第3話 衛生という名の武器、あるいは最初の改革
ニース王国辺境、バーンズ伯爵領。
その領都の西側に広がる貧民区は、今や戦場と化していた。
ただし、そこで振るわれるのは剣や槍ではなく、炎魔法による殲滅でもない。
敵は目に見えない微小な悪魔であり、武器となるのは、大量の湯と、未知の白い粉末、そして十歳の少年が放つ冷徹な「指揮」だった。
「第一班、煮沸消毒用の大鍋を五つ追加だ! 火力が足りない、薪を惜しむな! 湯温は常に沸騰状態を維持しろ!」
「第二班、患者の衣服の回収を急げ! 回収したものは直ちに焼却処分! 煙を吸わないように風上に立て!」
「第三班、隔離テントの設営はどうなっている! まだ症状が出ていない者と、発熱者を同じ場所に置くなと言ったはずだ!」
怒号にも似た指示が飛び交う中、マイルズ・バーンズは仮設の対策本部の中心に立っていた。
急ごしらえの机に広げられているのは、貧民区の詳細な地図だ。
彼はそこに次々と書き込みを行い、人の動き(動線)を制御していく。
「マイルズ」
背後から、父ロッシュの声がかかった。
マイルズが振り返ると、父もまた、マイルズが生成したマスクと手袋を着用し、煤で顔を汚しながら立っていた。伯爵自らが現場に出ているという事実は、兵士たちの士気を何とか繋ぎ止める最後の砦となっていた。
「父上。封鎖状況はいかがですか」
「蟻の這い出る隙間もない。衛兵隊を総動員し、この区画を完全に包囲した。住民からの不満は出ているが、力尽くで抑え込んでいる」
「感謝します。今は恨まれても構いません。生きてさえいれば、後で誤解は解けます」
マイルズは地図の一点を指差した。
「ここが水源です。上流から綺麗な水を確保し、こちらの下流で洗浄を行う。汚染された水が再び生活圏に戻らないよう、排水溝の先に即席の濾過槽と土魔法による遮蔽壁を作ります。父上、土魔法使いの手配を」
「分かった。……それにしても、マイルズよ」
ロッシュは、息子の横顔をまじまじと見つめた。
「お前が言っていた『武器』とやらは、いつ届くのだ? 兵士たちも限界だ。見えない敵への恐怖で、いつ逃げ出す者が出てもおかしくない」
「今、作ります」
マイルズは短く答えた。
「作る? ここでか?」
「はい。材料は揃いました」
マイルズは、テントの隅に積み上げられた物資の山へと歩み寄った。
そこにあるのは、領内の商会から緊急徴発した獣脂(牛や豚の脂)、そして暖炉から集めさせた大量の木灰、さらに、薬師の小屋から見つけ出した数種類の薬草だ。
(この世界の衛生概念は、中世ヨーロッパレベルかそれ以下だ)
マイルズは内心で舌打ちをする。
人々は身体を洗う習慣が乏しく、香水で体臭を誤魔化す文化すら、まだ未発達だ。
当然、「界面活性剤」などという概念は存在しない。
汚れを落とすには、せいぜい灰汁を使うか、川砂で擦る程度。
これでは、皮脂汚れに食い込んだシラミの卵や、微細な病原体を洗い流すことは不可能だ。
「侍医長。そこにある桶に、獣脂を入れてください」
マイルズは、未だに懐疑的な視線を送ってくる老医師ガレンに指示を出した。
「……若様。このような油と灰で、何をするおつもりですか。神聖な医療の場に、ゴミを持ち込まないでいただきたい」
ガレンは不満げだ。彼にとって医療とは、祈祷であり、瀉血であり、貴重な水銀やハーブの調合なのだ。
「ゴミではありません。これが、この領地を救う『聖剣』になります」
マイルズは反論せず、桶の前に立った。
(『創造』)
マイルズは右手をかざす。
イメージするのは、化学反応式。
油脂の加水分解。脂肪酸とグリセリンへの分離。そして、水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)との反応による脂肪酸ナトリウムの生成。
本来、石鹸を作るには「鹸化」という工程が必要で、長時間煮込む必要がある。
だが、マイルズには『創造』がある。
魔力を触媒とし、化学反応を強制的に、かつ瞬時に引き起こす。
「反応開始」
ボッ、と桶の中身が発熱した。
獣脂が溶け、灰の成分と混ざり合い、激しく泡立つ。
マイルズはさらに、殺菌効果を高めるために、イメージの中で硫黄の成分と、清涼感を与えるハーブのエキスを構造式レベルで組み込んでいく。
