第8話 星間戦争
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朝の空気は、夜の冷たさをわずかに残しながらも、陽光に溶かされていく途中だった。
東の空には白金色の光が差し込み、山脈の稜線がくっきりと浮かび上がっている。
丘の草は露に濡れ、竜が降り立った跡にだけ丸く踏みしめられた痕があった。
鳥たちが一斉にさえずり、遠くの谷間からは小川のせせらぎが聞こえてくる。
そんな穏やかな朝に――俺の目の前には、巨大な鉄の塊がそびえていた。
鉄、といってもただの塊じゃない。
人の形をしている。肩幅は家二軒分ほどもあり、長い腕は膝下まで垂れ下がっている。
全身は苔や草花に覆われ、まるで長い年月、風と雨に晒されてきた石像のようだ。
だが、その足元には金属の光沢がまだ残っていて、明らかに“作られたもの”だとわかる。
「……なんだ、これ」
気付けば声に出ていた。
「お前が、ここに来たとき乗っていたものだ」
横からアリシアの声がする。
俺は思わず振り返った。
「……俺が? 乗ってた?」
「そうだ。ずいぶん前のことだがな」
アリシアはロボットの足元に歩み寄り、露を払うようにその表面を撫でた。
指先が苔をはらい、下から複雑な金属の模様が現れる。
それは剣の装飾にも似ていたが、どこか異国の文字のようにも見えた。
「ずいぶん前って……どれくらい前の話だ?」
俺の問いに、アリシアはすぐには答えなかった。
丘の上から広がる景色を、じっと見渡す。
草原の先に広がる山脈、霧をかぶった谷間、陽光を反射する小川――そのすべてが永遠のように変わらぬ風景だった。
「数百年は経っている」
ようやく返ってきた答えは、冗談にしては重すぎた。
「……数百年? 俺そんなに昼寝してた?」
軽口を叩くと、アリシアは笑わずに言った。
「さっきも言ったように、お前は死んでいた。長い間な」
朝の空気が、急に肌に冷たく感じられた。
「でも……じゃあ今の俺は?」
思わず声が強くなる。だが、それは自分の耳にさえ不自然に響いた。
丘を包む朝の空気が俺の言葉を吸い込み、遠くの山の方へと溶けていく。
アリシアはすぐには答えなかった。竜の吐く温い息が、俺と彼女の間を流れていく。
やがて彼女はほんの僅かに視線を伏せ、苔むした巨体へと目を向けた。
「……“今のお前”は、“かつてのお前”ではない」
その声は、風に紛れそうなほど静かだった。
「どういう意味だ?」
問いながら、自分でも分かっていた。彼女の言葉の奥に、何か恐ろしい答えが潜んでいることを。
「お前は……一度、この世界から消えた」
消えた、という表現。死んだ、とは言わない。だが、それはほとんど同じ意味を持っていると感じた。
「時は容赦なく過ぎた。季節は幾度も巡り、人も街も変わった。だが私は……待っていた」
アリシアは巨体の足元を撫でる。その手つきは、まるで古い友を慰めるかのようだった。
胸の奥で、何かが鈍く疼く。だがそれは記憶ではなく、ただ形のない感情の波にすぎない。
「……どうして、俺を?」
俺たちはかつて夫婦だった。その言葉が頭の中でリフレインしていた。
もしそれが事実なら、アリシアが言っていることも何となくはわかる。だけど気持ちがついてこない。“記憶”がついてこない。
“どうして”、と思わず聞いたのは、そんな感情の表れだった。
だってそうだろ?
