大波小波に揺れて揺られて
捨てた名前………と言ってもそれだって3日程前だ。その名前で呼ばれて、それが今朝の夢の中の人物と同じなら尚更。素知らぬ振りで通り抜けられたらいいのに、私は既に動揺して歩みを止めていたし声の持ち主は目の前にいるのだ。
「リリア、リリアだろう?何故、この街に……」
数ヶ月ぶりに見たお父様は、記憶の中とそう変わりない。刻まれた皺はそれだけ年月が経った証だろう、その皺に気付くだけの距離で話をしたのが今と言うだけだ。
「……………人違い、でしょう」
「何を……言うんだ、何をっリリア。君は私の可愛い娘で」
「っ人違いです!失礼しますっ」
「まっ待て!リリアっリリア!」
掴まれかけた腕を振り払い全速力でお店へ駆け出した。
何故、何故何故何故。
可愛い娘?聞きたくない、ぬいぐるみが無くなったあの日、おめでとうと言って抱き締めて欲しかった誕生日一人で眠るその夜の寂しさ、帰って来ても挨拶すらする暇もないまま次の仕事へ行く背中。書いても書いても返事の来ない手紙。
どこに可愛い娘だと言えるだけの思いが、扱いがあるのか、私には何一つ分からない。
あんなに、苦しくて悲しくて孤独な思いはしたくない。 例え短い間でも幸せだった時があったから尚更、そうだった。
バタンと大きな音を立ててガルドさんの待つ止まり木へと帰ったのに、ぐるぐると渦巻く思いに堪えきれなくなり、扉の前に座り込むと涙が溢れて止まらない。
顔を覆って泣き出した私に、何事かと生地を仕込んでいたらしいガルドさんがカウンターの中から駆け寄ってくれる。
「何かあったのかっ?!そんなに泣いて何があった!」
「ガルド、さんっ……わた、私……私はっ」
うまく言葉に出来なくて、私はとしか言えないのがもどかしい。
でも、何をどう言えばいいのか分からなくて、言ってしまえばここに居られなくなるんじゃないかとか帰った方がいいなんて言われたら、もう2度と前を向けなくなるだろうなとか考えては渦巻いて余計に言葉が見付からない。
「ただいま~、ってリインちゃんどうしたの!?お兄ちゃんっ!」
「花祭り用の包装取りに頼んだんだよ、それで帰ってきたら泣いてんだ。お前こそ何か知らないか………後ろ誰だ?」
後ろで扉が開くとメイシーさんが帰ってきたらしく、私とガルドさんを見て声を上げて驚いているみたいだ。
だけど、次に発せられた言葉に私は息が止まった。
「………リリア」
静かな店内に響くその声。
また『何故』が頭を占める。
やっと、やっとあの場所から出たのに。やっとまた小さく温かい想いを積み上げ出せたのに………。どうしてそっとしておいてくれないのだろうか。この場所すら、取り上げるというのか。
そんなの───、嫌。
「そこの角でね、紫色の猫目で明るい茶髪の子を知らないかって聞かれてね。あんまりにも切羽詰まってる感じでさ断るのもあれで、その、もしかしてリインちゃんの事かと思って……」
「リイン?この娘はリリアで……」
戸惑っている様子のお父様に、なんとか力の抜けた足を叱咤しまて立ち上がる。
涙に濡れたひどい顔だろう。
「私はっ、私はリインです!……リリアなんかじゃ、ないっ!帰って、帰ってよぉっ!私!私……は、もう、何も無いのにっどうして?もう、何も……無い、全部、全部取り上げたのに、またっ止めて……っ、帰って!嫌よ!嫌っ!」
「リインちゃんっ!落ち着いてっほら、大丈夫よ大丈夫……ごめんね、泣かないで、私は隣に居るわ。大丈夫、大丈夫だから。誰も取ったりしないわ。リインちゃん疲れてるのよ、少し横になりましょう、ね?私が支えて上げるから二階に行きましょう?………お兄ちゃん、ここ任せたわよ」
「ああ、お前の方こそ頼むぞ」
高ぶった感情にのまれた私は、メイシーさんに付き添われて二階の自分に宛がわれた部屋に行くしか出来なかった。嫌だ、帰ってと泣きながら繰り返すだけ。
キラキラした毎日が始まったと思ったのに、家を出て、名前を捨てて、これからだと思っていた。
吹っ切れたんだと思ってた、でも本当
