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恐らく何一つ不自由なく生きている人間は、自分の死というものへの関心が薄い。
必ず最後には訪れる刻なのに、家族、親戚、近所、テレビ、インターネット……”死”というものがそこらかしこに溢れるこの世界で、警戒するどころか恐ろしく無防備に行動する。生と隣り合わせである”死”を、驚く程他人事に捕らえている。
それが、恐怖のあまり無意識に避けているためなのか、与えられた生を謳歌すべく死という概念に囚われないよう行動している結果なのかは判らない。
それでも”死”というものに触れた時、ようやく人はうすらぼんやりと己の死について考えをめぐらせる。自分の死とはこんなものだろうと、希望にも似た想像をする。ぽっくり逝きたい。家族に見守られて老衰。でもあまり長くは生きたくないな。エトセトラ……。
しかし、いざその場面に直面してしまった御子柴惣一は、自身を襲うあまりの光景に現実である事を拒否しようとした。
勿論、”死”というものが、予告もなしに訪れる理不尽なものであるという理解はあった。一見頑丈そうに見えるこの肉体も、病気や交通事故、通り魔など、日々テレビが伝えるような不幸に見舞われる事で驚く程あっけなく壊れ、死に至るのだろうという事も想像していた。しかし、今置かれている状況は素直に”死”を受け入れるには、なんというか……あまりにも非現実的だった。
なんかこう……ゲームなんかで見るような大剣が、背中から自分の胸を貫通してたりするわけだ。
「…………どういうこと?」
間抜けな言葉が思わず漏れた。あ、この状態で喋れちゃうんだ。ってことは、これってやっぱ夢? どくんどくんと心臓は早鐘のように煩く鳴るのに、頭はどこかぼぅっとしている。思考が鈍っている。痛みも感じない……って事は、これ相当やばいんじゃね? 焦りに似た感情が胸の奥で疼いている。
それでも網膜は一寸も余所へ逸らすことなく律儀に、胸から生えた銀に光る剣先を映し続けていた。あたかも、いい加減に現実として受け止めろ、と言わんばかりに。
じわじわと痛覚が疼き出した。あ、やっぱやばい、やばいって。早く、早くなんとかしないと絶対死ぬ。でも、なんとかって……?
回らない頭で惣一はそれでも状況を把握しようとする。わからないまま死んだらきっと気持ち悪い。つまりはこれ、夢なの? 現実なの? 思考が追いつかない。誰でもいい、誰か。俺の質問に答えてくれ――
「どういうことも何も、目にした世界が全てだ」
背後からハキハキとした高い声がかかった。
距離は恐らく一メートルも離れていない。なに、そんなに傍にいるんなら助けてくれよ。惣一は振り返ろうとした。しかし、体は金縛りにあったように動いてくれない。
「現実を受け止めろ。おまえはもう、終わる」
声に応じるようにどくんと、一際大きく心臓が踊って、直後、全身をバラバラに裂かれるような痛みが惣一を襲った。頭の中でチカチカと鳴る警告の赤。同時にすぅっと意識が遠のいた。
……んで。
結局なんで、こんなことになっちまったんだ?