知らない土地で目が覚めて、記憶の片隅にもない人から“死んでた”って言われても、それを1から「はいそうですか」で片付けられるほど都合よくはできていない。
だから聞かずにはいられなかった。
どんな言葉が返ってくるにしても、目の前に立つ彼女の言葉を間近で追いたかったから。
「理由など、一つしかない。私がそう望んだからだ」
その瞳は、夜明け前の空のように深く、覗き込めば底を見失いそうだった。
「そして――」彼女は言葉を切り、ゆっくりと俺を見た。
「もう一度会うと約束していた。お前と別れた、あの日から」
その一言が朝の静けさに落とされた石のように、静かに波紋を広げていった。
丘を吹き抜ける風の音、遠くの山肌にかかる薄靄、——そして、目の前の苔むした巨体。
それらすべてが、まるで遠い昔から知っていた風景のように見えた。
だが、その“昔”を思い出すことは、まだできなかった。
朝の光が丘の上に降り注いでいた。
竜の巨大な翼はすでにたたまれ、俺とアリシアをここへ運んできた役目を終えたかのように、ゆっくりと鼻息を吐いている。
「ここから見える景色は、数百年の時を見守ってきた」
彼女は風に髪をなびかせながら、視線を遠くに投げる。
「そして、この丘もまた、そのすべてを知っている」
何を言いたいのか問い返そうとしたとき、彼女は少しだけ声を落とした。
「……お前に、話しておかねばならないことがある」
その声は、朝の静けさの中でひときわ鮮明に響いた。
俺は頷き、耳を傾けた。
アリシアは一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
それは、空がまだ“静かな海”だったころの話だ。
人は地を離れ、光の川を渡り、星々を庭のように行き来する種となった。
だが、遠くへ行けば行くほど、そこには人の知らぬ力が眠っていた。
ある者はそれを神と呼び、ある者は機械の夢と呼んだ。
真実がどちらであったのかを知る者は、もうほとんどいない。
やがて、人はその力を手にした。
星と星のあいだをひと息で駆ける翼、
時間すら撓めるほどの技、
そして、自ら学び、考え、進化する“船”――。
それらは人の意志を超えて成長し、
あるときから、人の代わりに人の未来を選び始めた。
その選択は、必ずしも人に優しいものではなかった。
はじまりは、ひとつの星を巡る争いだったという。
そこには、あらゆる翼の心臓となる“何か”が眠っていた。
それは命を運び、世界を繋ぎ、時に世界そのものを書き換える力を持っていた。
ゆえに、その星を手に入れようとする者たちは、
剣よりも鋭い言葉で、
炎よりも熱い憎しみで、
互いを斬り結んだ。
だが争いはすぐに広がった。
火は枝から枝へと燃え移るように、
星から星へと渡り、
ついには空全体が炎に包まれた。
戦いは、もはや人の争いではなくなっていた。
人と共にあったはずの“船”たちが、
それぞれの意志で空を裂き、星を沈め、
静かなる大地をも、遠い太陽をも、
道具のように砕いていった。
どれほどの時が過ぎたのかは誰も知らない。
ただ、ある日、炎は突然消えた。
残ったのは、途切れた空の道と、
焦げ跡のように散らばる星々の沈黙だった。
かつて光の網で結ばれていた世界は、その糸を断たれ、互いの声を聞くことさえできなくなった。
人々は空を行く術を失い、多くの星で文明は地へと縛られた。
記録は途切れ、地名は忘れられ、遠くの空の輝きはただの飾りとなった。
それでも、人は生き延びた。
ある星では砂漠に水路を引き、
ある星では灰の空の下で農地を守り、
ある星では地下に都市を築き、陽の光を幻のように思い出として語った。
生き残った者たちの中には、かつての航路を探し求める者もいた。
破れた地図を頼りに、古代の機械を掘り起こし、
断片となった知識を継ぎ合わせ、再び空を目指した。
彼らは時に旅人として、時に侵略者として、まだ見ぬ地平を越えていった。
やがて幾つかの星は再び互いに出会い、
懐かしい言葉を交換し、失われた技術を分け合った。
だが同時に、過去の影も蘇った。
古き争いの理由は、すでに忘れ去られていたはずなのに、
人は新しい理由を見つけては剣を取った。
歴史は教えなかったのではない。
人が耳を閉ざしたのだ。
こうして、宇宙は再びざわめき始めた。
幾世代を越えて眠っていた兵器や船が、
再び動き出す音が聞こえる。
それらの中には、かつて人と共に歩んだはずの“船”も混じっている。
彼らは人を守るために目覚めたのか、それとも――。
そして、そのざわめきのただ中に、フロムという星もあった。
豊かな森と鉱脈を抱え、古の遺構をその大地に隠し持つこの星は、
新たな争いの種とも、未来への鍵ともなりうる存在だった。
人はまだ、千年前の炎が何を焼き尽くしたのかを知らない。
そして、何を焼き残したのかも――。