第25話 咆哮
虚禍〈マスク・イーター〉が痙攣するように仮面を軋ませた。
そこから迸る影は地面を這いずりながら形を変え、やがて無数の“足”となって岩肌を踏み砕いた。
「来る……!」
カイルの全身が反射的に硬直した。
大地を踏み割るように、黒い触肢が四方から襲いかかる。槍を構える腕に瞬間的な負荷がかかり、筋肉が悲鳴を上げる。
一本、二本なら弾ける。だが十、二十と重なれば、その質量は岩山そのものの圧迫に等しい。
カイルは下半身を深く沈めた。重心を谷底に打ち込むように、膝と踝の関節を絞り込む。
地脈を繋ぐかのように槍先が微動を止め、触手の雨を寸前で受け止めた。
耳の奥に、骨の芯を叩くような鈍音が響く。空間が軋む音すら聞こえた。
その間隙を突くように、別の触手が背後から伸びてくる。
「ッ……!」
リリムが崖際を駆け抜け、雷光を纏う。だが、すぐには踏み込まない。
むしろ彼女は深く腰を落とし、呼吸を抑えて虚禍の動きを見据えていた。
軽率に飛び込めば、カイルごと絡め取られる。
攻撃を繋ぐ空間の“隙間”を見極めるまでは――。
彼女は内心で短く呟く。
(まだ……もう少し…ッ!)
ギリギリまで踏み込める一歩のタイミング
その“流域”を、間合いの外側から見極めようとしていた。
「律量は、“生命力そのもの”と言っても過言じゃない」
谷の縁。
呆然と戦況を眺めていたユウキのそばで、アリシアの声が淡々と落ちる。
「肉体に血が巡るように、精神に律量が巡る。
それは体と心を繋ぐ“血液”のようなものだ。
ただ流れているだけでは意味がない。方向を与え、形を与えなければ……ただの脈動で終わる」
ユウキは息を呑み、目の前の戦場とアリシアの言葉を重ね合わせた。
「律量を扱うには、“イメージ”が必要なんだ。
生半可な表現じゃ駄目。
頭に浮かべたものを、現実に押し出すほどの確信がなければならない」
リリムの眼光が雷を帯びる。彼女が律装“紫電”を展開するのは、雷という象徴を自らの肉体に刻み込み続けてきたからだ。
それは夢想ではなく、彼女自身の「可能性」の形でもあった。
「律装とは……」
そう呟くアリシアの声が、リリムのステップ音と重なる。
「自己と外部を繋ぐ“鏡”であり、“通り道”だ」
瞬間、リリムの身体が弾けた。
腰から膝、膝から足首へと連動する筋肉の収縮が、地面を爆ぜさせる。
跳躍の慣性に稲妻が重なり、空間が白く閃光した。
「そこッ——!」
雷脚が虚禍の触手を貫き、黒影が霧散する。
カイルは解放された腕で槍を旋回させ、地を揺らすように一閃した。
岩肌を伝った衝撃が触肢を押し返し、マスク・イーターの仮面にまで振動を叩き込む。
仮面が軋み、ひびが走る。
谷間全体が、律量と虚禍の咆哮で共鳴した。
亀裂の走った仮面が、ぬるりと蠢いた。
虚禍は影を増殖させ、足のように湾曲した突起を幾十も地面へ突き立てる。
それが同時に“歩く”のではなく“滑る”動きで、カイルとリリムを包囲した。
“足音“ではなかった。
――ざわ、ざわ、と影が石を擦る湿った音。
視界が絶えず揺らぎ、奥行きの感覚が狂わされる。
カイルの槍がわずかに揺れる。
呼吸は深く、脈拍は抑制。
彼は一歩も動かない。ただ重心を膝の内側に沈め、敵の包囲を待つ。
左前方。
触手が襲いかかる。
空気を裂く風音が耳膜を震わせる。
カイルは槍を下段から払った。
“叩き落とす”のではない――肩甲骨から骨盤までを連動させ、力を弧の内側に流すことで、触手の慣性を自らの体幹で殺していく。
「……重い」
顎を引き、喉奥で押し殺した声。
