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バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します  作者: Nami


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第4話 黄金の泡と、渇いた大地



疫病騒動の収束から二週間。

バーンズ領都は、表面上は平穏を取り戻していた。

だが、領主の執務室に漂う空気は、依然として重く、澱んでいた。

「……これが、今年の収穫予測か」

ロッシュ伯爵が、羊皮紙の束を机に叩きつけるように置いた。

その眉間には深い皺が刻まれている。

部屋に呼び出されたマイルズは、父の苦悩を正面から受け止めていた。

「はい、父上。農業ギルドからの最終報告です」

マイルズは淡々と数字を読み上げる。

「春先からの日照り、そして先日の騒動による農作業の遅れ。これらが響き、今年の小麦の収穫量は例年の六割強。……冬を越すための備蓄食糧は、決定的に不足します」

六割強。

それは単なる数字ではない。「領民の四割が飢える」という死の宣告だ。

疫病で命を救った領民たちが、今度は冬の寒さと飢えで死んでいく。そんな未来が、明確な輪郭を持って迫っていた。

「足りない分は、他領から買い付けるしかない。だが……」

ロッシュは金庫番が提出した財政報告書に目を落とし、深いため息をついた。

「金がない。疫病対策で、予備費を使い果たした」

消毒用の薪、緊急支援の食糧、新しい衣服の支給。マイルズの指揮による徹底的な防疫は成功したが、その代償として領の金庫は空っぽに近かった。

「王都の商人から借金をするか……。いや、足元を見られるのがオチだ。それに、返済の目処が立たねば、バーンズ家は破産だ」

歴戦の武人である父が、見えない金策という敵の前で頭を抱えている。

「父上」

マイルズは、一歩前に進み出た。

その表情に悲壮感はない。むしろ、獲物を前にした狩人のような、静かな闘志が宿っていた。

「借金など、必要ありません。金なら、作れます」

「……何?」

ロッシュが顔を上げた。「錬金術の話か? お前の『創造』スキルでも、金貨そのものを作ることは法で禁じられているし、そもそも魔力効率が悪すぎると言っていたではないか」

「ええ。私が作るのは金貨ではありません」

マイルズは、ポケットから掌サイズの小箱を取り出した。

領内のガラス工房で作らせた、透き通るような青色の小瓶だ。

その蓋を開けると、執務室の中に、甘く、華やかな香りが広がった。

薔薇の香油と、柑橘系の清涼感を絶妙にブレンドした香りだ。

「これは……」

「『バーンズ・クリスタル・ソープ』。私がそう名付けました」

マイルズは小瓶の中から、宝石のようにカッティングされた半透明の固形物を取り出した。

あの貧民区で配った無骨な白い石鹸とは違う。

不純物を極限まで取り除き、グリセリンによる保湿成分を高め、天然の香料を練り込んだ、至高の逸品。

「貧民区で配った石鹸は、あくまで『薬』でした。ですが、これは『嗜好品』です」

マイルズは父の前にその石鹸を置いた。

「汚れを落とすだけでなく、肌を絹のように滑らかにし、身体から花の香りを漂わせる魔法の石。……王都の貴族の女性たちが、これを知ったらどうなると思いますか?」

ロッシュは、愛妻家だ。妻のマリアが美容にどれだけ気を使い、高価な香油にどれだけ金をかけているかを知っている。

「……殺し合いをしてでも欲しがるだろうな」

「ええ。間違いなく」

マイルズはニヤリと笑った。

「この石鹸を、王都で売ります。それも、目の玉が飛び出るような高値で。ターゲットは富裕層のみ。バーンズ領特産のガラス容器とセットにして、『宝石』として売り出します」

「しかし、販路はどうする? 我々は辺境の伯爵家だ。王都の流行トレンドに入り込むのは容易ではないぞ」

「そのための『コネ』が、王都にあるではありませんか」

マイルズは、机の上の地図――王都の方角を指差した。

「姉上です」

「……リーナか?」

「はい。ハール侯爵夫人のリーナ姉上。社交界の花形であり、流行に敏感な姉上に、この試作品と手紙を送ります」

マイルズの目は、悪戯を企む子供のそれではなく、冷徹な策士の目になっていた。

「『最近、お肌の調子はいかがですか? 弟が開発したこの石鹸を使えば、十代の頃のような瑞々しい肌が蘇りますよ』と。……姉上がこれを使い、その効果を実感すれば、必ず周囲に自慢します。『これは実家の弟が作った特別なものなの』と」