ぽつんと浮かんだ素朴な疑問に、僅かに踏みとどまった意識は今日一日を大急ぎで記憶から検索する。あぁ、これが走馬灯ってやつかな。惣一はぼんやりと思った。
朝。一秒たりとも無駄に出来ない忙しい時間帯に、しかし御子柴家の両親は、盛大に別れを惜しんでいた。
「だぁから離れろ! 遅刻するだろ!」
「だって、だって……、今日でそうちゃんとお別れかと思うと私……私……!」
「そうだぞ惣一! 惣一は悲しくないのかい? 泣いてはくれないのかい? なんて薄情な息子だろう、父さんおまえをそんな子に育てた覚えは無いぞ!?」
「たかだか一週間、海外旅行で家離れるだけだろうが!」
「やっぱりそうちゃんも一緒に……!」
「学校なんか休んで……!」
「だぁら週末試験があるんだって……何度も言わせるな!」
首周りにぶらさがる両親を引きずって惣一はなんとか玄関に足を運んだ。
「せっかくの一等ペア旅行券が泣くよ? 俺は大丈夫だから楽しんでこないと。抽選券くれた飯沼にも悪いじゃん」
靴を履くと泣いている両親を順に引っぺがす。
「だって私、心配なんだもんそうちゃんが……!」
細面だが造りは男顔な母親はご近所でもクールビューティなどと評判ではあるが、外見の与えるイメージとはまるでかけ離れた性格をしていて毎度初対面の人間を驚かせている。マイペースで極度のおっちょこちょい。単独行動を周りが許してくれないとよく井戸端会議でぶーたれているそうだが、惣一からすれば自業自得である。危なっかしくてこっちの心臓が持たないのだ。
「心配はありがたく受け取っとく。だから行ってこい。つうか、高校生が留守番一つ出来ないでどうするって話。な、父さんは俺をそんなヤワな子に育てた覚えは無いだろ? 遅刻するようなだらしの無い子供に育てた覚えは無いんだろ?」
表情を緩めない母親の説得を諦め、濃紺のブレザーの襟を正しながら惣一、彼女の隣に立つ父親を見上げる。
惣一の父親は家から自転車で十五分ほど行った先の駅近に建つビル内に構えた指圧店を経営している、平凡が服を着て歩いている……という感じの、さして特徴のない人間である。中肉中背で灰汁のない面。客商売だからか元からなのか愛想がよく、目尻には深い笑い皺が刻まれている。服もシンプルなものを好み――というか、御子柴家の三人の住人は、三人とも服にこだわりがない。惣一も、母親が勝手に買ってきてはタンスに忍ばせる服を適当に着ている。ちなみに彼女の贔屓ブランドはユニクロだ。
惣一の言葉を受けて一瞬言葉に詰まった様子の父親。だが、慌てたように首を横にぶんぶん振ると惣一の両肩をがしっと掴んだ。
「そりゃあ惣一はもう高校生だ。留守番くらい訳ないだろう。僕達がいなくたって一人でも正しい道を見据えて進んで行くのだろう。僕達も君を信じていない訳じゃあない。でもね、どうしたって心配なんだよ。親のために遅刻してしまうような子は決してだらしのない子供じゃないぞ。いや、どんな子だっていい。惣一だからこそ、離れたくない、失いたくない、ずっと見ていたいと思うんだ」
げんなりした様子の惣一の瞳には芝居がかった力説をする父親が、自分に酔っているようにしか映らない。
二人の最大の特徴である心配性が発揮されるのは今に始まったことではないのだが、今回は……なんというか、異常な程だ。まぁ、息子残して海外旅行なんて初めての事だもんな、しゃーない事かもしんないけど……。眉間に皺を寄せつつ惣一は溜息交じりに口を開く。
「毎度のことだけど二人とも、いちいち大袈裟だよ。今生の別れって訳でもあるまいし……」
何気に視線を移した先――靴箱の上には、上品な造りをした木製の置時計が鎮座している。みるみる惣一の顔が青ざめる。寝坊後慌てて靴を履く際、視界の隅でチェックする――その最遅時刻をも軽くオーバーしているではないか。
