む姿に、元服を祝ったあの日を思い出す。
「澄んだ水のように清らかにお美しく、よくお似合いでいらっしゃいます」
鷹狩や蹴鞠のための装束を着ていても清涼殿で過ごしていた頃と変わらない雅びな風情を称賛すれば、屈託なく微笑む。
「ありがとう、源氏の君。今日は内大臣である源氏の君と権中納言の中将をそろって招いてしまったから、内裏で皆が困っているかもしれないね。帝にも申し訳ないことだ」
「そのようなご心配はご無用にございます。帝も叶うことなら、こちらへ行幸したいと仰せでございました」
私が言えば、中将も続く。
「朱雀院さまならば烏帽子と狩衣でもきっと貴やかにお美しいに違いないと、いつかの譲位に備え参考にさせていただきたいとおっしゃって、私たちをうらやましがっておいででした」
五歳で父とされる桐壺院を亡くした冷泉帝は右大臣の世にあっても何かと自らを気にかけてくれた朱雀院を慕っている。その見立てのとおり、烏帽子と狩衣を纏っても高貴さは少しも損なわれていない。むしろ表情もよりやわらかになった今の方が、至尊の身であった頃よりも親しみやすく人目を引くだろう。
「帝は和漢の才だけでなく褒めるのもお上手だね。けれど、帝の御布衣始はずっと先でなくては。源氏の君と権中納言もどうか帝の良き支えとなってほしい」
「心してお仕えいたします」
「源氏の君同様、私も心の限りでお仕えいたします」
中将の言葉に院が微笑みを深くする。
「権中納言、いつかは大変な無理をさせてしまったね。けれど、そのおかげでこの春を迎えられた。ありがとう、感謝しているよ」
須磨への使いの礼を告げられ、中将は深く頭を下げた。
御布衣始の後は院参する私たちも烏帽子と狩衣が許される。後日、その姿で出向くと、院は楽しげな笑みで私を迎えた。
「さすがは源氏の君。狩衣姿も見事なもの。そんな姿で蹴鞠でもしていたら女房たちがさぞ喜んだのだろうね」
子どものように無邪気に微笑み、続ける。
「位を譲り、これでもう誰かを不用意に傷つける不安がなくなった。それがとてもうれしい」
帝という唯一無二の力は国の命運を左右する。一言を声にするだけで人の命さえ容易に奪える絶対的な力。力があれば犠牲も生まれる。政においては、小さきものを見殺しにしても多くを助ける一殺多生な決断も必要となる。やわらかな心には耐え難かったのだろう。
誰かを自らの犠牲にしたくないとのささやかな願いだけを抱きながら、朱雀院は帝を父とし、自らも即位し、皇子を東宮とした。多くを求めない者が皇子であれば誰もが望むすべてを叶えている。それはひどく皮肉に思えた。
帝の母である中宮は俗世にあれば皇太后となるが、藤壺の女院はすでに出家の身。議論の末、位を譲った帝が太政天皇となるのに倣い、それに劣らぬ扱いとすると決まった。
帝の姫宮として生まれ、中宮となり国母ともなった。内親王として望むすべてを叶え、上皇にも劣らぬとして傅かれる藤壺の女院に呼ばれ、三条邸へ出向く。
「祝辞をお望みですか」
聞けば、御簾越しに笑い声が返ってくる。女房たちを下がらせ、上皇にも並ぶとされる女院が口を開く。
「祝うお気持ちもない貴方からお聞きしても意味はないでしょう。それより貴方は朱雀院さまの御所に院参しては弘徽殿の大后さまに尽くして差し上げているとか。わたくしは貴方に帝の後見をお願いしたはずです」
「帝には太政大臣がお仕えしておりますので、ご心配なさいませぬよう。弘徽殿の大后さまは私が万事抜かりなくお世話をさせていただいております。昨日は御前の庭の手入れもさせていただきました」
「都落ちの仕返しのおつもりですか。わたくしが大后さまなら身の置き場がありません」
「そんな気持ちは微塵もございません。趣味よく確かな教養をお持ちでいらっしゃるので学ばせていただくことも多いのですよ」
言葉に嘘はない。弘徽殿の大后は女人でありながら漢籍を読み下し、故事だけでなく唐や高麗の政の知識までも有している。
私への仕打ちについては、
「わたくしは守りたいものを守っただけ。自らの力で帝と右大臣家を守ろうとしただけよ。わたくしはわたくしにとっての正しさを貫いた。何一つ恥じても悔やんでもいないわ。罪には罰が与えられる、ただそれだけのことでしょう」
毅然と言い切った。
口ぶりは朧月夜の君に似ていたが、それ以上に誇り高かった。御簾越しではあっても牡丹のような華やかさに衰えのない様子が伺えるあたり、さすがとしか言いようがない。稀有な資質は天位に立っていたならば、どれほどの御代を築いたのかとさえ思わせる。
