誘惑
誘惑
桑のみ畑は暖かく
赤黒いぷっちりと膨らんだ
日の光に暖められた桑の実が
丘の斜面を甘い香りでおおっていた
「道草をくっちゃいけませんよ」
お母さんの声が頭の奥で響いた。
一粒だけ
甘い小さな宝石のように光沢のある粒粒が
口の中で連発して破れた
一粒だけ
青い空が私を見下ろしていた
白い綿のような雲がぽっかりといくつか浮かんでいた
町角で、宣教師は
紙芝居を見せていた
りんごの木にずるそうな目をした蛇がからまって
アダムとイブが裸で恥ずかしそうに
お互いを見つめていた
イブの手には、真っ赤なりんごが艶やかに光っていた
「道草をくっちゃいけませんよ」
頭の中でお母さんの唇が厳格に動いていた
一粒だけ
私の指先は、黒紫に染まっていた
青い空に浮かんだ白い雲は
いつの間にかどこかへ消え
私は急にのどに渇きを覚えて家路についた
「ただいま」
「道草してきたでしょ」
「してこない」
(私は桑のみで黒紫に染まった指を、ポケットに突っ込んで
答えた)
「鏡みてきたら」
(冷たい抑揚のない声が言った)
口の周りを桑の実の汁で汚した
惨めで怯えた小さな顔が
鏡の中から私を見つめていた
それは罪の印しであった
誘惑から免れることのできなかった印しであった
後悔が波のように私の心に押し寄せた
私はなぜか、町角に立つ宣教師が見せていた
アダムとイブ、真っ赤なりんごとずるそうな目をした蛇のことを思い出していた