「って、本気で時間やばいから! じゃあ二人とも一週間後にまた! 土産期待してるから!」
「そうちゃん! いかないで!」
「そういち! そういちぃぃいー!」
両親の絶叫の中、勢いよく扉を開けると門前に集まっていた近所の住人の目を避けるように俯き前かがみの体勢のまま、惣一は全速力で家から離れた。途中振り返って両親が追いかけてこない事を確認すると、腹の底から盛大な溜息を吐いた。
「……………………どこの世界名作劇場だよ……」
親父達、このこと知ったら……泣くだろうな。死ぬ程。目に見えて……あぁ、段々頭痛がしてきた……。
「おはよう。御子柴君」
降ってきた優しい音色に、生温い風と揺れに眠りに落ちていた惣一の意識は市バスの車内に引き戻された。見上げると目前に飯沼一華が立っていた。一瞬夢かと思って呆けてしまった惣一。不思議そうに首を傾げた一華が口を開く前に覚醒すると慌てて背凭れから体を離す。
「あぁ、はよ……飯沼。寮生のくせに今日も実家から来たんだ」
声をかけると凛とした細面が、ふわりと笑む。
「うん。週末は家に帰る様言われているから。御子柴君はいつもこの時間なのね」
「このバス逃すと結構ヤバい時間になっちまうからな」
言いながら惣一は席を立った。
「座る?」
「いいってば。何度も言っているけど私、立っているのは嫌いじゃないの」
「俺も立つの嫌いじゃない。ならなんで座ってたのかって理由、一応あるんだけど……」
「それ、何度も聞いたわ。でも、悪い気がして」
「俺が勝手にやってることだよ。ほら飯沼。早くしないと……」
言い終わらぬ内に、小学生が二人、するっと空いた席に滑り込んできた。
「ほら、な? 結局いつものパターンだ。こいつら、こうなるってわかってて狙ってるんだぜ?」
冷やかす小学生を半目で睨む惣一に一華がふきだした。腰まである長い栗色の髪が揺れる。あぁ、やっぱ俺、この顔好きだな。困った顔をして笑う一華の横顔をしみじみと惣一は眺める。
本当は、バス一本遅らせた所でまだ時間に余裕はある。しかも月曜以外の惣一はいつも気ままな自転車通学だ。人込みが苦手なはずの惣一が、それでも週明けのこの満了御礼バスを逃してしまえば、たったそれだけで後の一週間が大きく異なってくる。明るく過ごせるか怠惰なものになるか。週一、数分の早起き位、訳のないことだ。大袈裟に言えば。多分自分はこの時このバスに乗る事を目的としてそれ以外の時間をこなしている。
ようやく十一月の暦が様になった窓の外の景色。艶やかに色づいた街路樹は徐々に裸に、歩く人々はより厚着に。薄手のコートの襟を正すサラリーマンの横を北風のようにバスは追い越してゆく。ついこの間まで、だらだらと続く長夏に辟易していたというのに、いつの間にか世界は冬の訪れを容認していた。人の都合などお構いなしに進む季節を一華の横で眺めながら、ふと惣一は今朝の騒動を思い出していた。
「そうだ。飯沼、ありがとうな」
「……何の話?」
「ほら、こないだの抽選券。あれで海外旅行が当たったっつったじゃん。親父達、今日出発なんだ」
「お礼なんていいの。私の家、抽選券をたくさん貰ってしまって困っていた所だったし。御子柴君が貰ってくれて助かったの。それに、一等賞を当てたのは御子柴君家のおば様でしょう?」
「抽選券がなきゃそもそも当たらなかったって」
「見かけによらず律儀よね。御子柴君て」
「昔っから親がいろいろ煩くてさ。その賜物だよ。今日だって……って、何、その見かけによらずっての」
「そのままの意味」
くすくすと笑う一華にそっぽを向く。
「……どうせ、飯沼は『見かけどおり』だよ」
拗ねたように小さく言葉を吐くと惣一は横目で隣を盗み見た。惣一の通う学校のさらに奥。丘の上に威風堂々と建つ聖武女学院の、なんだか上質な生地で出来た珍しい形のセーラー服が、まるで彼女をモデルとして作られたのではと疑ってしまうほどに似合っている。華奢な背。すらりと伸びた陶器のように白い手足。ふわふわした栗色の髪は腰まで伸びて、その隙間から覗く横顔は――ようやく顔を見慣れてきたはずの惣一でも、未だにはっと息を呑む程整っている。大きな強い瞳が、視線に気づいて惣一を見た。
