No Title.
だれもいない。
携帯電話が「どこ?」と言うと、とても小さな呼び出し音が返ってくる。
私が「どこ?」と訊くと、だれの声も吐息すらも返ってこない。
耳に押しあてる。
かすかな返事が遠く聞こえる。
廊下を歩く。
橙色の廊下を歩く。
床も蛍光灯も窓も窓の外も橙色をしている。
私と携帯電話と、携帯電話の相手だけが橙色くない。
声が大きくなる。
近づいている。
近づいている?
ああ、近づいている。
階段をのぼる。
ますます大きくなる。
いきどまり。
いきづまる。
壁を押してみる。
ぐぅっと押す。
壁にうもれた扉がひらく。
いちばん大きな音で返事が返ってくる。
いちばん大きな声でも返事は返ってこない。
だれもいない。
いきができない。
いきぐるしい。
いきぐるしい。
言葉のないふたつを残して、
私もなくなる。
目蓋を開く。見覚えのある廊下に立っていた。けれど、よく似てはいるけれど、記憶のままのその場所ではなかった。床も、壁も、天井も、窓さえも全て卵色の温かな質感のものでできていて、あたかも単色の広がりに単純な線を引き、閉じられたら空間であると見せかけているようだった。線と面で構成された空間はのっぺりとして、それでも、平坦に均された今いる場所がよく知る廊下であるとわかった。
視線を落とし、当時と同じ詰め襟の制服を着ていると気づく。同じ。そうだろうか。廊下は廊下だと明確に認められるのに、袖を通し肌に触れ、あの場で最も近い物であった制服には全くといって親しみを感じられなかった。
右手に携帯電話を持っていた。二つ折りの、金属的な黒色の塗装が剥げて傷だらけの携帯電話。液晶にノイズが乗るようになってからは目覚ましにも使えなくなった、人生で最も濃密で苛烈な三年間を共に過ごした想い出の品だ。この自己の意識さえも曖昧な場所で、手の中の携帯電話だけが堅固な存在を有していた。
右手は携帯電話を開き、番号を押し始める。指の動きは淀みない。登録データを確認せずとも身体が覚えていた。耳に当て、目を閉じた。切れぎれに繰り返す電子音が聞こえる。それがこちらからの呼び出し音ではなく、電波で繋がっている相手からの応答だと気づくのに理由が必要だろうか。迷うことなく、音の大きくなる方へ足を進めた。
もしもし。どこ?
呼び掛けてみるが声も吐息も返ってこない。ただ、携帯電話への返事だけが歩みに合わせて少しずつ大きくなる。携帯電話を強く耳に押し当てる。微かな声が遠く聞こえる。
廊下を行き、端に行き着く。上階への階段が伸びていた。あるべき手摺りは壁に埋没し均されていて、壁も窓も階段も踊場も、やはり柔らかな卵色をしていた。右手の携帯電話と、携帯電話の相手だけが卵色くない。
一段目に足を乗せる。返事の雑音が途端に消えた。確信を持ち、屋上を目指す。階を重ねるごとに返事はますます大きくなる。
行き止まり、行き詰まる。
屋上への扉があるはずの場所に、卵色の壁がのっぺりとある。左の手のひらで触れる。温かい。温度がゆわりと肌に溶け込む。そのまま壁を押す。ぐうっと押す。壁に埋もれた扉が開く。
屋上に立った。一番大きな音で返事が返ってくる。
もしもし。どこ?
一番大きな声でも返事は返ってこない。
誰もいない。
息ができない。
息苦しい、いきぐるしい。
言葉を持たないふたつを残して、私もなくなる。
違う。
からだをほどく。
手をのばす。
目を開く。
僕はここにいる。