第21話 深紅の来訪者と、盲目の聖女
初夏の陽気が眩しいバーンズ領。
赤錆山から伸びる線路の上を、今日も蒸気機関車『バーンズ一号』が、黒煙を棚引かせながら力強く走っていた。
沿線の農民たちは、かつては「黒い煙を吐く怪物」と恐れたその姿に、今では手を振って挨拶をするのが日常となっていた。
「順調だな」
領主館の執務室から、マイルズはその光景を眺めていた。
帝国との交易も軌道に乗り、領内の経済は右肩上がりだ。
シンシアがまとめた報告書には、またしても過去最高益の数字が並んでいる。
だが、その平和な風景に、異質な「染み」が広がろうとしていた。
「……マイルズ様」
エリーゼが、青ざめた顔で部屋に入ってきた。
彼女は今や、銀翼商会の支店長としてだけでなく、マイルズの外部折衝役もこなしている。
「来ましたわ。……西の街道から」
「ああ。見えているよ」
マイルズの視線の先。
領都へのメインストリートを、異様な集団が行進していた。
全員が、血のように赤い法衣を纏い、顔を深いフードで隠している。
先頭を行く者が掲げているのは、巨大な黄金の十字架。
そして、彼らが通るたびに、活気に満ちていた領民たちの笑顔が消え、恐怖に染まった沈黙が広がっていく。
大陸最大の権威。
聖教国ルミナス教、異端審問団。
「……予想より早かったな」
マイルズは静かに呟いた。
「父上には?」
「すでにご連絡しました。ロッシュ伯爵は『門前払いしてやる』と息巻いておられますが……」
「止めてくれ。彼らを武力で追い払えば、我々は『神の敵』認定される。……そうなれば、領民の心は離れる」
マイルズは立ち上がった。
「私が行く。……丁重に、お迎えしようか」
◇
領都の中央広場。
普段は市場が開かれ、賑わうその場所は、今や張り詰めた緊張感に包まれていた。
「悔い改めよ!」
しわがれた、しかしよく通る声が響き渡る。
集団の中心に立つ、一人の痩せこけた老人。
眼窩が窪み、狂信的な光を宿した瞳を持つ男。
異端審問官総長、ベルナルド。
彼は、広場の片隅に設置されていた「公共水道の蛇口」を杖で指し示した。
「見よ! この鉄の管を! 大地から無理やり水を吸い上げ、あまつさえ薬などという穢れた粉を混ぜている! これは神への冒涜である!」
さらに、遠くを走る蒸気機関車を指差す。
「見よ! あの黒い煙を! 魔石という神の恵みを拒絶し、黒い石を燃やして走るあの姿……あれこそが、地獄の窯の蓋が開いた証拠である!」
領民たちがざわめく。
「そ、そんな……俺たちはあれのおかげで助かっているんだぞ」
「でも、教会様が言うなら……」
「やっぱり、バチが当たるんじゃ……」
長年染み付いた信仰心は、容易には消えない。
ベルナルドの言葉は、人々の心に潜む「変化への不安」を的確に刺激していた。
「迷える子羊たちよ。……我らは、神の慈悲を届けに来た」
ベルナルドが手を掲げると、集団の後ろから、一人の少女が連れ出された。
純白の修道服に身を包んだ、十二歳ほどの少女。
色素の薄い金髪に、透き通るような白い肌。
そして、その瞳は閉ざされ、目元には薄い布が巻かれていた。
「聖女ノア様だ……」
「おお、生きる聖人様……」
領民たちが膝をつき、祈り始める。
聖女ノア。
生まれつき目が見えず、体も弱いが、その祈りは人々の苦しみを和らげると言われる、教会の象徴的な存在。
ベルナルドは、彼女の細い肩に手を置いた。
「この清らかな乙女を見よ。彼女は光を奪われたが、その代わりに神の声を聞く力を得た。……科学などという偽りの光ではなく、真の祈りこそが救いなのだ」
完璧な演出だった。
科学による豊かさを「悪魔の誘惑」とし、清貧と祈りを「正義」とする。
このままでは、マイルズが築き上げてきた信頼が、根底から覆される。
「……素晴らしい演説ですね」
