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バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します  作者: Nami


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第18話 胃袋への侵略戦争


「……ここが、迎賓館か」

蒸気機関車の旅を終えたヒルデガルドたちは、工場地帯から少し離れた、静かな森の中に佇む洋館に案内された。

赤錆山の無骨な工場とは対照的な、白亜の美しい建物だ。

「どうぞ、お入りください。旅の疲れを癒やしていただくため、最高の準備をしてあります」

マイルズが恭しく扉を開ける。

ヒルデガルドは、まだ少し足元がふわふわしていた。

あの「鉄の馬」の衝撃が抜けていないのだ。

(あんな速度で移動して、なぜ馬車酔いしない? 魔法のクッションか?)

彼女の常識は既にヒビだらけだったが、武人の意地で背筋を伸ばし、館へと足を踏み入れた。

「フン。帝国への媚びへつらいか。……だが、食事には期待していないぞ」

ヒルデガルドは、マイルズを睨んだ。

「どうせ、貴様らのような軟弱な国のご馳走は、砂糖と脂でベタベタなのだろう? 我が帝国の兵士は、堅パンと塩漬け肉こそが力の源だと教えられている」

帝国の食文化は質実剛健。

保存性を最優先し、味は二の次。硬い黒パンをスープでふやかして食べるのが一般的だ。

彼女にとって、食事とは「補給」であり、「楽しみ」ではなかった。

「なるほど。……では、まずはその『補給』を行いましょう」

マイルズは食堂へと案内した。

食堂のテーブルには、湯気を立てる料理が並べられていた。

だが、豪華絢爛なフルコースではない。

「……なんだこれは?」

ヒルデガルドが眉をひそめた。

目の前に置かれたのは、透き通った琥珀色のスープと、金属製の奇妙な筒(缶)、そして白いパンだけだ。

「我が領の『野戦食レーション』です」

マイルズは言った。

「殿下は軍人であらせられる。ならば、戦場で我々が何を食べているかを知るのも、有意義な視察かと」

「ほう。野戦食か」

ヒルデガルドは興味を持った。

「見た目は悪くない。……だが、戦場でこんな液体スープを持ち歩けるわけがなかろう」

「ええ。それは『お湯を注いで戻した』ものですから」

マイルズは、乾燥野菜と麺が入った器を示した。

「お湯さえあれば、三分で温かい食事が摂れます。……そして、こちらのパン」

マイルズは白いパンをちぎり、ヒルデガルドに差し出した。

「どうぞ」

ヒルデガルドは警戒しつつ、口に運んだ。

瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。

「……なっ!?」

柔らかい。

帝国の黒パンのように、石を噛むような硬さがない。

雲のようにふわふわで、噛むほどに小麦の甘みが広がる。

「こ、これがパンだと? ケーキではないのか?」

「いいえ。特製の酵母で発酵させた白パンです。……そして、メインはこちら」

マイルズは、金属の筒――「缶詰」を開けた。

パカッ、という音と共に、濃厚な肉の香りが広がる。

中には、トロトロに煮込まれた牛肉のデミグラスソース煮込みが詰まっていた。

「こ、これは……煮込み料理? なぜ鉄の筒に入っている?」

「『缶詰』です。空気を抜いて密封し、加熱殺菌してある。……この状態で、常温で三年は持ちます」

「さ、三年だと!?」

副官が椅子から転げ落ちそうになった。

「塩漬けでも干し肉でもなく、このジューシーな煮込みが……三年!?」

「召し上がれ」

ヒルデガルドは、震える手でスプーンを伸ばした。

口に入れた瞬間、ホロホロと崩れる牛肉の旨味と、野菜の甘味が舌を直撃した。

「んっ……!」

彼女の喉が鳴る。

美味い。帝国の宮廷料理人が作るものより、遥かに美味い。

それが、戦場で、いつでも食べられる?

