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バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します  作者: Nami


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第6話 萌芽の時、あるいは若き執政官の憂鬱



肥料散布から三日が過ぎた。

バーンズ領に、初夏の気配を帯びた風が吹き抜けている。

朝の光が領主館の窓を叩くよりも早く、マイルズは目を覚ました。

「……ん」

重い瞼を擦る。体の節々が痛い。

十歳の体は、前世の三十代の精神が課す過酷なスケジュールに、悲鳴を上げ始めていた。

昨夜も、銀翼商会との取引契約書の細則を詰めるため、深夜まで書類と格闘していたのだ。

「マイルズ様、お目覚めですか」

控えめなノックと共に、侍女長のマーサが入室してくる。

「おはよう、マーサ。……今日の予定は?」

マイルズはベッドから降りながら、あくびを噛み殺して尋ねた。

「はい。午前中は石鹸工場の視察と、品質管理の指導。昼には農業ギルドからの日報確認。午後はエリーゼ様との輸送ルートに関する打ち合わせ。その後、父上様との領軍再編に関する会議がございます」

「……分刻みだな」

マイルズは苦笑した。

顔を洗い、冷たい水で意識を覚醒させる。

鏡に映る自分は、相変わらず完璧な美少年だが、その青い瞳の下にはうっすらとくまができていた。

(休みたい、というのが本音だ。だが、今が正念場だ)

石鹸という「金脈」は見つかった。肥料という「種」は蒔いた。

だが、それらは放っておいて育つものではない。

石鹸の品質を維持しなければブランドは死ぬ。肥料の効果が出るまで農民を鼓舞し続けなければ、彼らは元の農法に戻ってしまう。

全てをコントロールするには、マイルズの目が届く範囲に限界があった。

簡単な朝食(パンと温かいミルク、そして庭で採れた野菜のサラダ)を済ませ、マイルズは馬車に乗り込んだ。

最初の目的地は、領都の一角に設けられた「石鹸工場」だ。

工場とは言っても、元は空き倉庫だった建物を改装したものだ。

中に入ると、ムッとする熱気と、油脂と灰の入り混じった独特の匂いが立ち込めていた。

「お、おはようございます! 若様!」

現場監督を務める男、ボリスが慌てて駆け寄ってくる。彼は元々、領内のパン屋だったが、その腕を見込んでマイルズが抜擢した男だ。

「おはよう、ボリス。調子はどうだ」

「はい! 生産は順調です! 昨日は五百個の成形を完了しました!」

ボリスは胸を張るが、マイルズの目は誤魔化せなかった。

彼は積み上げられた完成品の木箱へ歩み寄り、無造作に一つを手に取った。

「……ボリス」

「は、はい」

「この石鹸、表面に気泡が入っている。それに、エッジ(角)が欠けている」

マイルズは静かに指摘した。

「温度管理だ。型に流し込む時の温度が低すぎる。あと二度上げろと言ったはずだ」

「す、すみません……。ですが、温度計という魔道具は高価で、一つしかなくて……」

「だからといって、勘に頼るな。品質のばらつきは信用に関わる」

マイルズはため息をついた。

ボリスは勤勉だが、「規格を統一する」という工業的な概念がまだ薄い。この世界の職人は「一点もの」を作るのは得意だが、「均一な製品を大量に作る」ことには不慣れなのだ。

「後で土魔法使いに頼んで、温度を一定に保つ魔導プレートを追加で作らせる。それまでは、ここにある砂時計を使って、撹拌時間を厳密に計れ」

「はいっ! 直ちに!」

マイルズは工場内を見て回った。

貧民区から雇用された労働者たちが、大釜をかき混ぜている。

彼らの顔色は、以前に比べれば良くなっている。給金が出始め、食事が改善されたからだ。

だが、作業効率は悪い。無駄な動きが多く、資材の配置も乱雑だ。

(マニュアルが必要だ。だが、彼らの多くは文字が読めない)

口頭で教えるしかないが、それには時間がかかる。

マイルズが直接指導すれば早いが、それではマイルズの体がいくつあっても足りない。

「……ん?」

ふと、工場の隅で、一人の少女が作業しているのが目に入った。

年齢はマイルズと同じ十歳くらいだろうか。

痩せっぽちで、灰色の髪を雑に束ねている。サイズの合わない大きめの作業着を着て、完成した石鹸を箱に詰める梱包作業をしていた。

彼女の動きだけが、異質だった。

無駄がない。

右手で石鹸を取り、左手で包装紙を広げ、瞬く間に包んで箱に収める。

そのリズムが一定で、機械のように正確だった。

さらに驚くべきことに、彼女は口の中で何かを呟いていた。

マイルズは気配を消して近づいた。

「……四百八十二、四百八十三……。箱の残りが十二。今のペースだと十五分で完了。次の資材搬入まで三分余るから、その間に床の掃除……」

(……計算しているのか? 作業しながら?)