骨と骨の接合部に伝わる圧力は、巨大な岩を抱え込んだようだった。
だが、足裏は地を離れない。
カイルは槍の石突きを地に打ち込み、その反発を軸に背骨をしならせた。
触手の軌道が逸れ、石壁をえぐる。
破片が弾丸のように四散し、頬を掠める熱を残す。
攻撃へと転じる触手の方向と流れは無秩序のようで、ある一定の”規則性“を持っていた。
カイルの動きに沿って傾く意識が局所的に介在していないと、この規則性は生じ得ない。
虚禍の存在そのものは無秩序であり、実態としての輪郭や質量は不安定な流域の中に常に存在している。
ただしその存在を維持するための”力場”はある種”安定”させていなければ成り立たない「規則性」の中に連続しており、この意味で、虚禍はその個体ごとにそれぞれの「自我」を形成させていることは言うまでもない。
“実体を保つための「自我」を、1つの“枠=体”の中に紐づけている”
敵の繰り出した触手の一本一本やその攻撃範囲は、リリムとカイルの両者を捉えるだけの確かな範囲とベクトルを有していた。
事実2人の動きに沿って流れる攻撃の大部分が正確な角度と範囲性を伴っており、触手それぞれが別々の「目」を持っているかのように、精度の高い捕捉性を伴っていた。
虚禍の分類によって生態的な特徴は大きく異なる。
——が、虚禍自体が通常の生物とは異なった“知覚”を持っていることは確かであり、およそ常人では想像できないほどの情報処理能力が備わっていることは、戦場慣れしているリリムやカイルにとっては容易に想像できることだった。
虚禍の「視点」の中に介在している“目”。
その捕捉レベルがどの次元に存在しているかは未知数であるにしても、容易に間合いを測ることは予測できない危険を生み出す要因になる。
——しかし
この場面。視線を動かすその間際に感じた確かな感触。それぞれの触手の動きの中にある“攻撃性”がカイルに“傾いている”ことは、連続する動きの中で感じ取れた。
その一瞬の隙。
リリムが地を蹴った。
踵が岩盤を裂き、爆ぜる火花とともに稲妻が走る。
彼女の脚筋は張り詰めた弦のように収縮し、伸展と同時に雷撃を伴った推進力を放つ。
その加速の一歩は目では追えない。
空気が“焼ける”ほどの律量が、空間の一部を抉り取るように跳躍する。
「……ッ!」
リリムの眼は仮面の亀裂に吸い寄せられる。
腰の捻転を膝に繋ぎ、膝を足首へ、足首を足指へ。
連鎖の果てに放たれた一閃が紫電となり、闇を切り裂く。
しかし、マスク・イーターの影も同時に蠢いた。
背後から伸びた刃のような触手が、鎌を振るうかのごとく迫る。
「ちっ……!」
空中。
リリムは腰を軸に体を反転させた。
胸郭が捻じれ、肩甲骨が滑る。
関節の連鎖が生む回転が、彼女の身体を紙一重で敵の刃から逸らした。
紫電の刃が鎌を断ち、火花が散る。
だが軌道を修正したため、仮面には届かない。
(……まだ深く潜れない!)
リリムは歯噛みし、着地の衝撃を膝で吸収する。
呼吸が荒い。雷装は負荷が大きすぎる。
その一瞬を、虚禍は逃さない。
無数の足が地を叩き、波打つ影が彼女を囲い込む。
「――リリムッ!」
カイルの声と共に、大地が鳴動した。
槍が薙がれる。
腰を捻るのではない、足裏で大地を噛み、その反発を背骨へ通す。
直線の剛力ではなく、螺旋の力学。
その一薙ぎが、影の束を粉砕した。
リリムは止まらなかった。
波紋のように広がる力場が“跳躍の踏み台”となることを。
雷脚が再び爆ぜ、彼女の身体は更なる高度へ。
(今だ――!)