数秒の後。
強烈な光が収まると、桶の中には、白くなめらかな固形物が満たされていた。
ほのかに、清潔な香りが漂う。
現代日本で使われていたような純度の高い高級石鹸ではない。もっと無骨で、洗浄力に特化した、いわば「薬用石鹸」だ。
「こ、これは……?」
ガレンが鼻をひくつかせた。
「石鹸です」
マイルズは固まりの一部をナイフで切り出し、ガレンに渡した。
「これで身体を洗えば、汚れも、脂も、そして病の元となる小さな虫も、全て洗い流せます」
さらにマイルズは、もう一つの作業に取り掛かった。
乾燥させた「除虫菊」に似た成分を持つ花。これを粉砕し、『創造』で有効成分であるピレトリンを抽出、濃縮し、白い粉末状にする。
「そしてこれが、殺虫剤です。シラミの神経に作用し、確実に死に至らしめます。人間には(大量に摂取しなければ)無害です」
マイルズは、出来上がった「武器」を手に、テントの外へと出た。
外では、招集された兵士たちや、動ける領民たちが不安そうに待機している。
マイルズは彼らの前に進み出ると、高らかに宣言した。
「聞け! これより、全住民の『洗浄』を行う!」
十歳の少年の声とは思えない、よく通る声だった。
「病の原因は、身体に付いた汚れと虫だ! この『石鹸』と『粉薬』を使えば、敵は死滅する! 恐れることはない! 私が証明する!」
マイルズは、近くにいた薄汚れた男――おそらく浮浪者だろう――の手を取った。
男は驚いて手を引っ込めようとした。「若様! 俺のような者に触れては……!」
「構わん」
マイルズは桶の水に男の手を浸し、切り出した石鹸を擦りつけた。
泡立つ白濁。
周囲から「おお」と声が上がる。
この世界には、これほど豊かに泡立つ物質は存在しない。
マイルズはその手で、男の黒ずんだ皮膚をゴシゴシと洗った。
爪の間の泥、染み付いた脂汚れ。
洗い流した水は瞬く間に黒く濁ったが、再び真水ですすぐと、そこには本来の肌色が蘇っていた。
「……綺麗になった」
男が、信じられないものを見るように自分の手を見つめた。
「さっぱりしたろう?」
マイルズは微笑んだ。「汚れが落ちれば、病も落ちる。さあ、全員でやるぞ! 男は川下で、女子供はテントの中で! 一人も残さず洗うんだ!」
その瞬間、現場の空気が変わった。
「汚れを落とせば助かる」という明確な解決策と、視覚的な効果。
それは、見えない恐怖に怯えていた人々にとって、唯一の光明だった。
「うおおおお! 洗うぞ! 湯を運べ!」
「子供たちを先に!」
兵士たちが動き出す。領民たちも、我先にと桶に群がる。
ここからは、まさに戦場のような忙しさだった。
マイルズは陣頭指揮を執り続けた。
石鹸の追加生産。殺虫粉の散布。
洗い終わった者には、煮沸消毒済みの新しい衣類(これも伯爵家の備蓄と、マイルズが『創造』で補ったもの)を支給し、清潔な区画へと移動させる。
「マイルズ様、第三テントで老婆が暴れています! 『風呂に入ると命が縮む』と言って聞きません!」
「説得している暇はない! 拘束してでも洗え! 後で私が謝る!」
「第ニテント、シラミの大量発生を確認! 粉薬を撒け!」
「水が足りない! 土魔法使いは何をしている、水路を拡張しろ!」
マイルズ自身も、袖をまくり上げ、子供たちの身体を洗った。
泣き叫ぶ幼児。高熱でぐったりしている少女。
その一人一人の肌に石鹸を滑らせ、温かい湯をかける。
「大丈夫だ、温かいだろう。すぐに良くなる」
元小児科病棟での経験が、無意識のうちに優しい手つきとなって現れる。
洗われた子供たちは、最初は怯えていたが、やがて石鹸の香りと温水の心地よさに、安堵の表情を浮かべていった。
その様子を、侍医長のガレンは呆然と見ていた。
貴族が。それも、伯爵家の長男が。
汚物にまみれた平民の子供に触れ、あろうことか自らの手で洗っている。
それは、彼が学んできた「貴族の在り方」や「医療の権威」を根底から覆す光景だった。
「……ガレン」
いつの間にか、隣にロッシュ伯爵が立っていた。
「は、はい」
「あいつは、本気だ。この領地を、民を、本気で守ろうとしている」
ロッシュは、息子が老婆の背中を流している姿を見つめていた。
「私は、あいつの父親であることを、今日ほど誇りに思ったことはない」