「どうしたの?」
首を傾げて惣一を見上げる。たったそれだけの動作に惣一の心臓は高鳴り、頬や耳が瞬時に熱くなった。
「いや……その、…………ほら。飯沼と最初に会ったのもここだったなぁと、ふと」
そう。
その時から惣一にとってこのバスは特別なバスになってしまった。
「そうね。半年位前だったかしら」
視線を虚空に漂わせながら、一華はなんでもないことのように紡ぐ。
……”特別なバス”は、俺だけか。気づかれないよう息を吐いて。気を取り直して正面を見た。
「飯沼がハンカチ落さなかったら俺達、言葉を交わすこともなかったんだろうな」
「さぁ。どうだろ」
「お互い顔も知らないままでさ」
「…………私は、以前から御子柴君の事知ってたんだけどな」
「え?」
ぎくっとして、一瞬、時が止まった。
……ような気がした。
すっと細い指先が伸びて、惣一の正面にあったボタンを押す。音が鳴って、車内にある全てのボタンが一斉に点灯した。惣一の視線を受けて、一華はにこりと笑んだ。
「次よ。御子柴君の学校」
印場高校門前で停車したバスを降りた惣一は、バスが去った後も、同じ制服を着た生徒達が門に吸い込まれていく中、その場に立ち尽くしていた。
――飯沼……さっき、前から俺のこと知ってたとか言ってた…………? ……それって、もしかして…………いやいやいやいやあほか俺。相手は、我が校始まって以来のド変態達が集ったと言われる新聞部改め、アイドル発掘し隊の発行する『美少女図鑑(県内版)』の表紙を毎回飾るあの飯沼一華だぞ? そんなわけがないだろ……うん。そうだ、…………でも……。
「うはよー。月曜恒例、棒立ちミコちゃん」
「また何ぼさっとしてんだよ惣一!」
背後から奇襲をかける悪友ども。
毎日見る印場高の校門。
校舎。級友。そして、帰り道――
――走馬灯どころか、今日一日を頭に浮かべた惣一の意識は、消えるどころか徐々に覚醒していく。
……そうだ。学校帰り。今々。古いタバコ屋の前の交差点で俺は、いきなり突っ込んできた車に轢かれたんだった。
「…………い」
そして、背中から大剣で突き刺されて意識が戻った。
「痛いっつってんだよ……」
前後が通じない。
意識を失った一瞬で、一体何が起こった……?
「…………馬鹿な」
驚愕の高音が背中から――己を貫いている剣を通して惣一の意識に直接響く。
「おまえ。中に入ってまだ、意識を保っていられるのか?」
「……何わけのわからない事を……」
「状況がわからないのか?」
「状……況?」
言われて惣一は、先ほどまで自身を苦しめていた激痛が収まっている事に気づく。恐る恐る、視点を自身の胸に下ろした。――ない。先ほどまで、確かにこの胸から突き出していた剣先が……なくなっている。慌てて胸を撫で下ろした。傷どころか、出血すらない。うそだろ。両の掌を呆然と見下ろして、数秒。惣一は新たな異変に気づいた。
――正面に、自分を覗き込んでいる、大きな二つの黒目がある。
「……うわ!」
慌てて飛びのいた。尻餅をついて初めて違和感に気づいた。ぺたぺたと、地面、側面、天井を両の手で確かめる。惣一は透明な球状の物体の中に居た。いつの間に。
「な、なんだよこれ……!?」
かすれた情けない声が喉から出た。訳のわからない事ばかりで思考が追いつかない。惣一の頭は視覚、触覚、それから聴覚から与えられた情報を整理する作業でてんやわんやだ。早く現状把握、現状把握……。
「おまえが居るのは、一守の水晶球の中だ」
さっき聞いた音と同じ声が球体の中に響いた。ひょっとしてこの大きな目玉の主が話している……?
