置いてきた影の行き先
夜の路地は、音を吸い込んでいた。
街灯の光は途中で力尽き、先のほうは墨を流したように黒く沈んでいる。
私は、その黒の中を歩いていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、路地の中央に、ひとりの紳士が立っていた。
スーツを着込み、頭にはシルクハット。片手には細いステッキを持っている。
近づくにつれて、違和感がはっきりした。
その顔は、犬だった。
可愛いわけでも、恐ろしいわけでもない。
ただ、そういう顔をしている、というだけだった。
犬の紳士は、逃げるでも追ってくるでもなく、穏やかな眼差しでこちらを見ていた。
その視線には、警戒も悪意もなく、むしろ「待っていた」という静かな気配があった。
私はなぜか、怖くはなかった。
この路地で迷っていたのは、
もしかすると――私のほうだったのかもしれない。
犬の紳士は、私が立ち止まったのを見て、わずかにステッキを傾けた。
それは挨拶というより、「思い出せ」と言われたような仕草だった。
「――この路地、覚えがありますか」
声は低く、よく通った。
犬の口から出ているのに、不思議と違和感はなかった。
私は首を振ろうとして、やめた。
覚えがあるかと問われる前に、胸の奥で何かがほどけ始めていたからだ。
「昔、ここを通ったことがありますね」
そう言われた瞬間、夜の匂いが変わった。
濡れたアスファルトの冷たさ。
靴底に伝わる、あの頃の体重。
「帰り道が、少し怖かった夜です。
けれど――誰にも言えなかったことを、胸にしまったまま歩いていた」
私は息を呑んだ。
忘れていたはずの夜だった。
正確には、忘れたふりをして、底に沈めていた。
犬の紳士は、私を責めるでも、慰めるでもなく、ただそこに立っていた。
「ここは、置いていったものが戻ってくる場所です」
「持ち帰るかどうかは――あなた次第ですが」
街灯が、ひとつ、瞬いた。
その光の下で、私は自分の影が、昔より少し長く伸びていることに気づいた。
犬の紳士は、私の答えを待たなかった。
もともと、答えなど必要としていなかったのかもしれない。
彼はゆっくりと背を向け、路地の奥へ歩き出した。
ステッキが地面を叩く音だけが、夜に小さく残る。
私は、少し遅れてその後を追った。
進むにつれて、路地は不思議なほど静かになった。
遠くの車の音も、人の気配も、すべてが薄れていく。
代わりに、胸の奥に沈めていた感情だけが、はっきりと輪郭を持ちはじめた。
「無理に思い出す必要はありません」
歩きながら、犬の紳士が言った。
「ただ、あなたはそれを――
ここに置いたまま、生きてきただけです」
私は立ち止まった。
足元に、自分の影が二つ、重なって揺れていた。
ひとつは、今の私。
もうひとつは、あの夜の私だった。
「持ち帰ると、少し重くなりますよ」
そう言って、紳士は振り返った。
犬の顔は相変わらず、可愛くも怖くもない。
だが、その眼だけが、静かに笑っていた。
私は影に手を伸ばした。
触れた瞬間、冷たさはなく、ただ確かな重みだけが伝わってきた。
それは痛みでも、後悔でもなく――
「確かに生きていた」という証のようだった。
影は、ゆっくりと私の足元に戻った。
「それで、十分です」
犬の紳士は、満足そうにステッキを鳴らした。
次の瞬間、街灯がひとつ消え、
もうひとつ消え、
気づけば路地には、私ひとりしかいなかった。
紳士の姿はなかった。
ただ、夜の奥から、かすかに声が残った。
「迷ったら、また通りなさい。
路地は、いつでもそこにありますから」
私は一度だけ振り返り、それから歩き出した。
夜は相変わらず深かった。
けれど、足取りは少しだけ――
確かになっていた。




