隣人
いくら私が人見知りが過ぎるからと言って、目の前でお年よりににこやかに挨拶をされれば、何のリアクションも返さないわけにはいかない。どうやら同じアパートの住人らしいと推測出来れば、尚更だ。
何号室の人だろう。『彼』を最初見た時に、そう思いながらつい会釈を返したのを覚えている。
「こんにちは」
年の頃は六十か七十の間だろうか、黄ばんだ皺顔にこめかみのシミが目立つ男の人だった。「初老」の言葉が相応しいかもしれない。優しそうな笑顔に愛想の良い声と、まるきりの人好きといった印象だ。
だからといってそれ以上世間話をしようという趣味は流石になく、ただ出会えば挨拶をするだけの関わり。会うのは決まって私が大学から帰宅する時。夕方四時から五時頃だったと思う。
ほとんどの住人に対して無関心な私は、このアパートに進学の為に越してきて二年目になるが未だに全ての住人に会ったことがない。四階建てとは言え一階に三戸しか入っていない小さなアパートだ。その二〇三号室が私の部屋。夕方大学から戻ってすぐにバイト先に向かうから、本当に帰宅するのはいつも夜更け。人に会わなくてもしょうがないと思う。
その日も大学から私がアパートに辿り着いた時、集合玄関のガラス扉を開けて出てくる彼──便宜上、『おじいさん』と呼ぶことにする。おじさんと呼ぶにはちょっと老けていたから──に出くわした。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶をしてくるのはいつも決まっておじいさんの方だ。言葉を交わす様になって半年くらいになるが、最近では私も笑顔を向け慣れて来ていた。実家にいる実の祖父がちょうど同年代くらいだろうと、勝手に思っていたからかもしれない。
「今日も寒いねえ」
おや、と多少驚きながらも「そうですね」と相槌を打つ。挨拶以外の言葉を掛けられたのは初めてだ。
続く言葉を探している内に、おじいさんは私が元来た方向へとゆったり去っていってしまった。上着は着ていたが、あまり暖かそうな恰好ではないのが少し気になる。今日は雪の予報はないが、冬真っ只中の北国は老体には応えるだろう。二十代の若造だって寒いのだから。
そう思いながらも自室に戻りバイト用の恰好に着替え再び外に出ると、今度は一階の奥の部屋の前でスウェット上下姿の小太りな女の人が、扉に貼り紙をしている姿が目に入った。
「ああ本村さん、貴女最近何か変わったこととかない? 不審な人を見かけたとか」
彼女は私に気づくなり、挨拶もそこそこに早口で質問してくる。一〇一号室の茅野さんだった。
貼り紙には『ドアノブに悪戯をしている人へ 通報してありますので警察官が定期的に巡回します やめてください』と書かれてあった。
聞く所によれば、ここしばらく自分の部屋のドアノブを捻る音が聞こえる、という悪戯に悩まされているらしい。
このアパートはL字型の造りになっていて、一桁目が一の部屋は他のものとは垂直に扉が向いている。しかも階段は一の部屋と二の部屋の間にあり、脇に集合ポストがあるのだ。
「覗き窓から見てみるんだけど、全く向こうが見えなくて。おかしいと思って外に出てみたら、ガムテープが貼ってあったのよ。だから警察に相談しようとしても、相手の人相がわからないの。本当頭に来るったらないわ」
茅野さんは私と同様独り暮らしだが、決定的に違う点が一つある。
非常に彼女は社交的で、ご近所付き合いを欠かさない。私と話をする様になったきっかけも、彼女が丹精している家庭菜園の作物を気まぐれに私が見ていたからだった。
「ご近所の皆と、この作物でバーベキューをするつもりだから参加しないか」と誘われたこともある。知らない人の間に入る気が毛頭ないので断りはしたが、何かと世話を焼いてくれるのは確かだった。時に有難迷惑な場合があっても、今時奇特な人なのは間違いないだろう。
特に不審な人物に心当たりがないのでそう答えると、茅野さんは腕組みをして渋面を作った。
「一応通報したし、大家さんにも話してはいるんだけどねえ。……大家さんも一体、いつ監視カメラを付けてくれるのかしら。おちおち眠ってもいられないじゃない」
貴女も気をつけた方がいいわよ、若い娘さんなんか不審者の格好の餌食になるのだから──というご忠告を有難くお受けして、バイトの時間があるからと会話を打ち切り外に出た。
正直、茅野さんはあまり好きではない。
押しが強いだけならまだしも、どこか行動のポイントがずれているのだ。
