第5話 龍、降臨(物理)
城下町を抜ける道は、想像以上に長かった。
アリシアは先頭を軽快に歩き、俺はその背中を追う。銀白の髪が朝日を反射してキラキラしてるせいで、なんか目がチカチカする。
いや、違うな……俺の目が慣れてないだけだ。この世界の色彩ってやたら鮮やかすぎる。
通りを抜ける途中、またしても亜人たちの視線を集める。
「ほら見て、耳がないよ!」「尻尾もない! 変なの!」とか、子どもが大声で言う。
おいおい、初対面で「変なの」は心に刺さるぞ?
しかも横を通った猫耳商人には「人間って昔の絵巻でしか見たことないな」とか言われた。まるで絶滅危惧種みたいだ、俺。
それでもアリシアは気にも留めず、門に向かってズンズン進む。
やがて巨大な城門が見えてきた。分厚い木の扉には金属の補強板が張られ、塔の上には弓を持った衛兵らしき獣人が立っている。
「通るぞー」とアリシアが軽く手を挙げると、門番たちは笑顔で敬礼。どうやらこの世界で彼女は顔が利くらしい。
城門を抜けた瞬間――
俺の目に飛び込んできたのは、果てしない草原だった。
「……おおお……っ」またもや感嘆の声が漏れる。
どこまでも続く緑の海。風が吹くたび草が波のようにうねり、キラキラと陽光を反射している。
遠くには山脈が連なり、その向こうの空には、まるで筆で描いたような白い雲が浮かんでいた。
鼻をくすぐるのは、湿った土と草の匂い。それに混じって、花の甘い香りも漂ってくる。
「口あけっぱなしだと虫入るぞ」
アリシアが後ろを振り返って笑う。
「う、うるせぇ……いやだって、すげぇだろこれ!」
「まぁな。初めてなら、そうなる」
彼女は少し誇らしげに胸を張った。
草原の中を二人で歩く。石畳はすぐに土道へと変わり、その両脇に小さな花や背の低い潅木が点々と生えている。
鳥が頭上を飛び、時折、地面からバッタが跳ね出しては俺の足元をすり抜けていく。
……っていうか、このバッタ、普通の3倍くらいデカいぞ。昆虫苦手な人間だったら卒倒するレベルだ。
そんな調子でしばらく歩いていると、アリシアがふと立ち止まった。
「着いたか?」と聞くと、彼女はニヤリと笑い、唇をすぼめて――
ヒュウウウウウゥゥ……
澄んだ音色の口笛が草原に響く。風に乗って遠くまで届きそうな、まるで楽器のような音だった。
その時だった。
地平線の向こうで、何かがうねるように動いた。
最初は雲かと思った。だが、その塊はどんどんこちらに近づいてくる。
「おい、あれ……なんだ?」と俺が呟くと、アリシアは「見てりゃわかる」とだけ言った。
近づくにつれ、その輪郭がはっきりする。
巨大な翼――それも、帆船の帆を十枚並べたような広さの、漆黒の翼だ。
翼の付け根から突き出た長い首は、蛇のようにしなり、頭部には角が二本、鋭く後ろに反っている。
鱗は陽光を受けて青黒く光り、その間に走る赤い筋が脈動しているように見えた。
翼が一度はためくたび、ドォン!と空気が爆ぜ、遠くの草が一斉になぎ倒される。
そして――その影は、俺たちの頭上を覆った。
ゴオオオオオォォォ……ッ!
咆哮が空を震わせ、胸の奥まで響く。足が勝手にすくみ、心臓が暴走するみたいに跳ねた。
熱風が頬を打ち、空気が焦げた匂いを帯びる。
「ひ、ひぃぃぃぃっ! ちょっ、お前、あれ何連れてきてんだよ!? 絶対ヤバいやつだろ!?」
「ヤバい? はは、失礼な。あたしの友達だ」
「お前の友達の定義、なんかおかしいぞ!?」
巨体が地面すれすれまで降下し、ドスン!という衝撃と共に着地。
土煙が舞い、視界が一瞬真っ白になる。
煙が晴れると、そこには……
全長三十メートルはあろうかという、古代の神話から抜け出してきたかのような龍がいた。
金色の瞳が俺を覗き込み、その瞳孔が猫のように細くなる。
呼吸一つで、口の端から薄く白い蒸気が漏れた。近い、近すぎる……!
「紹介するぜ。こいつは〈ヴァルゼル〉。空の王だ」
アリシアが平然と紹介する。
一方の俺は、内心で(ああ、俺この世界来てまだ二日目だよな? もう寿命縮むイベント多すぎじゃね?)と泣きそうだった。
「さ、乗れ」
アリシアが軽く言い放った。
……いやいやいや。
今、お前軽く言ったけど、目の前にいるの馬じゃないんだぞ?