その場の空気を一変させる、涼やかな声が響いた。
人垣が割れ、マイルズが姿を現す。
隣には父ロッシュ、後ろには騎士団を従えているが、武器は抜いていない。
「ようこそ、バーンズ領へ。遠路はるばるご苦労様です」
マイルズは、敵意を微塵も見せず、完璧な貴族の礼法で挨拶した。
ベルナルドが、蛇のような目でマイルズを見下ろす。
「……貴様が、マイルズ・バーンズか」
「はい。この地の領主代行を務めております」
「ふん。悪魔憑きと聞いていたが、見た目はただの子供か」
ベルナルドは鼻を鳴らした。
「我々は、この地に蔓延る『異端』の調査に来た。……教皇聖下の命により、貴様の工場、病院、そして屋敷の全てを査察する」
それは「捜査令状」なしの家宅捜索宣言に等しい。
ロッシュが剣の柄に手をかける。
だが、マイルズは笑顔を崩さなかった。
「構いませんよ」
「……何?」
「やましいことなど何もありませんから。どうぞ、心ゆくまでご覧ください。……当領の技術が、いかに神の理に適ったものであるか、ご説明いたしましょう」
マイルズの余裕に、ベルナルドが眉をひそめる。
抵抗するか、あるいは激昂すると踏んでいたのだ。
「……口の減る小僧だ。よかろう、その化けの皮、剥いでくれる」
ベルナルドは踵を返そうとした。
その時。
マイルズの視線が、傍らに立つ聖女ノアに向けられた。
彼女は、怯えるように震えていた。
大人の道具として連れ回され、見世物にされている少女。
マイルズは、無意識にスキル『生命』を発動した。
(……診断開始)
魔力の波が、少女の体をスキャンする。
栄養状態は悪い。ストレスによる自律神経の乱れ。
そして、最大の問題である「目」。
(眼球自体に萎縮はない。網膜も生きている。視神経の伝達も正常。……原因は、水晶体の白濁か)
先天性白内障。
この世界では「不治の病」であり、「神が与えた試練」として片付けられる症状だ。
だが、マイルズ(元医師)にとっては違う。
(……治せる)
マイルズの心に、一つの「戦略」が浮かんだ。
宗教家が最も恐れるもの。それは、彼らの神頼みを上回る「現実の奇跡」だ。
「聖女様」
マイルズが声をかけると、ノアがビクリと肩を震わせた。
「……だ、誰?」
「マイルズと申します。……お疲れでしょう。当領の迎賓館で、旅の疲れを癒やしてください」
「気安く触れるな!」
ベルナルドがノアを隠すように立ちはだかった。
「穢らわしい! 聖女様は神の所有物だ。異端者の施しなど受けん!」
「それは残念です。……では、教会を用意させましょう。そこなら文句はないはずだ」
マイルズは一歩も引かなかった。
「この領地の責任者として、客人を野宿させるわけにはいきませんので」
「……フン。勝手にしろ」
ベルナルドは捨て台詞を残し、手下と共に去っていった。
ノアは連れて行かれる際、一度だけ振り返り、見えない目でマイルズの方を向いた。
何かを、感じ取ったかのように。
広場に残されたマイルズたち。
「……マイルズ。あんな古狸、腹の中に招き入れて大丈夫か?」
ロッシュが心配そうに尋ねる。
「大丈夫です、父上。……敵の懐に入らなければ、勝てない勝負もあります」
マイルズは、去っていく紅い集団の背中を見据えた。
「彼らは『奇跡』を売りにしている。ならば、我々は『真実』で対抗しましょう」
「真実?」
「ええ。……神様の気まぐれではない、誰にでも平等に訪れる救い。それが医学です」
マイルズの脳裏には、既に手術のシミュレーションが描かれていた。
聖女の目を治す。
それは、彼女を教会から解放するためではない。
彼女を「神の操り人形」から、「自分の意志で神に仕える人間」に戻すためだ。
そしてそれは、腐敗した教会組織への、痛烈なアンチテーゼとなる。
戦いの火蓋は切られた。
剣も魔法も使わない、イデオロギーの戦争が始まる。