引越しの時の挨拶にしたってそうだった。彼女の趣味なのか手描きの水彩画の挨拶状が集合ポストに入れてあった。絵の巧拙はともかく、初対面の他人にこんなハートフル(?)なものを一方的に贈るのはどうかと思う。
確かにウチのアパート付近には最近空き巣が頻発していたらしいが、この件にまつわる茅野さんの心楽しくないエピソードがある。
監視カメラを付けて欲しいと切望する茅野さんは、費用を半分出すと言い出した。
その話を当人から聞いた時、賃貸契約上それは問題があるのではと単純に疑問を出した私を、まるで親の敵でも見る様な目で茅野さんは睨んだ。
いつもの愛想の良さとはまるで別人の様に、ガラリと口調も変わった。
「ああん? そんじゃあんたは、不審者に襲われてもいいってのかい」
「いえ、大家さんが全額出さないといけないんじゃないかと……」
監視カメラなら、アパートの備品になる。備品にまつわる費用は通常、敷金や礼金、家賃に含まれる筈だ。部屋を借りる時にトラブルがあってはと、ちょっとばかり勉強していた。
「そんなもん知らないよ。こっちはとにかく何とかして欲しいって言ってんだよね」
結局大家さんがカメラを付ける、と約束してくれたことで茅野さんは納得したらしいが、以来私は彼女が苦手になってしまっている。
そんなわけで早々に立ち去ろうとアパートのガラス戸を開けたその時、壮年の男性と鉢合わせた。
「あら、遅かったですね~。待ってたんですよ」
私が何か言うより先に、茅野さんのご機嫌な声が横から聞こえる。どうやら彼女の友達らしい。何度かゴミステーションで見た記憶があったから、近所にでも住んでいるのだろう。以前五十二歳だと聞いていたが、もしかしたら恋人という可能性だってある。自分なら恋人相手にスウェットで出迎えたりはしないけど。
──ま、どうでもいいか。
きっと好きな相手には優しいのだろう──一瞬人間性というものに憮然としたけれど、その後バイト先に着く頃にはそんな記憶も綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
※※※※
それから三日ほど経った日の金曜の夜のことだった。
私が友達と飲みに行くという約束をし、出かけようとしていた矢先に玄関のインターホンが鳴った。
宅急便の心当たりもないので、無視を決め込む。時計は夜五時半を少し過ぎた頃、訪問に非常識な時間でもないが、ただでさえこのアパートには勧誘の訪問が多い。知人なら携帯メールや電話をしてくるだろうし、最悪書留でも不在票が入ると、随分前からそうすることにしていた。
しかし呼び鈴は立て続けに鳴らされる。段々私は苛立ち始めた。
──全く、何なのよ。もう!
足音荒く扉に歩み寄り、覗き窓から外を見ようとした。
何も見えない。
まさか、と思ったその時、ガチャガチャとドアノブが音を立てて回り始めた。
──うわっ!
恐くなって、慌てて携帯電話を取りに居間に戻る。震える手で数字ボタンを押そうとして、疑問になった。
──あれ、110番って携帯からも繋がるんだっけ?
確か繋がる筈だった気がする──一瞬迷っている内に、ふと玄関の音が止んでいることに気づいた。
不審者は去ったのだろうか。
茅野さんの話の通りだとすると、後で外に出ても大丈夫だったらしいけど…
とにかくこのままでは窓が見えないまま。出かけられないと、チェーンを掛けたままで少しだけドアを開けて外を伺った。
「こんばんは」
ひっ、と声にならない悲鳴が歯の隙間から漏れる。
電灯のまだ点いていない廊下に、おじいさんがこちらを向いて立っていたのだ。
「夜分に済まないね、本村さん。今ちょっと前、不審な男がこの部屋の前をうろうろしていたんだが。今帰ったばかりで偶然見たものだから──何かあったんじゃないかと気になって。大丈夫かい?」
外出の言葉通り、おじいさんはいつも見る上着を着ていた。フード付のナイロン素材の丈は長いけど寒そうなコート。ああ何だ、びっくりしたと私は胸を撫で下ろした。身体はまだ震えていて、答える声もかなり上ずっていたけれども。
「そ、そうなんですよ、ドアノブに悪戯されて。覗き窓も見えなくされてるし。恐かったです──」
「本当だ、ここにシールみたいなものが貼ってあるよ。見てご覧」
「ああ、やっぱり」
おじいさんが扉の外を指差している。覗き窓の様子を見ようとして身を乗り出した時、変な匂いが鼻をついた。何だか生臭い。年寄りの加齢臭だろうか?