全長三十メートル、翼の長さは多分それ以上。顔だけで俺の身長の三倍あるんだが。
「いやいや、“さ、乗れ”って……どこから乗るんだよ!? ていうか、あいつ階段とか付いてねぇぞ!?」
「階段? はは、甘えてんじゃねぇ」
アリシアは悪戯っぽく笑うと、軽く膝を曲げ――次の瞬間、地面を蹴った。
ヒュッ!
目にも止まらぬ速さで竜の背中へ飛び乗る。
おい、何その軽業師ムーブ。人間(?)の跳躍力じゃないだろ。
「ほら、手!」
下から見上げて呆然としていた俺の視界に、すっと伸びるアリシアの手。
いや、無理だろ……と思ったら、彼女が俺の手首をガシッと掴む。
ブンッ!
「うおおおおぉぉぉおおおおお!?」
まるで荷物でも持ち上げるみたいに、俺の体が宙を舞い、そのまま竜の背中に引き上げられた。
背中に着地した瞬間、ゴツゴツとした感触が尻から背骨へ直撃。イテテテ……!
竜の背は、まるで鎧のような分厚い鱗で覆われていた。
近くで見ると、その一枚一枚が瓦のように重なり合い、ところどころに細い溝が走っている。
表面は乾いてザラつき、ところによっては金属光沢のように硬く輝いている。
それだけでなく、鼻をつくのは独特の匂い――焦げた岩と、湿った洞窟の奥に漂う獣臭を混ぜたような、重く濃い生物の匂いだ。
背中の中央には自然にできた鞍のような窪みがあり、そこに腰を下ろすと少し安定する。
「お前、こんなもんどうやって調教したんだよ……」
「調教? してねぇよ。こいつは友達だって言ったろ」
「友達……(この世界の交友関係、やっぱりおかしい)」
ヴァルゼルが低く唸る。
グゥゥゥ……
その声は、腹の底から響き、俺の内臓まで震わせる。
巨大な頭がゆっくり持ち上がり、金色の瞳が遠くを見据える。
まるで「準備はいいか?」と問いかけているみたいだ。
「んじゃ、行くぞ!」
アリシアの声と同時に――
バサァァァァッッ!!!
翼が動いた。
近くで見ると、それはただの羽ばたきじゃない。
まず背筋がググッと盛り上がり、肩甲骨にあたる部分が隆起して翼の骨格が押し出される。
皮膜は半透明の黒に赤い筋が走り、筋肉の動きに合わせて微細に波打つ。
地面そのものが揺れ動いたような脈動が足元から持ち上がった後、竜の背全体がドンッと揺れ、俺は反射的にアリシアの腰にしがみついた。
一度目の羽ばたきで、足元の草原が渦を巻くように吹き飛ぶ。
二度目で、地面との距離が一気に離れ、俺の胃袋が浮き上がる。
三度目――
ドォォン!
翼が空を叩きつける音が鼓膜を破らんばかりに響く。
その瞬間、俺たちは地面から完全に離れた。
「う、うわあああああああああ!!!」
下を見ると、さっきまで歩いていた道も、街の城壁も、あっという間にミニチュアサイズだ。
風が全身を打ちつけ、耳元でゴウゴウと唸る。
空気が薄くなる感覚が、現実味をさらに増す。
ヴァルゼルの飛翔は、滑空と羽ばたきを繰り返す独特のリズムだった。
羽ばたくたびに背が大きく上下し、その度に俺は体ごと空に放り出されそうになる。
滑空に入ると、翼が広がり、空気を切り裂く風音だけが支配する静寂が訪れる。
下を見ると、果てしない草原の緑の海が広がり、その中に川が銀色の帯のように流れている。
遠くの山脈にはまだ雪が残り、頂上付近は雲を貫いていた。
「どーだ、悪くねぇ景色だろ!」
アリシアの声は風にかき消されそうになるが、その表情はやたら楽しそうだ。
一方の俺は――
(いや、悪くはない……悪くはないけど……俺、命綱も安全バーもないんだけど!?)
ヴァルゼルが一声吠える。
グオオオオォォォ!!
その咆哮が空に反響し、鳥の群れが一斉に散る。
翼がもう一度大きくはためき、俺たちはさらに高みへ――
雲の切れ間から、双月が青空に輝いているのが見えた。
こうして、俺は生まれて初めて、空の王の背に乗った。
……いや、正確には、生まれ変わって(?)初めて、だな。