「いちもり? すいしょうきゅう……?」
呟くように声を上げると、大きな目は頷くように瞬きをした。
「水晶球は御霊を一時的に保管する巫覡具だ」
「……よくわからないんだけど。っていうか、あんたがデカイんじゃなくて、これ……、ひょっとして俺が小さくなってる?」
「まぁ、そうだな。おまえは一時的に私の式になっているという事だ」
「シキ?」
「式守という」
「シキガミ……って…………」
聞いたことのある単語だ。様々な情報が行き交いパンク寸前の頭を何とか宥めて、惣一は記憶を探る。確かホラー映画とか、そういうので……。
「おまえはどうやら比較的冷静な状態を保っているようだが……突発的な死によって志半ばで命を絶たれた御霊は死の直後、状況が解らずに暴走するものなのだ」
「……死って。…………俺、死んだのか?」
「やはり記憶が混乱しているようだな。そこを見てみろ。水晶球に入った今なら冷静に見れるはず」
言って、でかい二つの目はいなくなった。代わりにどこかで見たような風景が飛び込んでくる。
いつも通る交差点の――そこは事故現場だった。一台の乗用車が角のタバコ屋に突っ込んでいる。少し離れた位置に人盛り。時折隙間から見えるのは大量の血に染まった見覚えのある紺色のブレザーを着た人物の四肢――
「もしかしなくても、あれは、俺……なんすか?」
引き攣った表情になっているのが自分でもわかる。球体に両手をついて食い入るように見ていた惣一の頭上から、やはり冷静な高音が降ってきた。
「つい数分前の事だ。車が突っ込んできて信号待ちをしていたおまえを轢いた。おまえの体は数メートル離れたあの位置までかっとんで……即死だ」
「…………」
記憶にあるような、ないような……。覚えているのは気怠い帰り道と、それから、身体を襲った強烈な痛みだけだ。そしてあの……大剣。
「……一つわからないんだけど」
「なんだ」
「……俺、交通事故で死んだんだよな?」
「ああ。私の目の前で吹っ飛んでいった」
「なんで剣が貫通してたわけ? 俺今そこら辺りの記憶がないんだけど」
「刺したのは私だ」
「……は……!?」
惣一は声を振り返った。見上げた先には女の子の姿があった。肩まで真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪と、大きなつり目が特徴的な、まだあどけない少女の顔。……やっぱり異様に巨大だが。
黒い無地の着物に身を包んだ少女の瞳は、惣一の身体を囲んで大騒ぎしている人々を見ていた。
「言ったはずだ。御霊は死の直後、混乱して暴走する。故に私はその場面に遭遇した場合、御霊を先ず水晶球に入れ、状況を説明した後で昇天させるようにしている。おまえが見た剣は『竜角』。自分よりも高い霊力を持つ御霊を水晶球に取り込むために私が用いている竜駒だ」
「……要するに。俺。この後、成仏させられるわけ?」
「順当に行けばそうなる」
惣一の言葉に視線を戻した少女は、無表情のまま、こくりと首を上下に動かした。
「!? 馬鹿な、俺、まだ生きてるじゃん、成仏って……俺本当に死んじゃうじゃん!」
「話を聞いていたか? 既におまえは死んでいて、今のおまえの状態は御霊――ようするに幽霊だ。死の後に昇天だ。一緒くたにするな」
「同じことだろ! 昇天って、昇天したら、俺こうして話す事もできなくなるんだろ!?」
「存在自体が無くなる」
「いやだぁぁぁぁああ! ここから出せー!!」
絶望を落とす高音を打ち消すように腹の底から叫んで球体を力任せにバンバン叩いた。が、柔らかくて硬い……こんにゃくのような感触の透明な壁は、惣一の拳をその都度優しく包み込んで――破損するどころか皹一つ入らない。
真顔でその様子を見続ける少女。
「こうなってしまうから、水晶球に入れた。以上が事故後ここまでの経緯だ。理解出来たか」
「出来んわ!」
即答に、僅かに困った表情を示す少女。
「……厳密に言えば、ここから出す事は可能だ」
「! なら早く……!」
黒目はそこで惣一を真っ直ぐに見た。強い眼差しに貫かれて、言いかけていた言葉を思わず飲み込む。
「しかしおまえの肉体は壊れている。この水晶球以外、どこにも還る場所はない」
「…………壊れてるって……」