ドアチェーンを外そうと指を掛け──
止めた。
「本村さん?」
「……後で、見ます。ご心配、ありがとう……ございました」
「どうしたんだい? 随分顔色が悪いじゃないか──」
怪訝そうな顔のおじいさんを無視して無理やり扉を閉め、持っていた携帯電話で今度こそ警察に通報した。うろ覚えでも正解だったらしく、局番なしで電話は繋がった。
「すみません、今あ、アパートの部屋の前に不審者が居ます! 場所は」
──私、おじいさんに名乗ったことなんて、ない。
玄関の扉が激しく叩かれる音で、場所を説明する声がかき消されそうだった。
※※※※
恐怖にたどたどしい説明を終え、5分ほどして警察が駆けつけた時には、扉の前には誰もいなかったらしい。
ただ、駆け付けた警察の人はアパートの入り口で面食らったそうだ。通報元は二〇三号室と聞いていたのに、一〇一号室の茅野さんが包丁でめった刺しにされて殺されているのを発見したからだった。呼び出されたのを不思議に思いながら廊下に出れば、確かに白くチョークでコンクリートの床に丸印が付けられていた。点々と付いた黒いシミを囲う様に。恐らく滴った返り血なのだろう。
私は色んなことを根堀り歯掘り聞かれた。おじいさんのことだけじゃなく、茅野さんの普段の様子や交友関係なんかまで。現場にも本人確認の為立ち合わせたが、近づくにつれ黒いシミは多く付いていたし、ブルーシートで顔しか見えなくてもわかった。どれだけ凄惨な状態になっているか。
身体が震えて歯の根も合わない状態ながら、もう話せることがないって所まで何とか話した。後で制服を着た警察官の一人がまた質問にやって来て、「茅野さんは悪戯の犯人に腹を立てていたのか、外に出た所を刺された様子でした」と教えてくれた。隣の一〇二号室の住民は出かけていた。いつも観察している者の犯行の疑いがあると。アパートの住人に私が言ったおじいさんの特徴に当てはまる人はいなかった、とも。
単なる変質者の犯行なのか、金銭目的の犯行なのか。
付近に噂好きな知人でもいれば真相がわかったかもしれないが、生憎とそんな知り合いもいないのでわからないままだった。すぐに引越しを決めてしまったから、というのもある。
※※※※
新しい引越し先はテレビドアホンが付いている、という理由だけで決めた。
前のよりずっと家賃も跳ね上がったけれど、バイト代を充てて何とか凌いだ。相変わらず住人と顔を合わせることはあまりない。
忘れるべきなのだろうが、つい考えてしまう時がある。もしあの時私がドアチェーンを外していたら、おじいさんは私を殺したのだろうか。
ナイロン素材のコートを着ていたし、返り血が付いても洗いやすいだろう……とまで想像が及んでしまう。
それでもはっきりとした証拠は何もないのだ。私の名前を知っていた、ただそれだけの記憶。
或いはもしかしたら茅野さんは全然違う人、例えば私が見た男の人に痴情のもつれか何かで殺された可能性もあるだろう。
殺人者に狙われたという事実よりも、ドアを開けた時のおじいさんの笑顔がとても優しそうで、だからこそ何倍も恐ろしかった。
毎日何を思ってこのアパートで私に挨拶し、笑いかけていたのか。
そして私は未だにインターホンが鳴る度に怯えるのだ。
どうか、おじいさんではありませんようにと。
これは実際に体験した出来事をかなりサスペンスティックに脚色したものです。
犯罪自体はフィクションです、念のため。
隣人であろうとなかろうと気をつけなくてはならない世の中とは、なんとも物騒になったという気がします。
人間の二面性を書きたかったので、伝わればいいなあと思います。