第24話 マスク・イーター
雷鳴を裂くような音が、狭い戦場に弾けた。
リリムの双剣が軌跡を描き、紫電の閃光が虚禍の体表を舐める。
だが、斬った手応えはない。輪郭は確かにそこにあるのに、質量は掴めず、ただ空間が焼き切れる感覚だけが残る。
「……ちょろちょろ動き回んのが得意って顔だね、アンタ」
軽口を叩きながらも、リリムの瞳は真剣そのもの。
彼女は既に次の軌道を読み、足を滑らせる。
腰をわずかにひねり、左足のつま先で床を弾いた瞬間――稲妻が奔る。
床板を焦がすことなく、しかし確かに「力」を伝える稲妻。
それは、リリムという律者が持つ特異な“律装”の顕現だった。
律者にとって、律量とはただの燃料ではない。
循環し、刻まれ、己の内で一つの「相」として定まったとき――
律量は律装へと変わる。
リリムの律装は 《紫電》。
八律相のうち、流律(移動・流動)に分類される戦闘体系だ。
瞬発。加速。変転。
流れるような機動と、刹那の間合い制圧。
彼女が滑るたび、床と身体の間に生じる“稲妻の反発”は、摩擦を超えた推進へと変わる。
それはただの脚力ではない。律量によって組み替えられた「運動回路」そのものだ。
まさしく――彼女は雷そのものだった。
一方で、リリムの背後に展開したカイルは真逆の動きを見せていた。
虚禍の間合いへ不用意に踏み込むことなく、あえて半歩退く。
そして、床に槍を突き立てるようにして構えを固定する。
刹那、周囲の空気が重たく沈んだ。
「……やっぱ俺の役目は、土台だな」
カイルの槍――律導器 《アークレーン》が低く唸る。
柄に刻まれた導律紋が淡く発光し、その律量は周囲の“地”と共鳴を始める。
カイルの律装は 《大地》。
八律相のうち、纏律(強化・装甲)に分類される。
リリムが“加速と撹乱”を武器とするなら、
カイルは“支えと防壁”をその本分とする律者だ。
槍を地へと押し込むことで、律量は床の構造そのものを「支柱」に変える。
沈まぬ足場。砕けぬ反力。
一度立てば、彼の陣は揺るがない。
リリムが走り回るための「舞台」を作り出すのが、カイルの戦闘形式だった。
虚禍が動く。
輪郭が揺らぎ、影のように伸びて三方向へと同時に分岐した。
リリムは即座に反応する。
電撃の推進で左へ跳び込み、虚禍の一つを切り裂く。
しかしそれは残像。輪郭の“遊離”に過ぎなかった。
「フェイクかッ!」
床下から影が迫る。
リリムの足元を掬い取るように、虚禍の腕が浮上した。
その瞬間、カイルが動いた。
槍の石突きを地に叩き込む。
「――《層律展開》!」
鈍い轟音。
床そのものが隆起し、壁のような岩板がリリムの背後からせり上がる。
虚禍の影腕はその壁に突き刺さり、寸前で止まった。
「サンキュー、カイル!」
「礼は後でいい、走れ!」
流動と支柱。
雷と大地。
二つの律装が噛み合った瞬間、虚禍の包囲は崩れる。
虚禍はわずかに後退し、黒い影を纏い直す。
そこから浮かび上がったのは、白い仮面のような装甲だった。
「……形態を変えたな」
カイルが低く呟く。
リリムも一瞬だけ剣を止め、虚禍を睨みつけた。
「やっぱり……〈面喰らい(マスクイーター)〉系列か」
〈虚禍〉と呼ばれる存在は無数にある。
そのほとんどは“影”を本質とし、質量や輪郭すら不定形。
ただし、その系統ごとに特徴があり、律者たちはそれを“系列”と呼んで識別している。
〈面喰らい〉――
常に黒影を纏い、その中から仮面状の装甲を浮かび上がらせる系列。
仮面はこの虚禍にとって「実体の代替」だった。
それは骨格であり、同時に核でもある。
仮面が割られぬ限り、影の本体は幾度でも形を再構築する。
新たな仮面を出現させた後、身体そのもの変化させるように動いた。
仮面を覆う黒影が膨張し、三本の腕のような影刃を伸ばす。
それは床を切り裂くのではなく、「床を床でなくする」――
つまり、存在定義を削ぎ落とす斬撃だった。
リリムは即座に跳ぶ。
稲妻を弾けさせ、側壁を蹴って反転。
影刃が追尾するように迫るが、彼女の律装は“機動そのものを稲妻で補強”する。
「速ぇ……けど、削られるぞ!」
カイルが警告する。
彼の視線の先で壁の一部が影刃に撫でられ、跡形もなく消失していた。
物質破壊ではない。存在そのものの“帳消し”。
面喰らい系列の最大の特徴。
それは“捕食”。
彼らは影で触れた存在の“定義”を削ぎ落とし、仮面に刻み取る。
刻まれた“顔”は虚禍の養分であり、次なる再構築の材料となる。
