初夏の夜の夢
文学フリマ短編小説賞への投稿用に書きました。
書類の入った重い段ボールを資料室の床に置き、俺は疲労の混じったため息を吐いた。ふと時計に目を向けると、短針が10の字を追い越していた。
やれやれ、結局今日もこの時間まで居残ってしまった。連日連夜の残業で、体中の筋肉が悲鳴を上げている。
「う……-ん」
肩を回して首を左右に振ると、ゴキゴキと大きな音が鳴った。ずっとデスクワークと資料運びばかりしていた所為で、すっかり凝り固まってしまったのだ。
俺が今年の四月から入った会社は、丁度事業を拡大させている時期だったこともあり猫の手も借りたいほどの忙しさだ。たとえ新人でも日が浅くとも、遅くまで仕事をしなければならない状態なのである。
そんなこんなで、俺は今日も資料整理に再編纂の繰り返しだった。そこそこ歴史を持つ会社なのも相俟って、過去の資料が馬鹿にならない数になってしまっている。そろそろ暑い季節になろうと言うのに、まだ半分程度しか終わっていない位だ。
「ま、文句をいう訳じゃないけど……さすがにきっついよなぁ」
誰に言う訳でも無く呟きながらオフィスに戻ると、他の社員はちらほらと帰り支度をしている様子であった。
状況はなかなか大変だが、それでも一か月の残業時間が限度を超過しないように配慮されている辺りは、まともな会社なのだと思う事にしている。
俺もそろそろ帰ろう。そう思いぼんやりと荷物を纏め始め――
「痛っ」
ちょっと屈んだ瞬間、腰にピキッと冷たい痛みが走った。思わず動きが止まってしまう。慌てつつも急に体を動かすと痛むので、ゆっくり上体を起こし腰に手を当てる。
まだまだそんな年齢でもないというのに、もう腰痛か。ここ最近は体を酷使していたのも影響しているのかも知れない。
セルフマッサージでは大して効果も期待できないが、気休め程度に腰をさする。だが自分一人ではうまく力も入らないものだ。何とももどかしい気分。
そんな俺を見かねてか、同僚の男性が声をかけてきた。
「大丈夫? 今から体壊したら大変だよ」
「あ~、分かってるけどなぁ。こうも資料運びばっかりだとそうも言ってられなくて」
「あんまりきつかったら、明日休日だから整体とか行ってみなよ」
「そうだな。考えとく」
そうは言ったものの、今も腰はピリピリとした疼きが治まらない。さっきより痛みは薄れたものの、止まることなく襲ってくる分たちが悪い。
他にも肩・腕は勿論あちこちが鉛でも仕込んだかのように重ったるい。おまけにデスクワークの影響か眼精疲労のおまけつきだ。目の奥がじんじんと痛んでごろごろした違和感が取れない。
適当に会話を切り上げて、俺はさっさと帰路についた。
気を取り直すように頭を左右へ振ると、今度はこめかみの辺りまでズキンと響く。
やれやれ、これではこの若さで体中ガタガタになってしまう。
帰宅途中、お弁当を購入しようとコンビニエンスストアへ立ち寄る。
390円の鮭弁当を手に取りレジへ向かう途中、ふと思いついた。整体はともかく、湿布か何かあればとりあえず急場は凌げるのではないか。
そこでコンビニの後、早速ドラッグストアへ入りあちこちの棚を見て回る。
湿布、塗るタイプの抗炎症薬、マッサージ用品……
色々な商品をみているうち、ある湿布のパッケージが目に留まった。
『痛みに効く!母心れいかん湿布』
ちょっと古臭く感じるネーミングに、白と緑で上下に塗られただけの飾り気のない外観も相俟って、昭和の時代から飛び出てきたような商品に思えた。だが、そんな突飛な商品だからこそ妙に強く惹かれる。
値段は598円。陳列棚を見ると同じ商品はひとつも残っていなかった。
「ってことは、売れ筋商品なのかな」
しかし、こんな名前の湿布など聴いた事が無い。コマーシャルで見かけた事も無ければ、ニュースなどで取り上げられた事だって無いはずだ。
ちょっと値は張るものの、そんな奇妙さが俺を後押しした。
自宅へ着くと、食事と入浴を済ませて早速湿布を手に取った。
パッケージから取り出した瞬間、つんとしたハッカの香が鼻孔をくすぐる。いかにも効きそうな匂いだ。
フィルムを剥がし、慎重に患部へと貼り付ける。丁度腰骨の左右に、それぞれ一枚ずつ。
貼った途端、患部の奥までスーッと透き通るような冷たさが届いた。
「おー。結構効くなあ」
疼痛で熱を持ったかのような腰が、随分と楽になった。じりじりとした重ったるさまではなかなか取れないものの、痛みが引いただけ良しとしよう。
それが効いているうちに、布団を敷く。このまま今日はさっさと休んでしまおう。
そう思いつつ横になると、日ごろの疲れもあってかあっというまに睡魔の手に掛かってしまった。
気付いたら、うつぶせになって寝ていた。
背後に誰か、人がいるような気配を感じる。だが疲労が積み重なっており、振り返って確認する事が出来なかった。
不思議な事に嫌な感じはひとつもしなかった。
――さあ、緊張をほぐしましょう。全身の力を抜いて、リラックスなさって下さい――
頭の中に声が通る。柔らかく脳内を駆け抜けるそれは、聴いているとほっとする響きを持っていた。肩に残っていた余分な力を解いてくれる。
これは幻聴……だろうか?