「幽体――おまえの今の状態の事だが――にダメージが無かろうが、壊れた体には入れないという事だ。どんなに霊力が高い者であろうと、どんな術を使って肉体を復元したとしても、どうしたって一度切れた魂の命糸を癒着させる事は出来ない。それが"死"というものだ」
「………………死」
「御霊のまま現界を彷徨うと、悪霊に取り込まれたり、場所や生人に固執して自身が悪霊と化したりする。そうなってしまったら昇天も叶わなくなってしまう」
「……そういうの、なんか……ホラーとかで聞いた気もするけど……。あんた、霊能力者とか、陰陽師だとか、そういうの?」
「精通しているのなら話が早い」
「え?」
「おまえに害を与えるつもりはないのだ」
黒瞳から険が取れた。
「私はおまえを救うためにここにいる。一緒に来い」
「…………救うって」
「無論、昇天させる事だ」
それって……あんまり救われないような…………。思ったが惣一は口にしなかった。目の前の瞳が、あまりにも優しかったからだ。
きっと、こいつの言っている事は本心だ。この訳の解らない喪服女は、本気で俺のためになると思って言っている。
俺……死んじまったのか……。惣一は自身の両手を見る。全く実感がない。記憶が無いからしょうがないのかもしれないが、それにしたって現実味がない。今、球体に閉じ込められている事もだ。心のどこかでまだ、これは現実ではないと思っている。世界が自分を騙しているような。次の瞬間ではっと目が覚めて、なんだ夢かとホッと胸を撫で下ろしている自分が見える。説明をしてくれたこの少女が信じられないわけではない。自身が死んだという事実がどうしたって受け入れられないのだ。
「………………俺は」
言いかけたその時、人だかりから大きなざわめきが聞こえた。
「おい! しっかりしろ!」
「わかるか!?」
「どうしたんだろう……なんかあったのかな」
黒目を見上げるが、喪服女の横顔にも疑問の色が見て取れる。
その瞬間、一際良く通る男の声がした。
「救急車まだか!? まだ、生きている! 息があるぞ!」
応えるように聞こえてきた救急車のサイレン。けたたましい音に徐々に掻き消されていくざわめき。
「………………え?」
「………………………………え?」
二人は同じ方向を見て、呆然と立ちすくんだ。
「これはこれは……大変な事になりましたね」
遠くで回る救急車の赤いランプが点滅するように辺りを照らす中、路地裏に居た飯沼一華は背後に忍び寄った人物に振り返る。
と、風が吹き一華の長い髪を攫った。目を細めた隙に左手をとられる。自身を拘束した者をしかし一華は澄んだ目で射た。
「……相変わらず、貴女の瞳は意識を奪いますね。さて。こうしてお目にかかるのは幾度目になるのでしょう。私は、直接言葉を交わすのははじめての事だと記憶していますが」
黒髪を後ろで一つに縛った長身の男がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。線の細い女顔に張り付かせた仮面のような笑顔。見下ろされて、一華は僅かに眉を顰める。
「どういう意味?」
「なにがですか?」
「さっきの言葉と、それからこの手。貴方がこんな所に居る事も」
「意味することは一つだと思いますが」
「…………」
「導きと。監視ですね。竜駒巫覡として当然の働きかと」
「…………そう。私と同じと言うつもりなの」
「違いますか」
「ええ。勘違いです。貴方だけの。……無理もないけれど」
「へぇ。やけに含みのある言い方ですね。思ったとおりだ、貴女と居ると退屈しない」
一華は諦めたように小さく息を吐いた。その困った表情を黒い長髪の男は楽しげに眺めている。
「楽しみだな。これからは貴女の色々な顔が見れる」
「一つだけ、いいかしら」
「なんなりと。竜玉」
「貴方の言う『監視』を続けるつもりならそろそろ手を離した方がいいと思うの。すごく目立ってるから。私達」
「これは失礼」
おどけたように声をあげると男は大袈裟な素振りで両手を揚げて一華の手首を離す。瞬間、頭上から男へと向けられていた殺気が薄れた。やれやれと肩を竦めてから、男は改めて一華と、彼女の視線の先を視界に入れる。
「護衛はともかく、彼らは気づきませんよ。それどころではなさそうですし」
「そうね。……でも、もう」