私が大后に仕えるのは、その才覚を畏敬しているからでも京を追われたことへの報復でもない。私が最も想う人の母であるからだ。院は今も変わらず弘徽殿の大后を大切にしている。だから、私も大切にする。院の喜びが得られるのなら、それでいい。
「大后さまに多くを学び、余さず主上を支える力としてくれるよう願います」
「一つお聞きししてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「この世のすべてを欺き、龍神の子を帝とした今のお気持ちはいかがです」
「主上は聡明で慈悲くもいらっしゃる。桐壺の帝にも劣らぬ素晴らしい御代を築かれましょう。それは国や人々にとっても幸せなこと。わたくしは何一つ悔いてはおりません。主上は天位を継ぐにふさわしい御方。……貴方は皇籍を取り戻したいとお思いにならないのですか」
「朱雀院さまの御代に臣下としてお仕えできた日々を生涯の誇りとしておりますので」
私は答え、退出した。
弥生、明石の方が姫を産んだという知らせが届いた。龍神の予言が真実であれば、朱雀院の第一皇子である東宮に入内し中宮にさえなり得る子だ。
入内に際しては、父が大臣であれば女御に、大納言であれば更衣となる決まりだが、言うまでもなく母方にも確かな出自が求められる。父である私が内大臣とは言え、明石の方が母では更衣としての入内さえ危うい。だが、兵部卿の宮の姫である紫の上を母とするなら、父方も母方も確かな血筋となり、女御として入内できる。
明石の方を京に呼び戻す気持ちに変わりはなく、姫のためにも一日でも早くこちらに迎えたいが、二条院では入内に向け母と子を引き離さなくてはならない。まだ幼い姫を手放し、紫の上に預けるとなれば、明石の方にとってどれほどの悲しみとなるだろう。分かった上で私は姫を迎えるために二条邸の東院の改築を急がせ、さまざまな縁をたぐってはより良い乳母を探し求めた。
亡き桐壺院に仕えた女房の娘が子を産んだと知り、私はその者を乳母として明石へ送ると決めた。
出発の日、夜明けよりも早く、私は秘かに乳母の住む屋敷を訪れた。暮らしに不足があるらしくあばら屋のような有様だが、乳母は容姿に優れ、嗜みも備えていた。
「明石になど下らせて心苦しいが、大切な姫君なのだ。どうかよく仕えてほしい」
直々に声をかければ、乳母は私自らが出向いたことに感涙し、平伏した。私に忠義を感じた乳母は心の限りで姫に尽くすだろう。
帝の皇子とされる私を父に、帝を祖父とする紫の上を母に、誰よりも美しく趣味よく歌も書も楽もすべてに優れた姫君を育て上げ、朱雀院の皇子である東宮へ入内させる。そのためになら、どんな労苦も厭わない。
東宮は父と同じく昭陽舎を御座所としている。私の宮中の宿直所は以前と変わらずに淑景舎であるため、近さを理由に私は足しげく東宮御所を訪れ、母である承香殿の女御からもすでに多大な信頼を得ている。いつの日か帝位を継ぐ東宮にとっても、内大臣であり、いつの日か太政大臣に昇るだろう私を後ろ盾に加えることは大きな利となる。
東宮の後見である私の姫であれば、入内しても重んじられるが、東宮の寵愛を得られるかは姫自らの魅力に依る。誰よりも美しく趣味よく育つよう祈りながら、守り刀など祝儀に必要な品々とともに乳母を明石へ送った。
私は臣籍に下りたが、この血を継ぐ姫は美貌と教養を羽衣とし内裏へ舞い上がらせてみせる。
東宮は朱雀院の皇子。明石の姫は私の娘。いつの日にか、父からは院の、母からは私の、それぞれの血を受け継いだ皇子が高御座に昇るかもしれない。院とも私ともつながりのある帝の御代、そんな時まで生き永らえたとしたら、私は今度こそ、ただ一人に揺れ惑う心を静められるだろうか。
皐月五日は姫の五十日の祝いの日。本来であれば父である私が箸を取り小さな口に餅を含ませるべきだが、京と明石では叶わない。私は帝の姫宮にも劣らぬ品々を取り揃え、必ず五日に届けよ」と厳命し、使いの者たちを送り出した。
その夜、私は紫の上に明石の姫君の誕生を知らせた。傍らに控える少納言が驚きを露わにし、痛ましいものを見るように目をそらし俯いた。
紫の上は恨み言こそ口にはしなかったが、私が筝の琴を奏でるよう誘っても、その指を動かそうとはしなかった。
天位を譲った朱雀院は季節に応じ管絃の遊びを趣味よく催している。私だけでなく権中納言の中将も都合をつけては馳せ参じ、元服を済ませた柏木もよく院参している。