――力が抜けてきましたね。では本日は、御腰から施術をさせて頂きます。最初はやや痛みますが、そのまま力を抜いていて下さいね――
その言葉と共に、腰の辺りにぐっと押される感触がした。腰骨の左右、効果の切れた湿布を張った箇所に圧力がかかってめちゃくちゃ痛い。
だがそれ以上に疲れが勝って、起き上がる事が出来ない。
――あぁ、凝っておいでです。随分と酷使なさったのですね――
今度は押されるのではなく、上下にさすられる。徐々に力が入ってくるものの、先程の指圧よりは優しく解されるようだった。
血流をよくしてくれるようで、段々と温かく感じてくる。痛みはあるけれど、痛気持ちいい程度で押してくれるのがありがたい。なかなか取れなかった重ったるさが、次第に薄れるのが解る。
「(ああ、俺は今マッサージを受けているのか)」
どう考えても常識的にありえない状況なのだが、不思議と今の俺はそれをすんなり受け入れられた。
――背中と肩も張っておいでのようです。硬くなって、さぞ重かった事でしょう――
次に肩甲骨から背骨にかけて、ぐりっとえぐるような感覚。肩甲骨の内側まで圧されているようで痛い。痛くてたまらないが、効く。
背骨のラインに沿ってぐっぐっと細かく丁寧に指圧。長時間デスクワークをしたり屈んだりすると、どうしても猫背がちになって丸まり縮こまってしまうのだが、それを解きほぐして緩めてくれる。
続いて背中全体への指圧。ぎゅっと固められた背筋や僧帽筋がばらばらに柔らかくされるようで、思わず肺の奥底から深い息が漏れた。
指圧の指が段々と上へと向かう。首の裏、ぼんのくぼまで到達するとそこをつまむようにして左右から揉まれる。肩と首はセットになっているのだ。ここも念入りにほぐされた。
続いて肩の方へと移る。ぎゅっと押されると途端に鈍痛が響く。
が、ここはじっと我慢。ぐーいぐーいとゆっくり目に圧を加えられる。
――肩凝りが酷い場合、頭痛や目の痛みなども引き起こします。じっくりと柔らかくしますね――
ここまで来ると疲労に眠気が強く混ざり、脳内に響く声すら遠くに聴こえてくる。眠ってしまう事の勿体無さと、このまま眠れたらさぞ気持ちいいだろうなという期待感の板挟み。
肩がほどよくほぐれると、今度は肩口を前後にさすられた。圧力と摩擦熱とで、あったくて気持ちいい。どろどろと滞っていた血流がサーッと綺麗に流れだした。
そうしたら再び肩揉み。さっきまで鈍痛が響いていたのに、驚くほど気持ちよくなっている。分厚い鉛を仕込んでいたような重量感が、溶鉱炉にぶち込んだが如く溶けてゆく。
肩がすっかり緩んでしまうと、次にこめかみの辺りをぐーっと押された。目の奥まで届くその圧は、残っていた眼精疲労にきついくらい効いた。「あぁ……」と、喉の奥から掠れた声が絞り出されるほど気持ちいい。
俺の思考は、もはや炎天下に置かれたアイスクリームのように蕩け切っていた。
ゆっくり、優しく押されるのが続いた後、再び腰をさすられた。
――はい、本日の施術は以上になります。そのままゆっくりとお休みください――
再び響いた柔らかな声に促されるように、俺の意識は深い闇へと落ちた。
全身を脱力させ、ゆらゆらと奇妙な浮遊感すらおぼえるそれに抗うつもりは無かった。
翌日目が覚めると、あれほどきつく感じていた全身の倦怠感はすっかり取れていた。
あれは何だったのだろうか。夢だったのだろうか?
それとも……と、ふと手元に残った湿布をみつめる。
「……まさかな」
オカルトやホラーじゃあるまいし。
俺は妙な考えを脇に置いて、休日の予定に思いを巡らせる。
どこかに出掛けてみようか。そうだ、同僚のあいつを誘ってみるのもいいかも知れない。
久々に、とてもとても気持ちの良い朝だった。
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