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紅葉と桜と猫。

作者: 悠梨

 空気の澄んだ夜だった。とても冷え込んだ晩だった。 首輪の鈴に細心の注意を払いつつ、猫はそっと布団を抜けた。隣で寝息を立てる主を起こさぬように。

 そっと爪を引っ掛け障子を開けば、寝待ちの月が冴えわたっていた。音すら聞こえてきそうなほど、硬質な光。

 夜風が吹き渡って、さやさやと猫の黒光りする毛並みを撫でてゆく。冬ほどの鋭さはまだそこには無いが、冷たい風だ。それにふと、背を撫でる主の大きな手の感触を思い出した。彼の手は冷たいことが多い。手が冷たい人間は心が温かいとは、さて誰の言葉だったか。

「ん……」

 背後で声がして、首だけ振り向ける。

 月の光と冷たい風に、眠っているはずの主が微かに身じろいだ。廊下に踏み出して、猫はそっと障子を元通り閉める。猫歴も長くなれば、このくらいのことは余裕である。もうすぐ尾も二つに割れて来るだろう。

 踏みしめた木の床は冷たく、肉球が引き締まる想いだ。少しの間じっと座って目を閉じて、月の光を浴びる。

「じじくせー猫だな」

 声がしてふと目を向ければ、隣の部屋の障子が開いている。そこからにょきり、と長い腕が突き出して、ひらりひらりと手招いてくる。

 猫は大きく息を落とした。景気づけに欠伸を一つ、尾をふわりふわり振り歩く。開かれた手の平に頭を擦りつけてやれば、その手が滑るように動いて首元を撫でた。

 ちりり、と小さな鈴の音。

 主とは違えど、大きな手だ。そして暖かい。赤い目を細めれば、勝手に喉がゴロゴロ鳴った。それに手の持ち主が鼻で笑う。

 あ、と思うが早いか、もう一本腕が突き出てきた。前足の下に差し入れられて、持ち上げられる――浮遊感はほんの一瞬。


 気がつけば自分と同じような赤い瞳が月明かりを弾いて目の前にあった。


 まじまじとみつめられて、真正面から見つめ返す。だが猫としては珍しいそんな行動に対しても、彼はわずかに口角を上げるだけだった。

「おい、お前。話せるんだろ、ヒトの言葉。何か話してみろよ」

 鼻と鼻がくっつきそうなほどの距離。吐息が顔にかかる。熱い。熱でもあるのではなかろうか。

 そんなことを頭の片隅で思いつつ、猫はわずかに口を開いた。息を吸って、ほんの少し間を溜めて。

「にゃぁ」

 相手に期待を持たせた上で、小さな猫の声で普通に鳴いてやった。

 それにこちらの予想通り、彼は大層つまらなそうな顔をした。

「んだよ、面白くねぇ」

 腕が疲れたらしい、そっと畳の上に降ろされた。俯せから仰向けにごろりと寝返りを打ち、顔に腕を乗せる。

「……ッと、面白くねぇ」

 鋭く光を弾いていた赤い瞳は見えなくなる。口元は引き結ばれているが、頬は赤く呼吸は早い……やはり熱があるのだろう。

 そっと傍にすり寄って、肌蹴た浴衣の胸の上に半分だけ身体を乗せた。驚いた彼が首だけもたげて、こちらを見る。見開かれた赤い瞳を再びまっすぐ見返して、

「にゃぁ」

 鳴いた。先ほどより、ほんの少しだけ力を込めて。

「……重いっつーの」

 降りろ、くそバカ猫。悪態を吐かれても、どこ吹く風。自分は猫だ。猫なのだから、ヒトの言葉は分からないのだ。そういうことにしておけばいい。ああ、今日は本当に月が綺麗だ。撫でられなくとも喉は勝手に低く鳴る。

 ごろごろ、ぐるぐる。それが彼の身体の中に共鳴して、自分に返ってくる。心地よい振動に、いっそう猫の喉は鳴った。

 赤い目を細めてそうしているうちに、やがて彼もくたりと首の力を抜いた。ぼんやりと天井を仰ぎ、額に手を当て大きく息を吐く。

「ったく……」

 ホント、バカな猫。

 何とでも言えばいい。好きでこうしているのだから。

 気にも留めず涼しい顔してごろごろ言ってるうちに、彼の吐息が沈静化していく。ようやく眠りに落ちたらしい。月明かりに照らされる寝顔は思った以上に幼い。それを少しの間見守ってから、猫はそっと畳へ降りた。