インフルエンサー・マーケティング。

前世の知識の一つだ。

広告費をかけず、信頼できる口コミで、爆発的に需要を喚起する。

「注文が殺到したところで、出し渋ります。『生産が追いつかない』と。飢餓感を煽り、価格を釣り上げる。……これで、冬越しの食糧を買う資金どころか、来年の農業改革の予算まで確保できます」

ロッシュは、十歳の息子の恐ろしいまでの商才に、半ば呆れ、半ば戦慄した。

「……お前、本当に十歳か? 中に悪徳商人が入っているのではないか?」

「心外ですね。領民を救うための、清き一票ならぬ、清き商売です」

マイルズは肩をすくめた。

「……分かった。許可しよう。だが、生産はどうする? お前が一人で作るわけにはいかんだろう」

「はい。私の『創造』は、あくまで『最初の種火』です。量産体制は、領民の手で構築します」

マイルズは懐から、詳細な設計図を取り出した。

「油脂の精製、釜の温度管理、成形。工程を細分化すれば、魔力を持たない領民でも生産可能です。『石鹸工場』を作り、そこで貧民区の失業者を雇用します。彼らに仕事を与え、賃金を払い、その金で彼らが食糧を買う。……経済を、回すのです」

父ロッシュは、深く頷いた。

「よかろう。マイルズ、全権をお前に委ねる。……やってみせろ」

それからのマイルズの動きは迅速だった。

まず、領内のガラス工房と、油を扱う商会を招集し、石鹸工場の設立を宣言。

マイルズが『創造』で作った見本とレシピを提供し、職人たちに技術を叩き込んだ。

職人たちは最初、十歳の子供の指示に困惑していたが、マイルズが実演してみせる化学反応の正確さと、出来上がった石鹸の品質に圧倒され、すぐに熱狂的な信奉者へと変わった。

そして、王都の姉リーナへの手紙。

『親愛なる姉上へ。お元気ですか? 最近、領地で面白いものが作れました。姉上の美しい肌を、さらに輝かせるための魔法の石鹸です。まだ世に出ていない試作品ですが、一番最初に姉上に使っていただきたくて……』

美辞麗句を並べ立て、最高級のサンプルを同封して送った。

返事は、五日という距離を考えれば異例の速さで、十日後には届いた。

早馬を使ったのだろう。

手紙の封蝋を開けると、興奮冷めやらぬ筆致でこう書かれていた。

『マイルズ! 愛しい弟よ! 何なのこの素晴らしい贈り物は!

一度使っただけで、肌がゆで卵みたいにツルツルになったわ! 旦那様も「香りが良い」って大絶賛よ!

昨日の夜会で少し話をしたら、侯爵夫人の皆様が「ぜひ譲ってほしい」って目の色を変えて迫ってきたの。

ねえ、これ、もっと送れない? いえ、私が王都での販売代理店になってもよろしくてよ? 売り上げの三割……いいえ、二割で手を打つわ!』

(……さすが姉上。話が早いし、しっかり商魂も逞しい)