に思っていただけだった。名前を呼ばれ動揺して、対峙して結局泣きわめいてまともに対応なんか出来なかった。
戸惑った顔のメイシーさん、心配そうな声音のガルドさん、私は泣いて叫ぶだけ。逃げただけ、分かってる。いつかは向き合うべき心の棘だって、でも、それはゆっくり自分の中で昇華していきたいと思って………、それがこんなにすぐ突き付けられてうまく頭が、心が、追い付けない。
でも、この3日間の事を思い出せば、黒く塗り潰す日々はもう嫌だと切に思う。
「メイシーさん、ごめん、なさい。泣きわめいたり、して」
「………………いいのよ。私があの人を断ればよかったんだわ、私こそごめんね。お兄ちゃんが来たらお水とタオル持ってくるから、目冷やすのよ?可愛い顔が涙に濡れてるのはよくないもの」
「はい。ありがとう、ございます」
何も聞かずにいてくれるメイシーさん、きっとガルドさんも聞かずにいてくれる。
私が言わない限り、ガルドさん達も変わらない日々にしてくれると思う。少しの戸惑いを残して。
そうして、私はきっと、いつまでも過去を引きずるだろう。
今日の動揺をいつまでも忘れられずに、いつまでもまた立ち止まる事になると思う………ううん、なる。
今だって下を向いてしまっているんだから。このままじゃ、立ち止まる所か座り込んで前にも後ろにも行けなくなってしまう。駄目に、なってしまうから。
やり直そう。
あの本に勇気を貰った事は間違いない、あの日出た事も後悔なんてない。
だけど、あの時少なくともお母様やメイリーデに話をするべきだったのだ。そうして、全部吐き出してそれから屋敷を出たらもっと違ったんじゃないだろうか。
そう。きちんと、二人に話そう…………。
話して、謝って、それから、
戻ろう、あの家に。
さっきみたいにみっともない位、泣いて喚き散らす事になるかもしれない。手酷い扱いを受けるかもしれない。怖くてたまらなくなるかもしれない。途中で足がすくんでしまうかも、しれない。今も怖いのに変わりはないけれど
それでも、ずっと閉じ込めてきた言葉をぶつけて、それが理解されなくとも自分の意思を伝えて過去とさよならをしなくちゃ………。
そうしたら、本当の本当に今度こそ歩いて行ける筈。
───コンコン
「今、大丈夫か?」
ノックされた扉の向こうからガルドさんの声が聞こえて、考え込んで反応が遅れてる私に代わりメイシーさんがいいわよと返事を返してくれた。
「じゃ、私お水とタオル用意してくるから。お兄ちゃん、無理させたら駄目だよ?」
「分かってるさ、手短にするつもりだ」
入れ替わるように入ってきたガルドさんは、ベットの横の椅子に腰掛けて1度目を瞑りそれから口を開いた。
「さっき来ていたのはあんたの父親だと言っていたが、本当か?」
「………はい。ごめんなさい、取り乱してしまって」
「そうか。まあ、訳有りなんだろうなってのは分かってはいたんだ。だからそれはいいんだ。それに今から言う事はあんたには少し酷かもしれないが聞いてくれ」
こくりと頷いて両手を握り締める。
「あんたがメイシーに連れられた後の事だ。何故ここにいるのか、何故この街にとしきりに聞かれた。話をさせてくれともな、けどさっきの様子じゃ会っても話なんて無理だっただろう?それで、無理だと言ったら、また明日来るとだけ言って帰って行った。だから、明日また来るだろう、その時会う気はあるか?嫌なら俺とメイシーで対応するし、心配しなくていい。だからリイン、あんたはどうしたい?」
また明日、お父様が来る。
なら、私の答えはもう出ているよねと自分で自分に問いかけて、ゆっくりガルドさんに頭を下げる。
「会って話そう、と思います。あの、ただ二人きりはまだ怖くて………、だからその、近くに居てもらえたらって、お願い、できますか?」
返事の代わりに、私の手をガルドさんの大きな手が包んでそれが頑張れよと言われたみたいに感じて、落ち着いていた涙が復活した。
戻ってきたメイシーさんに、私がまた泣き出していたものだからガルドさんは床に正座で怒られて、ちょっぴりしょんぼりしていたのは何だか可愛かった。