第22話 祈りとメス
バーンズ領都の一角にある、石造りの建物。
古くからある「領都施療院」。
かつては薄暗く、不衛生で、ただ死を待つだけの場所だったそこは、マイルズの手によって劇的に生まれ変わっていた。
窓は大きく開け放たれて換気が行われ、床は毎日磨き上げられている。
汚れた藁のベッドは撤去され、清潔なシーツが敷かれた寝台が並ぶ。
そして何より、館内には独特の刺激臭――高濃度のアルコールと石鹸の匂い――が漂っていた。
だが今日、その清潔な空間は、怒号と暴力によって汚されていた。
「破棄だ! こんな穢らわしい場所、存在してはならん!」
異端審問官総長ベルナルドが、杖を振り回して棚をなぎ倒した。
マイルズがガラス工房に作らせた薬瓶が砕け散り、消毒液が床に広がる。
「臭い! なんという悪臭だ! まさに悪魔の体液!」
深紅の法衣を纏った審問官たちが、鼻を押さえながら病室を荒らしていく。
「神の与えたもうた免疫を、薬などで弄るとは!」
「窓を閉めろ! 悪い気が入ってくるではないか!」
彼らは、マイルズが導入した「換気」や「消毒」といった衛生管理そのものを、悪魔の儀式だと断定し、破壊の限りを尽くしていた。
看護師として働く領民の女性たちが、必死に患者を庇っている。
「やめてください! ここは病人を治す場所です!」
「黙れ魔女め!」
審問官の一人が看護師を突き飛ばす。
騒ぎを聞きつけ、マイルズが駆けつけた時には、院内は惨状を呈していた。
その後ろには、父ロッシュと数名の騎士、そして心配そうに様子を窺う聖女ノアの姿もあった。
「……何事ですか、ベルナルド殿」
マイルズの声は低く、静かだった。だが、その瞳の奥には絶対零度の怒りが宿っていた。
「私の施療院で、狼藉を働くとは」
「狼藉? 浄化と言ってもらおうか」
ベルナルドは、床に落ちていた一本の「メス」を拾い上げた。
赤錆山の職人が極限まで研ぎ澄ませた、銀色の輝きを放つ手術用メスだ。
「見よ、この刃を。……貴様らはこれで、人の肌を切り裂き、臓器を弄り回しているそうだな」
「外科処置です。腐敗した患部を取り除くために必要なことです」
「狂っている!」
ベルナルドがメスを投げ捨てた。
「人の体は神が創りたもうた。それに刃を入れ、改造するなど、創造主への反逆以外の何物でもない! 病は祈りと聖水によってのみ癒やされるのだ!」
マイルズは、投げ捨てられたメスを拾い上げ、丁寧にハンカチで拭った。
「……反逆、ですか」
マイルズは静かに反論した。
「では聞きますが、子供が川で溺れていた時、あなたは祈りますか? それとも縄を投げますか?」
「……何?」
「祈れば神が助けてくれるかもしれません。ですが、縄を投げれば確実に助かる。……このメスは、溺れる人を救うための『縄』です。神が人間に知恵を与えたのは、自らの力で生きよというメッセージではありませんか?」
「詭弁だ! 神学の素人が、知ったような口を!」
ベルナルドが激昂する。
論理では勝てないと悟り、権威で押しつぶそうとする典型的な反応だ。
「この施設は閉鎖だ! 道具は全て焼却し、関わった者は異端審問にかける!」
「お待ちください!」
その時、細く、しかし凛とした声が響いた。
聖女ノアだった。
彼女は付き添いの手を振りほどき、見えない足取りで、おぼつかなくもベルナルドの前に進み出た。
「総長様……いけません。ここの空気は……澄んでいます」
ノアは、施療院の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「悪魔の臭いではありません。……人々を救いたいという、清らかな祈りの味がします」
盲目の聖女は、視覚がない分、他の感覚が鋭敏だった。
消毒液の匂いの奥にある「清潔さ」と、そこで働く人々の「献身」を感じ取っていたのだ。
「ノア様! 騙されてはいけません!」
ベルナルドが彼女の肩を掴む。
「これは悪魔の甘い罠なのです! 目が見えぬ貴女様には、邪悪な本質が見えぬのです!」
「あっ……!」
強く揺さぶられたせいで、ノアがバランスを崩した。
彼女は生まれつき体が弱い。長旅と、連日の見世物行脚で限界が来ていたのだ。
彼女の体が床に崩れ落ちそうになった瞬間、マイルズが滑り込んで支えた。
「……っ、失礼します」
マイルズは彼女を抱き留めると同時に、スキル『生命』を全開にした。
接触。診断。
(脈拍微弱。血圧低下。極度の貧血と栄養失調。……そして)