 通り過ぎざま、一度だけこっそり顔を覗き込んで鼻に鼻をくっつけた。

 彼の眉根が少しだけ寄ったが、それもほんの一瞬のこと。音も無く廊下に出て障子を閉めると、猫は庭に飛び降り歩き出した。

 ちりり、と鈴の音が尾を引いた。


 昨日の雨に土は冷たく湿り気を帯びて、肉球に吸い付いてくるようだ。鼻をひくつかせつつ、猫は気ままに歩く――とはいっても行き先は決まっているのだけれども。

 高く低く。風が耳元で渦を巻く。足は止めずに、ぱたぱたと耳を数回はたく。

 闇の黒と、雲間から除く月明かりの白。その中を悠然と歩いて行けば、やがてその色彩が少しずつ変わり始めた。





――赤と薄紅。





 風に舞うのは花と葉。

 最初はひとひら、ふたひら。

 それがやがて数を増して、まるで雨のように。


 本来なら隣り合うはずの無い色彩。落ちたそれらが地を埋める。それを猫は踏み分けて、淡々と歩き続けた。


 やがて足を止め見上げたその先に、二本の樹。

 片や赤に、片や薄紅に重たげに枝をたわめ、さらさら、はらはらと鳴る。

 座り込んだ猫の黒い毛皮に、そのありえない組み合わせの二色が乗る。だが気に留めもせず、猫は口を開いた。




「なぁぁぁぁーーーーーん」




 澄んだ鳴き声は、花と葉と共に風に乗る。

 そこで雲がちょうど切れて、月が樹と猫を照らし出した。光が、細められた猫の目の中で乱反射する。その光を遮るように、

「お、よく来たな。元気してたか?」

 猫の小さな額に大きな手が伸びた。むしろそれに自分から顔を擦りつけるようにして、猫は赤い目を細めた。喉の鳴る音を耳にした手の持ち主が、小さく笑う。

「尻尾はまだ割れてないのか」

 うん、それにはもう少しかかる。心の中だけで返事をした。

「そっか残念。早くお前と直接言葉で話が出来るようになればいいのになぁ」

 男は笑いながら二本の樹の間にどかりと胡坐をかいた。

 傍らには銚子と杯。

 ぼんやりと月を見上げている男に寄り添うように、黒猫も座る。注いだ酒の上にひらりひとひら、桜の花びらが乗った。

 そのままぐいと杯を干し、そういえば、と彼は声を上げた。

「今年はアイツ、来てねぇの?」

「なう」

 さっき声はかけてきたけど、あの熱では動けないと思う。

 そう答えると、そうかと一言落として寂しげに笑う。

「結構楽しみにしてたんだけどな」

 それにふと黒猫は考える。


 さていつの頃からだったろう。こうして紅葉と狂い咲きの花の下、年に一度彼が酒を飲むのに付き合うようになったのは。






 一番最初の記憶は、空だった。

 丸い月の浮かぶ空が四角く切り取られていた。

 自分は小さな箱の中にいて、ただ力なく鳴いていた。

 寒い寒い夜だった。

 つかれた、ねむい。もういいか。そう意識を手放そうとしたときだった。暖かい彼の手が、自分をそっと包み込んだ。

「――」

 何か声をかけられたのだけれども、思い出せない。ただ着物の袂に入れられて、暖かくてふわふわしたところへ連れて行かれた。

 顔と身体をぐしぐし拭かれて、ミルクを与えられた。彼の子が、それを横から目を丸くしてみていた。腹が満ちて心地よくて、うとうととしていたら背を優しく撫でられた。

 それから彼の子が結婚して、孫が生まれて、その孫がまた子を生して――猫はそれをずっと見守って生きてきた。

 そしてある日ふと気づいた。



 彼はもう居なかった。



 猫はひどく慌てた。

 家を何日も空けて、ご飯も食べずに当ても無く外を探し回った。

 ずっと家の中で生きてきた猫の肉球は柔らかかったが、歩き回るうちに皮が剥け血が滲んで、やがて硬くなった。

 暑い日も寒い日も、雨が降っても嵐が来ても、雪が大地を覆っても。ただひたすら猫は探し続けた。



 だけど彼はどこにも居なかった。



 ああ疲れた。もういいか。

 いつぞやのようにそう思って、猫は手足を折りたたんだ。そのときだった。

「こんなところにいやがったのか」

 聞き覚えのある声がして、彼によく似た子どもの顔が視界一杯に広がった。かと思えば襟首を摘み上げられる。

「手間かけさせんじゃねーよこのバカ――うわ、お前ずいぶん汚れやがって」

 艶を失った被毛に嫌そうな顔をして、それでも子どもは自分を着物の袂へと入れ、冷たい雨の中を傘を片手に歩き出した。


 その晩、猫は熱を出した。

 雨に打たれた時間が長かったのかも知れないし、久々の"家"で、気が緩んだのかも知れない。

 ぶつくさ言いつつも、自分を連れ帰った彼の子孫は自分の世話を焼いてくれた。身体を綺麗に拭いて、栄養価の高いウェットフードを用意して。トイレの砂は綺麗に替えてあった。