紫電の尾を引いて突き抜ける。
仮面のひび割れに、刃が届く。
――ビキリッ。
空間がきしむ音。
裂け目が広がり、白い仮面の下から黒く蠢く肉塊が露出する。
虚禍の咆哮。
それは音ではない。
鼓膜ではなく、骨に直接響く震え。
全身の毛細血管が逆流するような圧力が、戦場を覆った。
リリムは膝を折り、荒い呼吸を押し殺す。
汗が頬を伝い、指先は微かに震える。
「……まだ割り切れてない……」
仮面は砕けていない。
黒い影が再び盛り上がり、谷を呑み込もうとしていた。
砕けた岩盤の粉塵が、ゆっくりと空に漂う。
わずかな風に舞い上がり、微細な光粒となって戦場を銀色に霞ませていた。
呼吸の音だけが聞こえる。
カイルは槍を握りしめたまま、肩で息をしない。
胸郭を膨らませず、横隔膜だけで吸い、——吐く。
呼吸を“線”に変える。切らさない。
リリムも同じだ。
腰を落とし、地を噛むように足の指を曲げている。
紫電は収めた。だが、皮膚の下で蠢くような電荷のざらつきが、まだ消えてはいない。
二人の視線の先で、マスク・イーターが蠢いていた。
仮面のひび割れから滲み出る黒肉が脈動している。
まるで心臓がそこに露出しているかのように、ドク、ドクと波打ち、触手の群れへ血を送り出している。
一本、また一本。
影の足は床を這い、絡み合い、あるいは壁を突き破り、地面を縫う。
――音が変わった。
最初は湿った擦過音だったものが、次第に“弦を引き絞る”ような張力の音へと変じてゆく。
硬度を増している。
それはもはや鞭ではなく、鋼の矢。
(来る……!)
カイルは脛に力を込める。
足裏から伝わる地圧を、腸骨へ、背骨へと通す。
一歩踏み込むためではない。
“止まる”ための準備。
リリムは視線を逸らさない。
敵の触手は複雑に絡み、空間を網のように覆っている。
普通なら“動きが読めない”。
しかし――その奥に、必ず“隙間”がある。
彼女はそれを待つ。
虚禍が動いた。
一瞬、全ての触手が――収縮する。
次の瞬間、弾ける。
四方八方から、鋭矢のように迫る。
空間そのものが裂かれる感覚。
地が揺れ、空気が悲鳴をあげる。
カイルは一歩も退かない。
槍を縦に構え、左足を軸にわずか二センチ半、後ろへ重心をずらす。
――その瞬間。
触手が鼻先を掠めて通過する。
髪が揺れる。
耳を裂く風音。
だが当たらない。
「……今」
低く呟く。
槍の石突きが地を突く。
腰椎から肩甲骨へ連鎖させ、刃先を横へ弾いた。
受けるのではない、“軌道を殺す”。
触手が三本、壁へ叩きつけられ、石が弾けた。
リリムは一つの間合いを維持しながら動き続けた。
脚が爆ぜる。
稲妻が走り、身体が矢のように跳ぶ。
呼吸を合わせるかのように敵も動く。
残る触手群が一斉に蠢き、空中の彼女を囲う。
視界が暗転する。
頭上から、左右から、背後から。
光が奪われる。
リリムは深く息を吐いた。
(……焦るな)
背骨を軸に、胸郭を捻る。
肩甲骨が走り、両腕が弧を描く。
その動きに連動して、脚がしなる。
紫電が迸った。
彼女はわずかに姿勢を崩し、触手の網目を“滑り抜けた”。
頬を掠める感触。
血が一筋、飛ぶ。
だが――抜けた。
「カイルッ!」
叫び。
カイルは即座に反応する。
リリムの抜けた軌跡を見て、槍を半円に薙ぎ払う。
慣性を逆手に取り、触手の残滓を一掃する。