権中納言によく似ながらも父より線の細い容姿に、中将にも劣らぬ楽の才を持ち、十四歳という年齢以上の落ち着きがあり風雅を解する柏木に、院は宴の取り仕切りを任せるほどの信頼を寄せている。
葵の遺した夕霧は太政大臣の邸で大宮によって育てられている。元服すれば、父である私や、従兄弟であり友でもある柏木とともに院参する日も来るだろう。会う機会は多くはないが、父である私によく似て優れていると認められている。将来、東宮が帝となれば内裏の柱石にもなれるだろう。
私が御代の終わりを支えた帝はすでに位を譲り、満ちた足りた笑みを浮かべている。
「本当に穏やかな日々だよ」
水無月、雨の晴れ間の陽射しを受けて、院が笑う。
「源氏の君が東宮のよい後見となってくれて、うれしく思っている。あの子はわたしに似ず頑固なところがあり手を焼くこともあるだろうが、どうかよく仕えてほしい」
「東宮さまはご自分の意志をしっかりとお持ちでいらっしゃいます」
「わたしや女御より母上に似ていると言われているらしいね。となると、末恐ろしくもあるのかな」
言いながらも、東宮の才覚を認めているのだろう、その口調は明るい。
「わたしは末頼もしく感じております。東宮さまは院にてお優しくもいらっしゃる。情け深さこそ上に立つ者には必要かと存じます」
「ありがとう、源氏の君にそう言ってもらえると心強く思うよ。東宮のこと、どうか願いたい」
「必ず」
心から誓う。私は第一の臣となり東宮を守る。
ただ一人の人が天位にある頃、私は無位無官で都を離れ、その御代の多くを支えることができなかった。
「わたしは素晴らしい弟に恵まれたよ」
この微笑みを必ず守り抜く、そのために私は都へと帰ってきたのだ。
冷泉帝即位に伴い伊勢の斎宮も代替わりとなり、六条の御息所の姫宮は母とともに京へ戻った。御息所は六条の邸に手を入れ、伊勢に下ったとは信じられぬほど雅びな日々を送っていると称賛されている。
光の君と讃えられたあの頃、都において並ぶ者のない貴婦人と謳われた御息所と幾度も逢瀬を重ねた。若さゆえの傲慢さで傷つけ、報いとして夕顔と葵を喪った。もう会うことはないだろうが、私は折々にさまざまなものを六条へ贈り届けた。
少しの後、病を得た御息所が髪を下ろし尼になったと知った。馴染みの女房から私に会いたがっていると聞き、六条へ見舞いに出向いた。
都に戻って間もないのも関わらず秋の庭は趣味よく整えてある。御簾を隔て、あの頃と変わらぬ香とともに懐かしい声が届く。ひどく弱々しく途切れがちな声で御息所はくり返し私に娘である姫宮の後見を頼んだ。けっして徒めいた仲にならぬようにと懇願し、叶うなら自らと同じく帝へ入内させたいとも口にした。
即位に際して朱雀院に惜別の涙を流させたほどに清らかな姫宮。二十を過ぎた今、母にも勝ると噂される容色はどれほどのものなのか。
「亡き桐壺院におかれましては姫宮は我が子と同じだと仰せでございました。兄として姫宮をお守りいたします」
私は誓い、六条邸を後にした。
趣深い秋の夜、六条の御息所は息を引き取った。姫宮に見守られた最期は眠るように穏やかだったと聞いた。
私は何一つ惜しまずに葬儀のすべてを取り仕切り、魂がその身を離れるほどに私を愛してくれた恋人を手厚く弔った。姫宮に弔意の文を送ると、品のよい返し文があった。前斎宮である姫宮の文は喪中らしく鈍色の紙を用い、趣味のよい香が焚き染めてある。御息所ほどに優れてはいないが、愛らしく鷹揚な手蹟。ごく自然でありながら気品に満ちた筆はどこか院に似通っている。
筆そのものは私の方が院よりも整い、優れている。けれど、院の手蹟は相手を安心させるような優しさがあるのに対し、私のそれは美しいばかりでどこか冷たい。
亡き御息所の願いに背き、姫宮を自らのものにするのは容易い。紫の上とは正式に婚姻を交わしたわけではないから姫宮を正室として迎えても不都合はない。しかし、六条の御息所は生き霊となるほどに深く強く私を愛してくれた。私は御息所を苦しめ追いつめ、ついには伊勢にまで下らせた。姫宮まで母と同じように傷つけるわけにはいかない。父代わりに実直に支え、御息所の願いのとおり冷泉帝に入内させるべきなのだろう。
帝にはすでに権中納言の中将の姫君が祖父である太政大臣の養女となって入内し弘徽殿を賜っている。帝は十一歳、弘徽殿の女御は十二歳。どちらもまだ幼い。兵部卿の宮も中の君を入内させる心つもりらしいが、こちらも同じぐらいの年頃だ。
