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第23話 紫電の律装

 


静寂が張りつめていた。


崩れかけた遺跡のホール、その中心。

ひび割れた床面の下から、黒い「影」がゆっくりと滲み出している。


影の濃度は液体のようでありながら、どこか煙めいている。

触れれば溶け落ち、取り込まれることを誰もが直感できた。


 

「……出たね。虚禍きょかだよ」


リリムの声は軽い。

だがその瞳の奥に浮かぶ律量の光が、彼女の本気を告げていた。


彼女は双剣を逆手に構え、つま先をほんの数センチ外側へ滑らせる。

その角度はただの“立ち姿”に見える。

けれど律に敏感な者なら気づく。

彼女は既に、全身の律量の流れを収束させる姿勢に入っていた。


 

対して、カイルは無言で長槍を突き立てた。

石床に接地したその瞬間、床下に“円”が広がる。

青白い律の光が波紋のように広がり、ホール全体の空気が揺れる。


「……来るぞ。距離は二十」


低く告げる声は震えていない。

だがその肩越しに覗いた瞳は、確かに虚禍を射抜いていた。


 

虚禍は形を定めない。

黒い塊のまま、ふいに“影の触手”を幾本も伸ばした。


――しかし、それはまだ攻撃ではない。


影の動きは、あくまで「場を探る手」。

リリムとカイルの律量の流れを読み取り、

そこから奪い、侵食するための前段。


 

空気がわずかに震えた。


ユウキの耳にも届く。

律量が「削がれる」感覚。

自分の呼吸音までも、影に吸い込まれていくかのようだった。


(……これが、虚禍……?)


喉が鳴る。声にならない。


 

リリムは笑った。


「ちょーっとビビっちゃうかもだけどさ、ここからはマジだから」


そして、足を一歩――滑らせた。


ほんのわずか。

しかし床面に走った律の流れは、まるで“音階”のように高まり、虚禍の触手が一斉にざわめく。


カイルがすかさず槍を振り抜いた。

律の波紋が“縦の壁”となり、影の侵食を遮断する。


 

静と動。


床を擦る音すらない緊張の中、三者の間合いは固定される。

一歩も動かない。だが、張りつめた律がぶつかり合い、空間が軋む。


 

その瞬間だった。


影が裂けた。

白い仮面が闇から浮かび上がり、虚禍が「形」を得た。


無数の眼孔を持つかのようなその面は、誰かの顔を嘲笑うかのようで――


空間に、律の悲鳴が走った。




三者の距離は、正三角形の頂点に似ていた。


中央で蠢く虚禍を軸に、リリムとカイルが互いに“間合い”をずらしながら位置を取る。

一方は鋭い双剣を、もう一方は長槍を構え――互いの律量の流れを、敵に悟らせぬよう、微細な呼吸を合わせていた。



虚禍の“輪郭”は定かでない。

黒煙のように揺れ、時に液体のように滴り、時に刃のように細く鋭利に伸びる。

その「不定形の軌跡」が空間を疾り抜けるたびに、壁や床に律量の“擦過痕”が刻まれていった。


一撃ごとに確かな情報が削られていく。

あれは実体ではない。律の偏差だけが通り抜けた痕跡。

敵はまだ“本当の形”を晒していない。


 

「……カイル」


リリムが目だけで合図を送る。

視線のわずかな跳ね上がりと肩の沈み。

それだけで、彼女が“左側から虚禍の死角を取る”意思を伝えたことがわかる。


カイルも応じる。

わずかに踵を返し、左足を後ろに滑らせる。

その動きに虚禍の無数の眼孔のような「仮面」が揺れ、わずかにそちらへ向いた。


(誘いに乗った……)


二人の間合いが伸びる。

間隔は二十歩。

だが律者にとっての“戦場”とは、距離ではなく律量の流路によって定義される。

律量を通す回路――導律紋グリフを、どの空間に刻むか。

それが先手を取る条件だった。


 

リリムが双剣を立てた。


柄から刃にかけて細かく刻まれた刻印が、淡い紫光を帯びる。

――律導器 《ヴェルメリオ》。


対となる二本の刃を交差させると、その間に小さな律紋が浮かぶ。

幾何学的な円陣が虚空に滲み、彼女の律量を入力する“回路”となる。

そこに流れ込むのは、彼女自身の鼓動と呼吸。

出力されるのは――速度と鋭さ。


「いっくよ……」


虚禍の注意を逸らすため、リリムはあえて足を強めに踏み込む。

床を叩く音に、仮面が瞬きしたように揺れる。


 

同時にカイルの槍がわずかに旋回した。


黒鉄のような質量を帯びる穂先に、青白い律が流れ込む。

――律導器 《アークレーン》。


その槍の最大の特徴は、刃先から伸びる“虚空の律紋”。

軸を媒介にして空間に円環を描き、入力された律量を遠隔へと転送する。

牽制も、支援も、決定打も。

“律量の橋渡し”こそが彼の役割だった。


 

「右を開ける。合わせろ」


短く告げる声に、リリムがニヤリと笑う。

「了解っと☆」


双剣が交差する。

律紋が走り、紫の光が刃に沿って流れ込む。


同時に槍先が床を突いた。

青白い円環が広がり、リリムの律量がその中に吸い込まれていく。


――律量の共有。


それは、二人が一つの回路を組むということ。



虚禍の仮面が震えた。

敵が気づいた。

二人が“間合い”を完成させたことを。


黒い影が床を這い、左右に分裂する。

速度は矢のように鋭い。


 

