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第6話 かつて、空を駆けた日々



風が、全身を切り裂くように駆け抜ける。

でも不思議と痛くはない。ただ、胸の奥まで冷たい空気が流れ込んでくる感覚がやけに鮮烈だ。


目の前には、信じられないほど広い空。

雲が足元に流れ、遠くの山々は白い帽子をかぶって悠然とそびえている。

下を見れば緑の海みたいな草原が果てしなく続き、その間を銀色の川がゆるやかにうねっている。

遠方には湖が太陽の光を鏡のように跳ね返し、さらにその奥、うっすらと海らしき青がのぞいていた。


……あー……すげぇ。

思わず口が半開きになる。

地上で見たときだって壮大だったが、この高さからだと、まるで世界そのものを俯瞰しているみたいだ。

風の音、翼の羽ばたきの低い振動、雲を突き抜ける瞬間の冷気――全部が一度に押し寄せてきて、ただただ感覚が追いつかない。


「……いい景色だろう?」

前方で、アリシアが振り返り、風を受けた銀髪をなびかせながら笑った。


「いや、“いい景色”ってレベルじゃねぇよ……これもう、スクリーンセーバーどころか神様のPVだろ……」


俺が感嘆半分、ツッコミ半分で返すと、アリシアは少し目を細めた。

そして、ぽつりと呟いた。


「……かつてお前と、ヴァルゼルと共に、この世界を旅したものだがな」


――え?


「ちょ、ちょっと待て。“かつて”って、いつの話だよ!?」

「いつ……か。そうだな……」


アリシアは視線を遠くに投げ、ほんのわずかに表情を和らげた。

その声色が、さっきまでの茶化すような調子ではない。

なんというか……時間の向こう側を見つめてるみたいな、そんな響きだった。



「……あれは、まだこの空が、もっと澄み渡っていた時代だ。

 大地の緑は今よりも濃く、海は鏡よりも清らかで、山々は神々の門のように聳えていた。

 あたしたちただ行きたい場所へ行き、見たいものを見に行った。

 戦も争いもなかったわけじゃないが……お前と、そしてヴァルゼルと共に空を駆ければ、何も恐れるものなどなかった」


アリシアの声が、風に溶けながらもはっきり耳に届く。

俺は思わず息を飲んだ。

彼女の背中越しに見る横顔は、さっきまでそばにあった不敵な笑顔じゃなく……懐かしさと、少しの切なさが混ざった顔だった。



「覚えてないだろうけどさ、お前、昔はほんっと無茶ばっかしてたんだぞ」

「……ほぉーん。いや、待って。無茶って、どのレベルの話?」


風が頬を撫で、背中の方へ逃げていく。耳の奥で羽ばたきの低い唸りが響くなか、日の光を受けた銀髪が細い糸のように宙を舞い、頬にかかる。彼女は片眉を上げ、少し口角を吊り上げた。


「例えば……崖から飛び降りた日のこととか」


まるで「朝パンに何を塗ったか」みたいな軽さで言われた。


「……“飛び降りた”ってなに?」

「あたしは“危ないからやめろ”ってちゃんと言ったんだ。それなのにお前、崖の端で『行ける!』って笑ってそのまま飛び降りた」


その光景を想像した瞬間、胃のあたりがひゅっと縮まる。いや、記憶はない。ないのに、落ちていく感覚だけが妙に生々しい。


「バンジーかよ!ロープもなしで!?」

「しかも落下中に“おー!これイケる!”って叫んでた」

「いや無理だろ!? 落下中に合格判定出すやついる!?」


アリシアは吹き抜ける風に負けない声で笑った。肩がほんの少し揺れ、その動きに合わせて銀髪がまた光を散らす。


「結局、下の川にドーンと落ちて、全身びしょ濡れで浮かび上がってきて……こっちに向かって“おかわりいけるぞー!”って」

「……俺、脳の安全装置壊れてたのか?」


彼女は小さく首を振り、視線を再び前に戻す。その横顔は笑っていた。まるで昨日あったことを思い出すかのように。


「あと、“地底三日キャンプ事件”」

「なんだよそのアウトドアイベント名」


ヴァルゼルの巨大な翼がゆっくりと空気を押し下げ、そのたびに身体がわずかに浮く感覚があった。雲が裂けて月光が差し込む。ほんの短い沈黙――この一拍が、彼女の口にする次の言葉を妙に待たせる。


「洞窟で迷ったとき、普通は出口を探すだろう? お前は焚き火を起こして“夜はどこでも来るんだな”って座り込み、三日間そこに居座った」

「……いやいやいや、探せよ出口!」

「しかも、岩魚捕まえて焼いて食ってたな」

「サバイバルスキル発動すんな!」


笑い声が、尾を引くように空の奥へと溶けていった。下を覗けば草原が薄靄のベールに包まれ、銀色の川が蛇のようにくねっている。俺は思わずその景色に一瞬見惚れるが、すぐに彼女の声に引き戻される。


「口喧嘩した後、禁断の森に入っていった時は笑ったよ」

「……禁断の森?」

「誰も近づかない禁断の森に一人で入って、夜明け前に帰ってきたんだ。肩に小さな光る鳥を乗せてな」


彼女の視線が少し遠くを見て、風の音がそこだけ柔らかくなった気がした。


「……その鳥の色、まだ覚えてる。朝焼けにも月の光にも似ていない、透明な金色だった」


その言葉に、胸の奥がかすかに熱くなる。だが俺は慌ててツッコミを返す。


「いや誰だよ案内人!? 森の妖精!? そいつ今どこいった!?」


アリシアは、ほんの一瞬だけ唇を引き結び――そして、柔らかな声で告げた。


「お前はよく笑ってた。

 どんな危険な場所でも、どれだけ絶望的な状況でも……笑って、前を向いて、あたしを引っ張ってくれた。

 あたしは……そんなお前を信じていたし、誇らしくもあった。

 ――だが」


最後の一言に、微かに震えが混じる。

ヴァルゼルの翼音だけが、会話の合間を埋める。


「……もうだいぶ昔の話だ。——あの日、お前が死んだ日のことを、あたしは今でも覚えている。

 夕暮れの空、燃えるような赤の中で、お前は笑っていた。“またな”って……そう言い残してさ」


俺は、喉の奥がきゅっと締まる感覚を覚えた。

正直、記憶はない。でも、彼女の言葉が妙に心臓に響く。

胸の奥が、痛いような温かいような――説明できない感覚で満たされていく。


「……で、でも、なんで俺を……」

「決まってる。会いたかったからだ」

そう言ってアリシアは、風を裂きながら前を見据えた。

その声には、迷いが一片もなかった。


混乱しながらも、目の前の景色がやけに鮮やかに見えた。

雲の切れ間から双月が寄り添うように輝いている。

それはまるで、彼女と俺の再会を祝福しているみたいだった。


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