 しつらえられた寝床で、うとうとし始めたところだった。


「――」

 懐かしい声を聴いたと思った。


 うっすらと目を開ける。家人たちの寝静まった家の中、黒猫の耳には彼らの寝息しか聞こえない――

「――」

 いや、でも確かに。その声は。

 そっと身を起こし障子を開き、廊下へ出た。

 雨は上がり、空気は冷たい。雲の切れ間からわずかに覗くのは、今日のような寝待ちの月だったように思う。

 熱で朦朧としたまま、冷たい廊下をひたひた歩く。懐かしい声の聞こえる方へ。

 りぃんと響く首輪の鈴の音にまで気が回らなかった。

 庭へ降りて、夢の中にでも居るかのような心地で。水溜りがあることにも気づかなかった。危うく踏みそうになったところで、前足が空を切った。

「ったく、またお前脱走かよ」

 先ほど連れ帰られたときのように首根っこを摘み上げて、子どもが片眉を跳ね上げた。舌打ちを一つ。

「手間かけさせんじゃねーっつってんだろ。まだ熱下がってねぇみてぇだしよ」

 そのまま屋敷の方へと帰ろうとする。

 猫は慌てた。必死で身を捩って、腕から抜け出そうと試みた。力の入らぬ身体ではそれも叶わなかったが、童は猫の動作から何かを感じ取ったらしい。

「……んだよ、ったく」

 あっちに何かあんのか? そう口を開きかけ身を翻して、固まった。

 見開かれた自分と同じ色の目が、何かに釘付けになっている。視線の先を辿って、ああ、と猫は息を吐いた。






赤と薄紅――紅葉と桜。






 月明かりの下、葉と花びら風に舞い惜しみなく降り注ぎ、地をまだらに染めている。

 その光景に目を奪われ、童の腕の力が緩む。その隙に地面へと降り立って、猫は歩き始めた。引き寄せられるかのように子どもも後に続く。

 立ち止まって見上げて、耳を研ぎ澄ませる。

 さっきまで聞こえていたはずのあの声が聞こえない。だから呼んだ。




「なぁぁぁぁーーーーーん」

 万感を込めて。






 風が吹いた。

 ざらりと音を立てて葉と花が舞い上がった。

 咄嗟に子どもが目を顔を庇ったが、猫はじっと見ていた。待っていた――彼が、その手が、自分の額を撫でるのを。柔らかく優しく暖かく、大きなその手が。

「――元気にしてたか?」

 声をかけられて、もう一声鳴いた。

「誰だあんた」

 ようやく風が落ち着いて、顔を庇う腕を下ろした子どもが彼を見上げて尋ねる。不機嫌そうに顔を歪めて。それに彼は楽しげに笑って、猫を撫でるのとは反対側の腕を伸ばした。

「おー坊主ーお前も元気そうだなー。お前が今のコイツの飼い主か?」

 くしゃくしゃと頭を掻き混ぜようとしたところで、乾いた音が響く。子どもが彼の手を拒み、弾いたのだった。

「違ぇし、気安く触んじゃねぇよオッサン――つかガキ扱いすんじゃねぇ!」

「つれないなぁ」

 俺、お前のじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんの――あれ何回じいちゃん言ったっけ? ええと。まぁとにかく、お前のじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんくらいなのに。

「……オッサン幽霊かよ」

「そうともいう」

「何しに化けて出やがった」

「出来の悪い孫の孫の孫の孫の孫を懲らしめるためかなー」

 はん、と子どもが鼻で笑った。暗く歪んだ赤が、鈍く光る。

 ほんのひととき、猫はその赤から目が離せなかった。

「やれるもんならやってみろよ。どうせ俺はヤツと違って出来損ないだからな。今ここでアンタに祟り殺されたって、悔いは無ぇ」

 それに彼は一瞬だけ目を大きく開いた。僅かに瞳孔が開く。月の明かりが入って虹彩が金色に光を弾いた。

 それはまるで。

「残念。俺はそんなに甘くはねぇよ坊主」

 まるで大型の猫化動物のようだと、猫は思った。







「あの頃のアイツは可愛かったなぁ」

 それがどう転んだら、あんなになるんだか。

 浮かんだ花びらと映した月ごと杯を干して、彼は笑う。目尻に皺を作って。

「お前はいつまで経っても変わらないなぁ」

 ま、俺も人のことは言えないけど。

 銚子を傾け、最後の一滴と共に小さな呟きを落とす。

「――……」

 その言葉に猫の赤い目が満月のように真ん丸になった。

 かと思えば、ひときわ強い風が吹く。

 赤と薄紅が逆巻いて舞い上がる中、彼が最後の杯を煽って立ち上がるのが見えた。いつぞやのように目が金色に光る。

「なぁぁぁぁーーーーーん」

 猫が立ち上がって鳴いて、金色は優しく細まった。

 葉と花びらと共に、彼の姿が風に解けた。

「なぁぁぁぁーーーーーん」

 もう一声、ひときわ高く高く、猫が鳴く。それが首輪の鈴の音と共に風に乗った。障子の向こう、熱に浮かされ夢うつつのままそれを耳にしたかつての子どもが、さて何を思ったかは猫にも分からない。

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