「君」

マイルズが声をかけると、少女はビクリと肩を震わせ、振り返った。

大きな瞳。感情の読めない、静かな瞳だった。

「は、はい……。申し訳ありません、サボっていたわけでは……」

「いや、違う。君、名前は?」

「……シンシア、です」

消え入りそうな声だ。貧民区の出身だろう。

「シンシア。今、数を数えていたな? この箱に石鹸が何個入る?」

「縦に六、横に四、三段重ねですから、七十二個です」

即答だった。

「今、工場全体で在庫はいくつある?」

「あちらの棚に満杯の箱が八つ。作業中のものが三つ。乾燥棚にあるのが……およそ六百。合計で千二百と少しかと」

マイルズは目を見張った。

ボリスですら、在庫表を見なければ答えられない数字だ。

それを、この少女は作業の片手間に把握している。

「……計算はどこで習った?」

「習ってはいません。……ただ、数を見ると、頭の中に浮かぶのです」

サヴァン症候群に近い、特異な才能か。あるいは、この世界特有の『スキル』の片鱗か。

どちらにせよ、ダイヤの原石だ。

「ボリス!」

マイルズは監督を呼んだ。

「は、はい!」

「彼女……シンシアを、梱包係から外せ」

「え? 何か粗相を? すぐにクビに……」

「違う。明日から、在庫管理と工程管理の記録係レコーダーにしろ。彼女の計算能力は、お前の十倍正確だ」

「はあ……?」

ボリスは呆気にとられているが、マイルズはシンシアに向き直った。

「文字は書けるか?」

「……数字なら。文字は、少しだけ」

「なら、私が教える。給金は倍にする。その代わり、この工場の数字を全てお前が管理しろ」

シンシアの瞳が、わずかに揺れた。

ゴミのように扱われてきた自分が、工場の、それも数字の管理を任される。

「私に……できるでしょうか」

「できる。私が保証する」

マイルズは彼女の小さな、荒れた手を握った。

「頼むぞ、シンシア。私の助けになってくれ」

その日、マイルズは一つの「希望」を見つけた。

だが、それはまだ小さな種に過ぎない。

昼下がり。

工場を後にしたマイルズは、馬車の中で泥のように眠りかけたが、ガタゴトという揺れに起こされた。

次は、農地の視察だ。

領都から少し離れた試験農場。

そこには、数日前にマイルズとエリーゼが肥料を撒いた畑が広がっている。

「若様」

古参の農夫、ハンスが迎えてくれた。彼は最初、マイルズの肥料に懐疑的だった一人だ。

「どうだ、ハンス。麦の様子は」

マイルズが尋ねると、ハンスは麦わら帽子を取り、ポリポリと頭を掻いた。

「へえ、それが……不思議なもんでして」

ハンスは畑の一角を指差した。

「見てくだせえ。葉の色が」

マイルズは畑にしゃがみ込んだ。

確かに、違う。

肥料を撒いていない隣のうねの麦は、薄い黄緑色で、茎も細い。

だが、マイルズの特製肥料を施したエリアの麦は、濃い緑色をしており、葉が厚く、ピンと空に向かって伸びている。

「窒素が効いてきたな」

マイルズは葉に触れ、『生命』スキルで内部を確認した。

根からの養分吸収が活発になり、葉緑素が増えている。光合成の効率が上がっている証拠だ。

「こいつは……魔法の薬ですか?」

ハンスが恐る恐る尋ねる。

「魔法じゃない。科学だ。……いや、今は魔法みたいなものだと思ってくれていい」

マイルズは土を握った。

数日前までパサパサだった土が、今はわずかに湿り気を帯び、団粒構造(土の粒が団子状になること)ができ始めている。微生物が活動しているのだ。

「ハンス。この濃い緑色が、『元気』な証拠だ。このまま水を切らさず、雑草を抜いてくれれば、穂の数も増える」

「へえ……こりゃあ、たまげた。あの臭い土に、こんな力があるとは」

ハンスの顔に、希望の色が差していた。

農民にとって、作物の成長は何よりの喜びだ。その事実を見せれば、彼らは動く。

「他の者にも見せてやってくれ。そして、肥料の追加分が届いたら、惜しまず撒くように伝えてくれ」

「合点承知でさあ! 若様、こりゃあ今年の秋は忙しくなりそうですな!」

ハンスの笑顔を見て、マイルズの胸のつかえが少し取れた気がした。

(よし、農業の方は軌道に乗りそうだ)