マイルズは手紙を読みながら苦笑した。

これで、王都での販路とブームは約束された。

先行予約だけで、既に金貨数百枚分の注文が確約されたも同然だ。

当面の資金繰りの目処は立った。

工場も稼働し始めた。貧民区の住人たちも、石鹸作りという新たな仕事に精を出している。

経済は、回り始めた。

だが、マイルズは浮かれてはいなかった。

金は、あくまで手段だ。

本当の敵は、まだ倒せていない。

数日後。

マイルズは、数名の護衛と農業ギルドの職員を連れ、領都から離れた農村地帯へと馬を走らせていた。

華やかな石鹸の香りとは無縁の、土と埃の匂いがする場所だ。

目の前に広がるのは、無残な光景だった。

広大な小麦畑。だが、そこに実っている穂は背が低く、色も悪い。

地面はひび割れ、所々に白い粉のようなものが浮いている。

農民たちは痩せ細り、力なく鍬を振るっているが、その目は絶望に濁っていた。

「……ひどいですね」

マイルズの隣で、農業ギルドの職員が沈痛な面持ちで言った。

「雨が降らないのが一番の原因ですが……それだけではありません。年々、収穫量が落ちているのです。土地が、痩せてしまっている」

マイルズは馬を降り、畑の中へと入っていった。

乾いた土を手に取り、指ですり潰す。

サラサラと崩れるだけで、粘り気も、栄養分を感じさせる湿り気もない。

(『生命ヴィータ』・土壌分析ソイル・アナライズ

マイルズは、医師としての診断眼を、大地へと向けた。

対象は人体ではない。だが、大地もまた、微生物と有機物が織りなす生命の循環系だ。

マイルズの脳裏に、土壌の成分データが色彩となって浮かび上がる。

(……やはりか)

窒素、リン酸、カリウム。植物の生育に必要な三大栄養素が、絶望的なまでに枯渇している。

特に窒素不足が深刻だ。

この世界の農業は、休耕地を設ける三圃式農業に近いものが採用されているが、それでも長年の連作で地力が奪われ尽くしている。

さらに悪いことに、灌漑設備の不備による塩害の兆候も見られる。

「この土地は、痩せているんじゃない」

マイルズは土を握りしめたまま、呟いた。

「過労死寸前だ」

「え?」

職員が聞き返す。

「人間で言えば、食事も与えられず、水も飲めず、ただ働き続けさせられた状態だ。これでは、いくら雨が降っても、作物は育たない」

マイルズは立ち上がり、見渡す限りの痩せた畑を見た。

魔法使いが水を撒けば、一時的には潤うかもしれない。

だが、それでは土壌の中の栄養素は回復しない。

必要なのは、水やりではない。「治療」と「投薬」だ。

「……若様。どうすればよろしいので?」

近づいてきた老農夫が、縋るような目でマイルズを見た。

「神官様に祈祷してもらっても、雨は降りませぬ。このままでは、村は……」

マイルズは農夫の手を取った。

節くれだった、働き者の手だ。

この手に応えなければ、領主一族としての存在意義はない。

「祈祷もいいが、もっと確実な方法がある」

マイルズは、力強く言った。

「この大地に、飯を食わせるんだ」

「大地に……飯、でございますか?」

「ああ。栄養だ」

マイルズの頭の中で、新たな計画が構築されていく。

前世の知識。『ハーバー・ボッシュ法』による化学肥料の生成。

……いや、それはまだ早すぎる。設備も魔力も足りない。

ならば、もっと原始的だが、確実な方法。

有機堆肥のシステム化。

家畜の糞尿、生ゴミ、そして下水処理で発生する汚泥。

これらを『発酵』させ、良質な肥料に変える。

さらに、窒素固定菌を持つマメ科植物の輪作導入。

そして、不足するミネラル分を補うための、土壌改良剤の『創造』。

「ギルドの者よ、聞け」

マイルズは職員に向き直った。

「石鹸の売り上げが入ったら、全額を突っ込んで、他領から食糧を買う。今年の冬はそれで凌ぐ」

「は、はい!」

「だが、来年は違う。来年の春までに、この領地の全ての農地に、私が開発する『特製肥料』を撒く。そして、作付けのローテーションも全て私が指示する」

「そんな……全農地ですか!? 農民たちが納得するかどうか……」

「納得させる。結果でな」

マイルズはニヤリと笑った。その笑顔は、疫病を駆逐した時と同じ、不敵なものだった。

「金はある。技術もある。……来年の秋、この畑を黄金色の小麦で埋め尽くしてやる。これは、私とこの大地との契約だ」

風が吹き抜け、マイルズの銀髪を揺らした。

十歳の少年の小さな背中には、領地の未来という巨大な荷物が乗せられていたが、彼はそれを微塵も重いとは感じていないようだった。

むしろ、難易度が高い手術オペを前にした外科医のように、その目は興奮に輝いていた。

「さあ、忙しくなるぞ。まずは、この土地の『カルテ』を作る」

マイルズは再び土に向かい、詳細な調査を開始した。

石鹸が生み出す富を燃料に、枯れた大地を蘇らせる農業革命アグラリアン・レボリューション

その歯車が、今、きしりと音を立てて回り始めた。


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