「……来るっ!」


リリムが双剣を振り上げ、カイルが槍を構え直す。

虚禍との“初手”が、ついに刻まれようとしていた。



──一瞬の静止。


回路が繋がった二人の呼吸が、空間に吸い込まれるように沈黙を作る。

対する虚禍は、影を這わせながら間合いを潰しにかかる。


五歩。

その距離は、双剣が届かず、槍の最外郭に触れ始める位置。

“先触れ”を握るのはどちらか。


床を伝ってきた震動が、次の瞬間に“動”へと変わった。


 

黒い影が裂けた。


虚禍の身体――輪郭は霧のように揺らぎながらも、その中心を奔る斬撃だけは“確かな質量”を帯びていた。

空気が押し分けられ、壁際の埃が円弧状に跳ねる。

間合い、五歩。

その速度は、目視よりも先に“風圧”で先触れを伝える。


「――シッ!」


リリムの双脚が地を裂く。

踵を軸にひねり込み、わずかに外旋させた右足が“空間の抵抗”を切り裂いた。

続く左足が床を蹴り、身体は弾丸のように横へ滑る。

軽快でありながら、質量の流れを寸分違わず制御した脚運び。


虚禍の腕状の刃が、先ほどまでリリムがいた空間を叩き割った。

――轟音。

床石が三枚、同時に砕ける。


 

「リリム、右!」


カイルの声が響く。


彼の槍先から広がった青白い円環――《アークレーン》の律紋が、リリムの踏み込みの先へ展開する。

その軌跡はまるで足場。

リリムは迷わずそこに足を置いた。


虚空に光の踏み台が生まれ、身体が跳ね上がる。

回避から即座に“攻撃軌道”へと転換。

リリムの双剣が交差する。


「――裂け飛べ、《ヴェルメリオ》!」


紫電が刃を這い、律紋の回路が刃先へと収束する。

リリムの身体は宙でひねり、落下の重力を刃の加速に重ねる。

上方から虚禍へと叩きつけられる二条の斬撃。


 


だが。


虚禍の輪郭が歪む。

“斬られる”という因果を拒絶するかのように、仮面状の部位がわずかに揺れた。

斬撃が走った瞬間――黒い膜が反発するように隆起し、衝突面が“質量を持たない壁”に変化する。


紫電が弾け、衝撃音だけが残る。

 


「……弾いた!?」


リリムの瞳が見開かれる。

空中での体勢、残り二拍。

次の着地点を失えば、そのまま虚禍の反撃を受ける距離に――


 

——ゴォッ


カイルの槍が横から薙いだ。

《アークレーン》の穂先から律紋が解放され、床を這うように青白い円弧を描く。

それは「打撃」ではなく「入力」。

虚禍の足元に回路を刻み、強制的に律量を流し込む。


床が隆起した。

虚禍の体を真下から押し上げる“反動の衝撃”。

質量を持たぬはずの存在が、わずかに浮き上がる。

 

「ナイス、カイルっ!」


リリムが宙で身体を翻す。

両足を律紋の踏み台に乗せ直し、反発を加速へ変える。

双剣の軌道が再び収束――今度は横一文字。



リリムの双剣が、虚禍の仮面へと走る。


「──はッ!」


二条の斬撃が、十字の光軌を描きながら迫る。

その瞬間、虚禍の影が逆流するように蠢いた。

黒い幕が仮面から溢れ出し、まるで粘性を持った液体の壁が形をとる。


金属が衝突するような音はない。

“質量のないもの”と“収束させた律量”とが、無理やり同じ座標に存在した結果──

空気そのものが震えるような、低い共鳴音だけが響いた。

 

「押し返される……!?」


リリムの双腕に、異様な反力がかかる。

剣筋は正しく、収束も完璧。

だが虚禍の“拒絶膜”は、力ではなく因果そのものを押し返すかのように機能していた。


剣と影膜の間に、ごく僅かな“層”が存在する。

触れているのに触れていない──その矛盾が、リリムの双肩を軋ませる。

 

「下がるな、維持しろ!」


カイルの声。

次の瞬間、青白い律紋が虚禍の背後に縫い込まれた。

槍先から伸びる円環が、まるで“支柱”のように虚禍の退路を封じる。


虚禍は下がれない。

リリムの双剣と、背後からの律圧。

二方向から挟まれるかたちで、黒い膜が一層濃く膨張した。


 

力学は拮抗している。


リリムの刃が押し込むたびに、黒膜が揺らぎ、波紋のように広がる。

そのたびに床石が震え、周囲の空間が“圧迫される”。

数センチの間合いをめぐり、攻防は針の穴のような均衡点で止まっていた。


 

リリムが歯を食いしばる。

「……抜けろ、“クロス・ディバイド”──!」


双剣が交差する。

収束した律量が十字の衝撃波となり、拮抗を貫こうとする。


しかし虚禍も同時に反応した。

影膜が中心へと収束し、仮面が複数枚、花弁のように展開する。

“拒絶”と“収束”が同一座標で衝突。


光と影の干渉が、まるで硝子を擦り合わせるような高音を響かせた。


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