19話 同じことを繰り返す日々。
私小説を書いている私に、小塚先輩の小説観を寄せすぎているかもしれないのだが。ともあれ、小塚先輩の小説のことである。
猫の日常を描く3000字の小説を、4万字に広げるには——。
私だったら、猫の見る夢や猫の恋愛を書くことになるだろう。猫が失恋したところから始めるかもしれない。
ただ、夢はともかく。恋愛は、あまり男性が書かないジャンルである。3000字を見る限りでは、小塚先輩も恋愛ものには興味がなさそうだ。
夢だけでは材料が乏しい。毎日、私は夢を見ていると思う。しかし、起きたら忘れていることが多い。くだらない内容であるにも関わらず、頭から離れないこともあるのだが……。
小説に書くだけの価値がある夢を見られて、なおかつ覚えていられたらラッキー。夢とは、そんなものだろう。あてにできない。
日常を描きたい場合。やはり材料は、日常から調達してくるしかない。『書を捨てよ、町へ出よう』というアンドレ・ジッドの詩文がある。まさに、それだ。
フィールドワークをするしかない。猫の生活に密着する。猫が通りそうな道を歩く。猫の目線に高さを合わせる。そうして景色を観察しながら、何か新しい発見をしなくてはならない。
なんとも不便な小説観であろうか。実際に経験したことしか書けないのだ。他人の書を読んで、参考にするだけでは足りない。小説を書くために、外に出る。場の空気を感じることで、小説が活きる。
超がつくほどの不便な小説観だ。クソをつけてもいい。私が小説を書けない理由もコレのせいのような気がしてきた。
しかし、コレには良いところが1点だけある。どんなものにでも、良いところが1点くらいはあるものだが……。
場の空気、個人の感覚や経験が書かれた場合。小説でしかできない表現が、しばしば生まれる点だ。映像化できない小説を書いてこそ、小説という表現方法を選び取った意味がある。
さて、小塚先輩に必要なことはフィールドワークだという問題が浮上した。フィールドワークをする時間はあるのだろうか。留年したために、アルバイトで学費を稼ぐ日々のようだが……。
意識的に経験することを心がけなければ、すぐに書くことが枯渇する。同じことを繰り返す日々は、何の材料にもならない。
しかしながら、妊娠したら妊娠小説を書く。介護したら介護小説を書く。そんな小説人生になりそうな私も、どうなのだろう。もはや、小説を書くために生きるようなものだ。
溜め息をつきたいような気分になりながら、風呂から出た。明日は火曜日。古賀と1限から、1週間のスタートを切らなくてはならない。もう寝ることにしよう。