(負けた……)

一口食べただけで、彼女は悟った。

堅パンを齧りながら行軍する帝国軍と、この温かく栄養満点な食事を摂るバーンズ軍。

士気の差は歴然だ。

「……卑怯だ」

ヒルデガルドは、悔し紛れにパンをスープに浸した。

「こんな……こんな美味いものを食べて戦うなど……卑怯だぞ、バーンズ!」

「ありがとうございます。最高の褒め言葉です」

マイルズは、さらにデザートとして「桃の缶詰」を開けた。

冬の終わりに、完熟した桃の甘露煮。

その甘さは、少女であるヒルデガルドの心(と胃袋)を完全に陥落させるのに十分だった。

「ふぅ……」

食後、満腹になったヒルデガルドは、ソファに深く沈み込んでいた。

「……悪くない『補給』だった」

「それは何よりです。……では、次は汗を流しましょうか」

マイルズの案内で、彼女は館の奥へと進んだ。

そこには、湯気が立ち込める大浴場があった。

「ゆ、湯か? 桶一杯の湯で体を拭くのか?」

帝国の入浴事情は、水が貴重なこともあり、濡れタオルで拭くのが主流だ。

「いいえ。……浸かるのです」

扉が開くと、そこには岩で作られた巨大な湯船と、あふれ出る豊富な湯があった。

バーンズ領に湧く天然温泉だ。

「……なんだこの湯量は! 溺れる気か!」

「『温泉』です。大地の熱で温められた、ミネラル豊富な天然の湯。……傷や疲労回復に劇的な効果があります」

マイルズは、侍女たちに合図した。

「ごゆっくりどうぞ。洗い場には、我が領自慢の石鹸と、髪を洗う『シャンプー』を用意してあります」

「しゃんぷー……?」

マイルズは一礼して退室した。

ここから先は、侍女たち(シンシア含む)の領域だ。

一時間後。

湯上がりのヒルデガルドは、休憩室で呆然としていた。

彼女の肌は、茹でたての卵のようにツヤツヤと輝き、頬は桜色に染まっている。

そして何より、あのゴワゴワだった金髪が、今は絹糸のようにサラサラと肩に流れていた。

「……信じられん」

彼女は自分の髪を指でいた。

引っかからない。指通りが滑らかすぎる。

そして、体から漂う、薔薇の石鹸の香り。

「これが……私なのか?」

鏡に映る自分は、戦場を駆ける「戦乙女」ではなく、ただの可愛らしい「少女」に見えた。

「いかがでしたか、殿下」

マイルズが、冷えたフルーツ牛乳(これも発明品)を持って現れた。

ヒルデガルドは、ビクッと肩を震わせた。

今の自分は、あまりにも無防備だ。軍服ではなく、用意された柔らかなローブを纏っているだけ。

「……貴様」

ヒルデガルドは、牛乳を一気に飲み干した(これも衝撃的な美味さだった)。

「貴様は、悪魔か」

「衛生改革官です」

「嘘をつけ! ……こんな、こんな骨抜きにするような真似をして!」

ヒルデガルドは睨んだが、その目には以前のような殺気はなかった。

あるのは、未知の快楽を知ってしまった戸惑いと、それを与えた少年への、複雑な熱視線だった。

「帝国には、ないだろう。……この食事も、この湯も」

「……ない。あるわけがない」

「なら、仲良くしましょう」

マイルズは、悪魔的に微笑んだ。

「私の領地と手を組めば、これらは貴国のものになります。……輸入という形でね」

ヒルデガルドは唇を噛んだ。

軍事力では脅せない。

そして文化力ソフトパワーでは、完敗した。

この少年の掌の上で、踊らされている屈辱。

だが、その屈辱が、不思議と嫌ではなかった。

(……強い)

彼女は認めた。

この少年は、剣を持たずとも、私より強い。

私の心臓(胃袋)と、首(肌)を、完全に掴んでいる。

「……分かった」

ヒルデガルドは、ローブの裾をギュッと握った。

「交渉のテーブルについてやる。……ただし! 明日の朝も、あの『桃』と『湯』を用意しろ! これは命令だ!」

「仰せのままに、殿下」

胃袋と清潔さによる文化侵略は成功した。

だが、マイルズの完全勝利と思われたこの会談に、水を差す者がいた。

帝国の使節団に紛れ込んでいた、軍部の「強硬派」。

彼らは、皇女が懐柔されたことを察知し、独断で動き出そうとしていた。

「皇女殿下は騙されている……」

「あの少年を攫い、技術を吐かせるしかない……」

深夜。

マイルズの寝室に、忍び寄る影があった。

だが彼らは知らない。

この館の主人が、白衣を着た時こそ、最も恐ろしい存在になることを。


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