17話 私の中で飼っている犬。
「進んでいますかって、進んでねぇよ。ちくしょう」と小塚先輩は、やっぱり笑っていた。「まだ時間はあんだろ」
おっしゃる通り。12月の締め切りまであと7ヵ月。1ヵ月あたり6000字。1日あたり200字を書き続ければ余裕で間に合う計算だ。
しかし、実際には何を書こうか考えるだけで時間が過ぎてしまう。執筆は算数ではない。それに、毎日こつこつと誰にも読まれないものを書き続けることは至難の業だ。
お忘れですか? 大学生活は4年間あったはずなのに、卒業制作の欠片となるものは今3000字しかないのですよ。
そう思ったが、私は黙ることにした。
商店街を抜けると、また辺りが暗くなる。少し先に、目的地であるパチンコ屋のネオンが見えた。
「お前さん、暗い場所では喋らなくなる人種なんだな」と、くぐもった声で小塚先輩が言う。
これまた、おっしゃる通り……。
相手の表情が窺い知れない場所で、無意識に話すことを避ける習性が私にはあった。
一方通行のコミュニケーションは、不得意中の不得意だ。
一方的に自らが話し続けることは滅多にない。相手の反応を気にしてしまう。それが、私が小説を書けない理由の1つであるのかもしれなかった。
文字のやり取りをする時。必要以上に読み返してしまう癖が私にはある。文章の本質は無機質で冷たい。
だからこそ、人は少しでも温かみを出すために顔文字や絵文字を駆使するのではないだろうか。
誰にも読まれないものを書き続ける作業は辛いものだが。いつか誰かに読まれた時、事実以上に冷たい人間だと認識されるのも辛いものだ。
どちらかと言えば、冷たい方の人間ではあるのだが。
「君は、犬みたいに空気を読むのが上手だ」と。
突然、元彼の声が脳内再生されて頭を抱えたくなった。私の中で飼う犬は、常に人の顔色を伺っているのかもしれない。
否、もう終わったことだ。考えるのは止そう。
アルバイト先であるパチンコ屋の裏側に着いた私は、『蛍の光』を聞きながら閉店を待った。
閉店後のパチンコ屋の清掃作業は単純だ。格好も自由で、接客もない。お客さんが完全に居なくなったら、作業に入る。
トイレ掃除をして、自販機の横のゴミ箱を交換し、喫煙所の灰皿の水を替える。パチンコ台と椅子を拭き、床のモップがけをする。
2人で作業すると1時間強で、日給は1600円。
決して悪くない仕事だが、1人でやるのはキツいので小塚先輩に誘われた理由が察せられる。