だが、安心したのも束の間。

背後から、優雅な声がかかった。

「あら、マイルズ様。また泥遊びですか?」

振り返ると、日傘を差したエリーゼが立っていた。

商会の馬車で追いかけてきたらしい。

「エリーゼ殿。……泥遊びではない、視察だ」

「ふふ。分かっていますわ。……少し、お顔色が優れませんね」

エリーゼはマイルズに近づき、ハンカチで彼の額の汗を拭った。

自然な動作だったが、十八歳の女性の甘い香りが鼻をくすぐり、マイルズは少し狼狽えた。

「……寝不足なだけだ」

「無理もありませんわ。工場の管理、農地の指導、そして書類仕事。……十歳の子供が背負う荷物ではありません」

エリーゼの目は、真剣だった。

商売敵パートナーとしての打算だけでなく、純粋な心配が滲んでいる。

「私の方で、事務官を数名派遣しましょうか? 王都から優秀な者を」

魅力的な提案だ。

だが、マイルズは首を横に振った。

「感謝するが、断る。……外部の人間には、まだ見せられない技術ノウハウが多すぎる」

石鹸の製造工程における化学反応、肥料の配合における微生物培養。

これらは、この世界では「未知の魔法」に近い。

不用意に外部の人間を入れれば、技術が流出する。

「それに、バーンズ領の人間でなければ意味がないんだ。自分たちの力で立ち上がったという自信が、この領地には必要なんだ」

「……頑固な方」

エリーゼは呆れたように、しかし愛おしそうに微笑んだ。

「分かりました。では、せめて今夜の夕食は、私にお付き合いくださいな。商会の新しいシェフを連れてきたのです。栄養のあるものを食べて、少しは休んでいただきませんと、私の投資が無駄になりますから」

「……ああ。それはありがたく受けよう」

マイルズは素直に頷いた。

彼女なりの気遣いが、今は心地よかった。

その日の夜。

領主館の夕食は、いつもより少し賑やかだった。

父ロッシュ、母マリア、妹リリア、そしてエリーゼ。

エリーゼはすっかり家族に溶け込んでいた。特に母マリアとは、王都の流行話コスメやドレスで盛り上がり、意気投合している。

「お兄様、あーん」

リリアが、デザートの果物をフォークに刺して差し出してくる。

「リリア、自分で食べられるよ」

「だーめ。お兄様、疲れてる顔してるもん。リリアが元気あげる!」

天使のような妹の笑顔。

マイルズは観念して口を開けた。甘い果汁が広がる。

「……ありがとう、リリア」

穏やかな団欒。

だが、マイルズの頭の片隅では、昼間のシンシアのことが引っかかっていた。

(計算のできる少女。文字は読めない労働者たち。……やはり、そこがボトルネックだ)

夕食後、マイルズは父ロッシュの書斎を訪ねた。

「父上。少しお時間を」

「どうした、マイルズ。お前も今日は早めに休めと言っただろう」

ロッシュはブランデーグラスを傾けながら言った。

「いえ、今日一日見て回って、確信したことがあります」

マイルズは父の前に立った。

「『人』が足りません」

「人? 労働力か? それなら移民でも……」

「いいえ。手足ではなく、『頭脳』です」

マイルズは熱弁した。

「私の指示を理解し、現場で判断し、帳簿をつけ、報告できる中間管理職。……下士官と言ってもいい。それが圧倒的に不足しています。私が一人で走り回るには、この領地は広すぎます」

「……ふむ。確かに、お前のやっていることは、既存の文官たちには理解できんことが多いからな」

ロッシュも痛感しているようだった。

「で、どうするつもりだ?」

「学校を作ります」

マイルズは断言した。

「学校? 王都にある貴族院のようなものか?」

「いえ、もっと実戦的な……『私塾』です。読み書き、計算、そして私の『新しい知識』を教える場所。対象は貴族だけでなく、平民からも優秀な子供を集めます」

今日会ったシンシアのような原石。

彼らを磨き上げ、マイルズの手足となる「近衛文官」に育てる。

それが、この領地の永続的な発展には不可欠だ。

「……平民に教育を施すなど、保守的な連中が騒ぐぞ」

「騒がせておけばいいです。結果を出した者が正義です。……父上、許可を」

ロッシュはグラスの中の琥珀色の液体を見つめ、やがてニヤリと笑った。

「いいだろう。お前が蒔くのは、畑の種だけではないということだな」

「はい。人の種も蒔かねば、花は咲きません」

マイルズは部屋を出た。

廊下の窓から見える夜空には、満天の星が輝いていた。

明日もまた、多忙な一日が始まる。

肥料の追加生産、シンシアへの文字の指導、エリーゼとの商談の続き、そして学校設立の準備。

休む暇はない。

だが、不思議と心は軽かった。

(一歩ずつだ。確実に、前へ進んでいる)

マイルズは拳を握りしめた。

その小さな手の中に、領地の未来が握られていることを、強く実感しながら。

しかし、彼はまだ知らない。

その光の強さに惹きつけられるように、闇の中で蠢く者たちがいることを。

領境の森を抜け、黒い影がいくつか、静かに領内へと侵入しつつあった。


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