マイルズの意識は、彼女の「目」に集中した。
水晶体混濁。硝子体の一部に変性あり。
だが、網膜と視神経は完全に生きている。脳の視覚野も正常だ。
水晶体さえ取り替えれば、彼女は光を取り戻せる。
「……離せ! 聖女様に触れるな!」
ベルナルドがマイルズを引き剥がそうとする。
マイルズはノアを看護師たちに預け、立ち上がった。
「ベルナルド殿。……あなたは、彼女の目が見えないのは『神の試練』だと言いましたね」
「そうだ! 彼女はその苦難を受け入れ、祈りに昇華させているのだ!」
「違いますね」
マイルズは断言した。
「それはただの『膜』です。……目のレンズが濁っているだけだ。神の試練でも呪いでもない。ただの物理的な故障です」
「な……」
「私が治せます」
その言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。
ノア自身も、見えない目を大きく見開き、声のする方を向いた。
「……なお、せる……?」
「馬鹿な!」
ベルナルドが嘲笑した。
「生まれつきの盲目だぞ! 高名な治癒魔法使い(ヒーラー)ですら匙を投げたのだ! それを、たかが地方の領主代行風情が治せるだと!?」
「治癒魔法は『元の状態に戻す』魔法です。生まれつき濁っているものを『戻して』も、濁ったままです」
マイルズは解説した。
「ですが、私の『医学』は違います。悪い部分を取り除き、新しい機能を与える。……『創造』の領域です」
マイルズはベルナルドに一歩近づいた。
「賭けをしましょう、総長」
「賭けだと?」
「ええ。私が聖女様の目を治し、光を取り戻させてみせます。……もし成功したら、この領地における私のやり方を認め、即刻立ち去ってください」
「……ほう」
ベルナルドの目が、計算高く細められた。
(できるはずがない。神の領域だ。……こいつは自ら墓穴を掘ったな)
もし失敗すれば、それを理由に「偽の奇跡で聖女を惑わせた」として断罪できる。火あぶりにする大義名分が得られる。
「よかろう」
ベルナルドは歪んだ笑みを浮かべた。
「その賭け、乗ってやる。……だが、もし失敗すれば、貴様を『希代の詐欺師』として処刑する。さらに、この悪魔の館(施療院)も灰にする」
「構いません」
マイルズは即答した。
父ロッシュが「マイルズ!」と叫ぼうとしたが、息子の絶対的な自信に満ちた横顔を見て、言葉を飲み込んだ。
「マイルズ、様……」
ノアが震える声で呼んだ。
「無茶です……。私の目は、神様が奪ったものです。人の手でなんて……」
「奪われたのではありません」
マイルズは彼女の前に跪き、その冷たい手を握った。
「神様は、ただ『蓋』をしていただけです。……そろそろ、その蓋を開けて、世界を見る時が来たんですよ」
マイルズの体温が、言葉が、ノアの冷え切った心に染み渡っていく。
彼女は生まれて初めて、「祈りなさい」ではなく「治しましょう」と言われたのだ。
「期限は三日後」
マイルズは宣言した。
「大聖堂の前……広場にて、公開手術を行います。全ての領民と、あなたの神の前で証明してみせましょう。……科学という名の奇跡を」
◇
それからの三日間、マイルズは不眠不休で準備を進めた。
手術自体は、前世の眼科医としての知識があれば難しくはない。
問題は、道具だ。
マイルズは赤錆山のガントを呼び出し、極細の吸引管と、顕微鏡下での手術器具を作らせた。
そして、最も重要なパーツ――「眼内レンズ」。
こればかりはガラスや金属では代用できない。
マイルズは『創造』スキルを使い、生体適合性の高いアクリル樹脂、あるいはシリコンに近い物質を魔力で合成し、完璧な透明度と弾力性を持つ人工レンズを作り上げた。
「……できた」
手術前夜。
マイルズは完成したレンズを顕微鏡で確認し、息を吐いた。
直径六ミリの、小さな円盤。
これが、少女の運命を変える鍵だ。
シンシアが、コーヒーを差し入れてくれた。
「……マイルズ様。勝率は?」
「技術的には一〇〇パーセントだ」
マイルズはレンズをケースに収めた。
「あとは、彼女の体力が持つかどうか。……そして、術中の妨害がないかどうかだ」
「警備はロッシュ様と騎士団が固めています。……私も、計算上考えうる全ての妨害パターンを予測し、配置を提案しました」
「ありがとう、シンシア。……君がいてくれて助かるよ」
いよいよ、決戦の朝が来る。
それは、バーンズ領の運命を賭けた、神と人との戦いだった。




