13話 可愛らしいつり革と走り屋スタイル。
——つり革が1匹、つり革が2匹、つり革が3匹。
心の中で声を出しながら数えてみると、つり革への愛着が湧いてきた。丸いフォルムのつり革は色とりどりのドーナツに似ている。とても可愛らしい。お持ち帰りしたくなった。
実際には持ち帰ったとしても、どうしようもないのだが。例えるならば、まるで野に咲く花を摘んでしまうような行為である。つり革がつり革として輝ける場所は他のどこでもない。ここにしか、ないのだから。
乗り換えの駅は、すぐに着いてしまう。後ろ髪の引かれる想いを私は振り切った。どうせ明日も会えるのだ。全く気にすることはない。
いつものように開く側の扉の前を陣取って、スタンバイする。この駅での乗り換え時間は1分間しかない。今から見知らぬ人たちとの約50メートル走に勤しまなければならないのだ。
駅のホームが見えてくる。聞き慣れた音が鳴っている。扉が開くや否や、電車から飛び出した。もちろん、自分だけではない。違う扉からも何人かが飛び出していた。真っ直ぐに、ひた走る。
連絡通路に1番近い乗降口は女性専用車両である。したがって、最初に視界へと入ってくる人は全員が女性だ。しかし、必ずと言って良いほど連絡通路へ辿り着く前には男性が追いついてくる。
この際の男性の装備は例外なく、スーツ姿でリュックサックを背負っていた。彼らはズバ抜けて速い。滅茶苦茶に速い。アスリートの脚力を思わせる。走り屋である。
今日も当然のごとく抜かされながら、私は彼らの靴のことを考えた。どうも私の目では革靴にしか見えないのだが。あの革靴どもは、恐らく運動靴でありながら革靴のフリをしているに違いない……。
ホームへと続く階段を駆け降りるところで、1人の走り屋スタイルの男性が私の隣にぴたりと並んだ。絶え間なく足を動かし続けながら、私は顔を見る余裕もないままに挨拶をする。
「おはようございます!」
「おう」
すぐに返事は戻ってきた。くぐもった声には、ゆとりが感じられる。必要以上には頑張らないという人柄が、如実に現れているような気がした。
声の人物は、ゼミの先輩にしてバイト先の先輩。小塚雅史先輩である。小塚先輩には、2年は留年しているらしいという噂があった。本当のことを私は知らない。
常にスーツ姿でリュックサックを背負っているのは、就活中だからなのだろうか。よくわからない。どうしてサラリーマン風の格好をしていらっしゃるのか。何となく私は聞きそびれていた。