ゆえに、この系列は律者たちから忌避されていた。
――一度「顔」を奪われれば、虚禍はその人間を模した仮面を生み、能力の一端すら取り込んでしまうからだ。
「だからマスクイーターってわけか……気色悪ぃ」
カイルが槍を構え直す。
足元では導律紋が拡がり、床そのものを支柱化してリリムの足場を固定する。
その直上――リリムが稲妻を弾けさせた。
彼女は宙返りしながら影刃を避け、刹那の間合いで双剣を振り抜く。
刃が仮面を掠めた。
火花のような亀裂が一瞬だけ走る。
「……効く。やっぱ仮面だね」
「だが割り切る前に“喰われた”ら終わりだぞ!」
虚禍の仮面が、ギシリと音を立てた。
無機質な白面に、ひび割れのような「口」が浮かび上がる。
――笑っていた。
縦横無尽に伸縮する影が四方八方へと奔った。
それは単なる腕ではない。網のように絡みつき、獲物を覆い尽くす捕食の構え。
リリムは瞬時に加速。
雷を蹴り、地を離れて虚空を走る。
だが網の広がりは速い。逃げ切るより前に、空間そのものが“影”として塗り潰されていく。
「……ッ、間に合わない!」
呼吸の合間を縫うように、地が鳴った。
カイルが槍を振り下ろし、床一帯を持ち上げる。
隆起した岩の塊が壁のように影を押し返し、リリムの逃走路を強引に切り開いた。
「走れリリム! 仮面を割るまでは終わらねぇ!」
「了解っ!」
仮面を揺らめかせ、〈面喰らい〉は嘲笑のような振動を響かせる。
黒影の触手が空間を塗り潰し、床も壁も「有ること」を許さない。
リリムは双剣を逆手に構えたまま、呼吸を整えた。
――一瞬でも遅れれば“存在”を食われる。
稲妻の光が、彼女の脛から踵までを駆け上がる。膝のバネが弾け、壁を蹴った瞬間、空間そのものが稲光の線に裂けた。
カイルは地を踏み締め、律導槍を横薙ぎに振り払う。
槍の先端は仮面には届かない。だが地脈を貫くように走る律紋が床を膨張させ、影を押し返す。
「支える。だから……行け!」
雷鳴と地鳴りが、拮抗しながら交差する。
その光景を、ユウキは断崖の麓で見ていた。
無意識に拳を握りしめる。戦いの緊張は彼の皮膚にも伝わり、呼吸が浅くなる。
隣で、アリシアが静かに口を開いた。
「虚禍には無数の分類がある。仮面を持つ〈面喰らい〉はその一つに過ぎない」
ユウキは横顔を見た。彼女の声は戦闘の轟音に紛れず、むしろ鮮明に耳へ届く。
「奴らに“実態”はない。律量の原子――零子が剥き出しで存在しているだけの、不安定な残滓だ」
アリシアの視線は戦場を貫いていた。
「それでも形を保てるのは、〈面喰らい〉にとっての“仮面”のように、各系列が持つ《魂骸》と呼ばれる核を纏っているからだ」
――魂骸。
ユウキはその言葉を胸の奥で反芻した。
「魂骸は、かつて存在した生命や意識の残骸。魂の残り滓を凝固させたものだ。虚禍はそれを器にして辛うじて秩序を保つ。だが核が砕かれれば、たちまち零子に還り、形を失う」
アリシアの瞳は炎のように鋭かった。
「いわば、心臓にして棺。生と死の狭間にある虚ろな結晶だ」
戦場では、その「核」を巡る死闘が続いていた。
リリムが宙を駆ける。腰の捻りから生まれる慣性を膝に乗せ、双剣の軌跡を最短距離で仮面へと走らせる。
空気が震える。稲妻が後追いで軌跡を焼き付ける。
〈面喰らい〉は影を膨張させて迎撃する。
リリムの剣先が触れる寸前、黒い影が刃を覆い、存在そのものを削ぎ落とそうとする。
「――ッ!」
リリムは即座に逆脚で壁を蹴り、回転で慣性を逃す。刃は振り抜けず、火花のような律量の粒が散った。
間髪入れず、カイルが突進する。
槍の柄を低く構え、腰を落として全身を一つの線にまとめる。
――重心は前足へ。膝は外へ開き、踏み込みは直下へ落とす。
槍が放つ突撃は、ただの打撃ではない。地そのものを“支柱化”する纏律の力が加わり、質量の束が一点に収束する。
衝撃が空間を打ち抜く。
〈面喰らい〉の仮面が弾かれ、ギシリと悲鳴を上げた。
「……見えた」
リリムの瞳が細く光る。
仮面の縁に、かすかな亀裂。
それは魂骸の露出――存在の中枢に通じる弱点だった。
虚禍が吠えた。
声ではなく、圧縮された無数のざわめきが一斉に放出される。
遠巻きにいたユウキの鼓膜すら揺さぶり、背骨に冷たい電流を走らせた。
アリシアは唇を引き結んだ。
「ほらな。魂骸を抉られかけた虚禍は、本能的に抵抗する。――あれこそが奴らの“心臓”の証拠だ」
雷が跳ね、地が吼える。
律装の軌跡が交錯し、仮面へと収束する。
“核を穿つ”――そのただ一点のために。