このところ病がちな藤壺の女院が自らの代わりとなるような重みのある姫を求めているとも聞いている。御息所の姫宮は二十ばかり、出自も確かで後宮の要ともなれるだろう。とは言え、花の盛りの年頃の姫を大人びているとは言え、あどけなさの残る帝に入内させるのも惜しく感じる。
何よりもしかしたら朱雀院の心はまだ前斎宮の姫宮にあるかもしれない。確かめられぬまま御息所の七日ごとの法要を取り仕切り、四十九日の喪が明けて数日が過ぎ、ようやく落ち着いた。
そんな折り、朱雀院から院の御所へ召された。喜びとともに院参すれば、庭の紅葉は燃えるように紅く染まっている。須磨へ届けられたひとひらの葉は文とともに今も私の懐にある。
中将によって届けられた宸翰については互いに口にしたことはない。きっとこの先もないだろう。それでも、私は一葉を肌身離さず身につけている。
院は廂に座し、庭を眺めていた。いつものように御簾も几帳もなく、ごく近しく控えれば、穏やかに微笑みを向けられた。
前庭を彩る紅葉の美しさを愛でると、院は同意の言葉に続き六条の御息所を悼んだ。
「本当に仲のいい母子だったようだから、姫宮もさぞ心細く過ごしているだろうね」
「沈みがちな日々をお過ごしのご様子です」
院は少しの躊躇の後、「源氏の君」と私を呼んだ。
「こちらには、先の斎院であった妹宮も暮らしている。御息所の姫宮もこちらに迎えられないだろうか」
問われ、心が大きく波打った。
姫宮の髪に別れの櫛を挿し涙を零したあの日から、ずっと院の心には前斎宮がいたと言うのか。帝として過ごしながら遠く伊勢に想いを馳せていたのか。私が須磨でどれほどの想いで貴方を想っていたのか知ろうともせず。
「実を言えば、伊勢に下っていた頃から御息所に幾度かお願いしていたのだけれど、あの頃のわたしは病がちで、それを理由に許しを得られなくてね」
想いを見せないよう平静を取り繕う私に、院は困ったように微笑みかけてくる。都を追われながらも私がどれほど貴方を求めていたのか気づきもしない微笑み。鄙びた地でただ一人を想い続けていた日々、貴方は姫宮を乞い求めていたのか。
「……私の一存では決めようもないことでございますので」
答えれば、院は私を責めもせずに「そうだろうね」と頷いた。しかし、その目はこれまで同様に私によって願いが叶えられることを何一つ疑っていないと告げていた。
朱雀院の御所からの帰路、私は事前の許しも得ず藤壺の女院のもとを訪れた。
御簾越しに向かいあい、私は挨拶もなく本題を切り出す。
「前斎宮の姫宮の入内をお許しいただきたい」
「前触れもなくおいでになって、思いもしないことを仰せになるのですね」
言いながらも、声には楽しげな響きがある。
「せっかくのおいでですから、伺いましょう。前斎宮と言えば、六条の御息所の姫宮ですね」
「はい。帝より十ほど年長でもあり、後宮の良き支えとなりましょう」
「父としての気づかい、ではないのでしょうね。……でも、いいでしょう。確かに弘徽殿の女御だけでは心もとないですし、前斎宮の姫宮であれば血筋も申し分ありません」
「ただ一つの差し障りといたしまして、朱雀院も姫宮をご所望のご様子」
「上皇さまはすでに位を譲られた身。何の障りがございましょう」
帝の母は迷いのない声で私の躊躇を断ち切った。
「姫宮の入内、亡き御息所さまのご遺志ということになさいませ。上皇さまはお心穏やかな方、入内の話が出た後に物事を荒立ててまで姫宮をお望みにはならないでしょう。主上にはわたくしからお話しいたします」
今後の振る舞いを子細残らず取り決め、私は三条の邸を出た。こうなれば日を置かずに姫宮を二条院に引き取り、御息所から正式に後見を頼まれたと世間に示すべきだろう。
手の届かない神域にあった姫がようやく都に戻った今になって自分ではなく今上帝へ入内すると知れば、院はどれほど残念に思うのか。想いを知りながら、それを阻んだとして私を憎むのだろうか。いや、きっと悲しむだけだ。悲しんで、そして、静かに受け入れる。他人を恨まず憎みもせず、人を傷つけるぐらいなら自ら傷を負うことを選ぶ人。だからこそ、想ってやまない。
どうしようもなく、この身を尽くすほどに想っているのに、それなのに私はいつの時もただ一人の喜びとなれない。日と月は同じの空には並べない、いつか耳にした言葉が胸のうちで苦く甦った。