「……伯爵様」
「ガレン。お前のプライドなど、今は捨て置け。侍医ならば、あいつに負けないよう、患者の脈を診て回れ。それが仕事だろう」
ロッシュの一喝に、ガレンはハッと我に返った。
「は、はいっ! ……仰る通りでございます!」
老医師は、白衣の裾を翻し、聴診器代わりの魔道具を握りしめて走り出した。
「おい、そこの者! 湯冷めさせるな! 直ちに毛布を!」
作業は深夜まで続いた。
領都の西側に、巨大な焚き火の明かりがいくつも灯り、夜空を焦がした。
汚染された衣服や藁が焼かれる煙。
それは、不衛生な過去との決別を告げる狼煙のようだった。
翌朝。
奇跡は起きた。
新たな発熱者の報告が、ピタリと止んだのだ。
洗浄と隔離、そしてマイルズの『浄化』魔法による重症者の治療。
これらが複合的に作用し、感染の連鎖は見事に断ち切られた。
対策本部のテントで、マイルズは椅子に深く沈み込んでいた。
肉体的な疲労は限界を超えている。十歳の子供の体だ、無理もない。
だが、その瞳は死んでいなかった。
「報告します!」
衛兵隊長が、今までになく晴れやかな顔で入ってきた。
「今朝の検温結果、全区画で新たな発症者はゼロ! 既存の患者も、多くが熱が下がり、回復に向かっております!」
「……そうか」
マイルズは大きく息を吐いた。
「勝ったか」
「はい! マイルズ様、あなた様の勝利です! 領民たちは皆、あなた様を『水の神子』だの『医療の神様』だのと崇めておりますぞ!」
「よせ、神様なんて柄じゃない」
マイルズは苦笑する。
「ただの……そう、ただの内政官だ」
テントの外に出ると、朝日が昇り始めていた。
昨日までの澱んだ空気は消え、石鹸と燃えさしの混じった、どこか清潔な朝の匂いがした。
広場には、洗濯されたばかりの白いシーツが何枚も干され、風に揺れている。
その光景は、マイルズにとって、どんな宝石よりも美しく見えた。
「マイルズ」
ロッシュが歩み寄ってきた。その顔には疲労の色が濃いが、表情は柔らかい。
「よくやった。……見事だった」
「父上のお力添えがあったからです。私一人では、兵は動きませんでした」
「謙遜するな。お前が先頭に立ったからこそ、皆が付いてきたのだ」
ロッシュは、大きな手でマイルズの頭をポンと撫でた。
「お前は、バーンズ家の誇りだ」
その言葉に、マイルズの胸の奥が熱くなった。
前世では、仕事に忙殺され、家族との縁も薄かった。
今世では、この父の期待に応えたいと、心から思った。
「……ですが、父上」
マイルズは表情を引き締めた。
「これはまだ、始まりに過ぎません」
「む?」
「今回は、たまたま私がいて、魔法で石鹸を作れたから防げました。ですが、魔法頼みの内政には限界があります」
マイルズは、貧民区のあばら家を見渡した。
「見てください。この貧しさこそが、病の真の原因です。不衛生な環境、栄養不足、教育の欠如。これらを解決しなければ、また同じことが起きます」
「……うむ。だが、どうする。我が領の財政も決して豊かではない」
「金なら、作れます」
マイルズは、ポケットから一片の石鹸を取り出した。
朝日を受けて、白く輝く塊。
「この石鹸。今回は防疫のために無償で配りましたが……これを王都の貴族向けに改良し、香りを付け、美しく包装して売り出せば、どうなると思いますか?」
ロッシュの目が大きく見開かれた。
「……王都の貴婦人たちが、血眼になって欲しがるだろうな」
「ええ。莫大な利益になります。その金で、この領地の農業を改革し、下水道を整備し、学校を作ります」
マイルズはニヤリと笑った。
その笑顔は、十歳の少年の無邪気さと、老獪な経営者の計算高さを併せ持っていた。
「父上。バーンズ領を、この王国で最も衛生的で、最も豊かな領地に変えてみせます。……私に、任せていただけますね?」
ロッシュは一瞬呆気にとられ、やがて豪快に笑い声を上げた。
「はっはっは! 頼もしい限りだ! よかろう、次期領主殿! 好きなようにやれ! 責任は私が持つ!」
朝日の中、父と息子は固く握手を交わした。
疫病という危機を乗り越え、マイルズの内政改革は、ここから本格的な加速を始める。
次に彼がメスを入れるのは、「経済」と「農業」。
バーンズ領に、革命の風が吹こうとしていた。




